学校のなかだけでなく、考え方や遊び方、興味の対象や放課後の過ごし方まで、子どもたちはさまざまな同調バイアスに縛られています。

「友達の間で人気のゲームやマンガ、テレビ番組を見ていないと仲間に入れない」、「ノリが良くて笑いを取れるようなでないとみんなとうまくやれない」、「じっくり本を読んだりゆっくりものを考えたりするような人間は浮いてしまう」・・・そんな話を中高生のクライアントさんからよく聞きます。

ほんとに多様化?

「ライフスタイルが多様化した」などと言われますが、私が知っている限り、少なくとも東京近郊に暮らす子どもたちの風景は、とても画一的です。そして、そのためにとっても忙しそうです。

忙しい とにかくたくさんの子どもが、幼稚園や小学校低学年の頃から「みんなと同じ」ように塾や習い事に通い、私が子どもの頃よりもはるかに多くの時間を勉強に費やしています。

 何しろ今や、子どもが塾に行くのは当たり前。都心のある地域では、中学受験も当たり前です。保育園自体が運営している英会話教室や体操教室に行っている子どもも、いたりします。

 教育熱心な親が多いとされる地域に住む知人は、「近所にある公立の中学校に通っている子どもは『受験に失敗した子』という目で見られたりする。だからみんな受験に必死になる」と、その胸の内を語ってくれました。

 前にも書きましたが、小中学生のお子さんがいるクライアントさんの場合、ご相談の前後に塾へとお弁当を届けたり、土日は終日子どもの勉強をみて過ごすなどということをよく聞きます。
「子どもがいる親なら、働きながら『みんな同じ』ようにやっている」というわけです。
 
遊ぶのもたいへん

 そうして頑張って入った私立学校は、小学校から「みんなと同じ」制服を着て、バラバラの地域から通ってきます。放課後、自転車で集合して遊びに行くなんていうこともできません。
 
 休日に一緒に遊ぶにしても、模擬試験だの講習会だのがあってスケジュールを合わせるだけで一苦労。待ち合わせするにも「千葉の子が埼玉の友達に会いに行く」とか「真ん中にある都心で」ということになって、時間も交通費もかかります。

「せっかくの休みだから」と、気晴らしにお金のかかるテーマパークに行ってしまうという気持ちも分からなくもありません。「みんなと同じ」遊びは、とってもお金がかかるのです。

仮面 そんなふうに親も子も・・・とくに子どもは生まれたときから「みんなと同じ」に過ごすようにとされて行くわけですから、知らず知らずのうちに同調バイアスに縛られてしまうこともうなずけます。

 小学校に入る頃には、自分の感情よりも周囲のおとなの気持ちや期待を優先し、友達の様子をうかがっては自分だけ浮いてしまわないよう務め、社会が是認する価値に合わせて頑張る子どもや、そんなふうにできないことを卑下したり、「自分はダメだ」と思ってしまう子どもができあがります。

「みんなと同じ」に振る舞えなかったり、「みんなと同じ」ことに違和感を持つ子どもは、学校を中心とした同調サークルからはじき出されてしまうこともあるので、子どもにとっては「みんなと同じ」であることは、とっても大切なのです。

検証とは裏腹の提言

 こうして「みんなと同じ」になることをずっと子どもに強要しておきながら、前回紹介した宮城県石巻市立大川小学校の問題を検証した第三者委員会・大川小学校事故検証委員会は、その最終報告で「子どもが自分で判断・行動できる能力を育てよ」(提言11・13)と記しました。

 ところがそう書いた検証委員会自体が、山に逃げた子どもが連れ戻されたという矛盾は切り捨ててしまっていて、検証委員会自体もきちんと考え、判断した検証ができていません。
 さらに言えば、東日本大震災後に改正された宮城県地域防災計画等にも、大川小で何が起きたのかについてはまったく触れていません。

まずおとなが自分で判断・行動を

 311から7年がたちました。3月がこんなにも寒く、まだまだ雪が降る時期だったのだということを311以降、私は毎年実感しています。
 被災地を訪れた際、低体温症になって亡くなった方の話、津波で流された人を救助しカーテンでくるんで暖めた話、燃えそうな物を拾って暖をとった話などをたくさんたくさん、うかがったからです。

 昨日も東京に雪が降りました。私は「あの日のこと」を思い出さずにはいられませんでした。
 
「『みんなと同じ』ように行動したからこそ、救えるはずの命を救えなかった」ーーその事実を直視し、まずはおとなが「自分の頭で考え、判断・行動する」ことからはじめなければならないと、強く感じます。

「自分の頭で考え、判断・行動する」ことを放棄し、体制にすり寄り、権力におもねり、力を持った者に忖度する。そんな社会は、非常事態に対応できないどころか、だれも救うことなどできないのです。

ケーキ そんなふうに平等について考えていて、ふと、子どもの権利条約の講演でご一緒した、ある保育園の園長先生にうかがった話を思いだしました。

 スウェーデンだったか、ノルウェーだったか、はたまたデンマークかフィンランドの話だったのか、正確には覚えていないのですが、その園長先生がかつて見学に行ったことがあるという、とある北欧の国の保育園でのエピソードです。

 園長先生が見学した日、保育園では「ひとつのホール・ケーキをみんなで平等に分けるにはどうしたらいいか」と話していたと言い、園長先生は私を含めて会場全体のおとなに、こう尋ねてきました。

「いったいどんなふうに分けるのが平等になると思いますか?」

 この問いに、みなさんならどんなふうに答えるでしょうか。

違いを大事にする北欧諸国の保育

 偉そうなことをブログで書きながらも、日本社会の価値観に染まっている私の頭に最初に浮かんだのは「全員に同じ大きさのカットしたケーキがいきわたるよう、等分する」ということでした。
 実際、私自身も子どもの頃から、ずーっとそんなふうにされてきた記憶があります。

 でも、北欧諸国といえば「違いを大事にする保育が行われている」国です。日本では当たり前になっている集団保育などは行わず、「ひとりひとりの子どものニーズを大事にして、その子がしたいと思えることを応援するのが保育者の役割」という話を北欧での保育を体験した人たちから何度も聞いたことがあります。

 北欧の保育に関する本やDVDでも、保育士さんが「絵本を読むよ」と声をかけると、読み聞かせして欲しいと思う子どもがその周りに集まり、「お腹空いた人~」と声をかけるとキッチンの周囲にご飯を食べたい子が寄っていくというエピソードなどがよく登場します。

 一方で、それらに興味が無い子どもや、他に何かやりたいことがある子どもは、思い思いの場所で、自分のしたいように過ごすのです。

その答えは・・・

 そんな北欧の保育園での話ですから、まさか「全員に同じ大きさのカットしたケーキがいきわたるよう切り分ける」なんてことはあり得ません。

 私を含めて会場がしんと考え込んでいると、園長先生はまるで手品の種明かしでもするかのような雰囲気で、ほほえみながら答えを教えてくれました。

ケーキ「『どのくらいの量を食べたいか』とか『トッピングに何がのってるところが欲しい?』など、一人ひとりの子どもに聞いていくのです。たとえば『どうしてもいちごが食べたい』という子には、『じゃあ、その分、スポンジは他の子が多くてもいいかな』と尋ねたり、『デコレーションされている人形のチョコレートが食べたい』と言った子には、『今回はあげるから、次回はお友達に譲ってね』などと言いながら、『一人ひとりの子どもが望むように、なるべくみんなが納得するようにケーキをカットして配ることこそが平等である』と、その保育園では教えていました」(園長先生)

 私は「なるほど!」と、ひざを打つ思いでした。

好みはさまざま

 確かにチーズケーキは好きなのにスポンジケーキは苦手な子もいるはずです。多くの子どもが大好きなチョコレートだって、嫌いな子がいても不思議ではありませんし、果物のいちごは大好きだけど、ソースになるとあまり好きではないということだってあるでしょう。

もしかしたらケーキそのものが苦手な子どもだって、いるかもしれません。
 それなのに「子どもはケーキが好きなもの」と思い込んで、どの子にも等分にいき渡るようにして配ることが平等のはずはありません。

 1回目に書いたように、「さまざまな違いを持つ人間がお互いにその違いや価値を認め合い、だれもが世界にふたつとないがかけがえのなさを持っていることを尊重すること」が平等なのですから。

個人的な話題ですが

 まったく個人的な話になりますが、実は私はクリームやバターが苦手です。ですので、あまりケーキというものを好んでは食べません。それは子どもの頃から同じでした。

 それなのに、どこかにお邪魔すると満面の笑みでケーキを勧められ、無碍に断ることもできず、困るという経験が何度もありました。

「どうして一言、『ケーキが好きだったら、今あるんだけど、食べたい?』と聞いてくれないのだろう」

 子ども心にいつもそんなふうに思っていました。「尋ねてさえくれれば、断ることだってできるのに」と。

「目から鱗!」

 そんなふうに思って育ってきた私にとって、この北欧の保育園での話はまさに「目から鱗!」。平等とはどういうものなのか、なんとなく「もやっ」としていたものがすっきりと晴れたようでした。

 昨年末、このブログで国際的な「子どもの成長・発達のための約束ごと」である子どもの権利条約にもとづいた日本政府報告審査に向け、「自分たちの現状を訴えよう」と8人の子どもが国連「子どもの権利委員会」に『子ども報告書』を提出したということを書きました。

 そのときに引用した「多様性を認めない学校には行きたくない」とのタイトルの『子ども報告書』を書いた男の子は、「扱いづらかったり、自分の意見を持って発言したり、授業がつまらないから勉強に身が入らないでいたりすると、すぐに『発達障害』にされる」と、昨今の学校現場の風潮を述べていましたが、異質なものを排除しようという傾向は今にはじまったものではありません。

 日本の学校教育では、昔からずーっと差別というものが、歴然と存在し続けてきました。

アジア人だというだけで

世界はひとつ 昨年、『子ども報告書』を書いた子どものなかに、ミャンマーの少数民族であるカチン族出身の両親を持つ二世の女の子がいます。
 日本で生まれた彼女は、ずっと日本社会で育ってきましたが、「アジア人である」というだけで白人であれば受けることはなかったであろう、さまざまな偏見や差別を受けてきたとそうです。

 こうした環境の中で育った二世のなかには、自分にルーツのある国を大事にできなかったり、自分が外国人であることを恥じる子どもが大勢いて、いじめを恐れて日本名に変えてしまう子どもも少なく無いそうで、彼女自身も、小学校の時、転校を気に日本名を使ったことがあったと言います。

「自分は周りの日本人の子どもと『同じ』ような名前に変えてしまえば目立たず周りと『同じ』になれ、からかわれずにすむだろうと考え」(「日本で外国人として生きたい」/『子ども報告書』、国連で意見表明をする会)て・・・。

 その後、彼女は両親が愛を持ってつけてくれた名前を変えてしまうのはよくないと気づき、今はもともとの名前を使っています。

 そんな彼女は、今年2月、国連で次のような意見表明をしました。

「『自分は自分でいい』、『他と違ってもいい』という当たり前のことを日本の学校教育の中で私は一度も聞いたことがありません。日本社会では『他を認め受け入れる』こと、すなわち一人ひとりの個性の大切さを知っているおとなや子どもは、本当に少ないと思います」

チューリップ「『自分は自分でいい』、『他と違ってもいい』という当たり前のことを日本の学校教育の中で一度も聞いたことがない」と語ったこの難民二世の女の子は、どうしたら日本で育つ子どもたちが「他を認め受け入れる」ことができるようになり、差別の無い社会、外国人の子どもが胸を痛めたりすることが無い日本をつくっていけるかということについても、国連の委員の方々の前で、次のようにはっきりと述べています。

「親や先生など身近なおとなたちが子どもの言葉や気持ちを聞き入れて、それをそのままで肯定することで、子どもは『自分は愛されている』『自分は大切な存在だ』と知ります。このような自己肯定が持てるようになってはじめて、自分とは違う他の人のことも肯定することができます。
 日本の子どもたちが家庭でも、学校でも、社会でも、今よりももっと愛されれば、子どもの『他を認め受け入れる』心が養われるはずです」

道徳を教科にしても

 この4月から「教科外の活動」として成績評価の対象外だった道徳が教科化されました。道徳を教科とすることには賛否両論ありますが、「違いを認められる人になろう」とか「差別をしてはいけない」と、子どもに教えることに異議を唱える人はいないでしょう。

 しかし、この女の子も言っているように、日本では学校という場所自体が違いを認める場になっておらず、子どもが日々の生活のなかで「自分は大切な存在だ」と実感できない教育しか行われていないのだとしたら、いくら道徳を教科にしても、その効果のほどはたかが知れています。

「ちっぽけなあなたが何より大切」

「違いが認められる子どもになって欲しい」「差別やいじめをしない人になって欲しい」と思うのであれば、子ども自身が「自分はとっても愛されている」と思えるような関わりが必要です。

 成績がいいとか、スポーツができるとか、何かに秀でているからなどではなく、期待に応えられるとか結果が出せるからというのではなく、「何もできないちっぽけなあなたでもいい。そんなあなたが何よりも大切なんだ」と言ってくれるおとながいなければなりません。
 
 無視されたり、自分の思いや願いを聞いてもらえないことなどが無く、子どもが「ねぇねぇ」と呼びかけたときに、「なぁに」と顔を向けてくれるおとなとの人間関係こそが、大事なのです。

 かつて読んだ小説だったのか、民俗学的な本だったのか、はたまた映画だったのか・・・。具体的な記憶は定かではないのですが、「日頃は隠している、もしくは隠したいと思っている本性を解放する方法は主に二通りある」という話をどこかで耳にしたことがあります。

 その代表例のひとつとして挙げられていたのは、リオのカーニバルでした。リオのカーニバルのなかでも有名なサンバは、露出の高い派手な衣装に身を包み、踊ります。それは日頃は、隠し持っている「もうひとりの自分」を心ゆくまで解放し、放出することにつながるという話でした。

自分を隠し、自分を解放

 そしてもうひとつは、ヴェネツィアのカーニバルです。自分をさらけ出すことで、「もうひとりの自分」を解放するリオのカーニバルに対して、こちらは仮面を付け、自分を隠すことで「もうひとりの自分」を解放します。

 その起源は、中世後期のヨーロッパ宮廷において行われた、寓話的で凝った衣裳による壮麗な行列や、婚礼を祝う誇らしげな行進や、その他宮廷生活における派手な催しや余興で、代表的なものが仮面舞踏会と呼ばれるものだそうです(ウィキペディア)。

 その後、仮面舞踏会はヨーロッパ各地で大流行し、「倫理・道徳を失わせる」「風紀を乱す」などの理由で反対する人や、禁止する統治者がいたほどということですから、貴族を中心に多くの人が仮面舞踏会に興じたということなのでしょう。

日本のハロウィーン

ハロウィン

 ハロウィーンが近づき、オレンジのカボチャや黒と紫のお化けなどが目に付くようになると、なぜか私は必ずこの話を思い出します。

 若者を中心にハロウィーンを楽しむ人が増え、大胆な仮装やびっくりする衣装に身を包み、風貌がよく分からない人を目にすることが増えたせいなのかもしれません。

 本来のハロウィーンは、古代ケルトを起源とするお祭で、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事だったそうですが、今ではカボチャをくりぬいてジャック・オー・ランタンをつくって飾ったり、子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々でお菓子をもらったりする行事になりました。
 
 さらに近年の日本では、渋谷を中心に若者が仮装をして夜の街で遊ぶというイメージがすっかり定着しています。

喧嘩 そうしたなか、年々、渋谷でのハロウィーンの問題がクローズアップされてきました。

 お祭り騒ぎに乗じた盗撮や痴漢行為、ゴミのポイ捨てや飲酒マナーの悪化などなどが指摘されています。
 ここ数年は、10月31日が近づくと渋谷界隈は物々しい数の警察官が警備をし、警察官と仮装姿ではしゃぐ若者が入り乱れる異様な雰囲気に包まれます。

軽トラ横転事件も

 今年は、仮装した集団が軽トラックを横転させる事件も発生しました。

 これらを受け、長谷部健渋谷区長は「10月31日のハロウィーンに向けたお願い」というコメントも発表しました。

 区長は、複数の逮捕者が出たり被害届が出されるなどの犯罪行為が行われている状況に憤り、「犯罪に至らなくとも、ルール、マナー違反をしている人たちの様子も多く報道されております。そのような人たちは、渋谷を愛し、この街を誇れるものにしていく思いのない人たちです」と、節度を守らない人々への不快感を示しました。

なぜ若者は渋谷に集まるのか

 それにしても、なぜこんなにも渋谷のハロウィーンに人が集まるのか。11月1日の『livedoor NEWS』によると、ハロウィン当日の31日に渋谷で話を聞いてみたところ、海外を含め、東京や埼玉・千葉・神奈川をはじめ、愛知、大阪、滋賀、福島など、全国各地から仮装する若者が集まってきていたそうです。
 その様子を同記事ではこんなふうに紹介しています。

「世界各国でもこれほど大規模な面積でストリートハロウィンが繰り広げられる街は無い。海外でも話題となり、是非一度日本の渋谷ハロウィンに行ってみたいという外国人も多い。世界的祭典として認知されているようだ」

日本人のイメージとは縁遠い

 こうした犯罪まで起こるようなお祭り騒動は、世界的に見ても「物静かでおとなしい」イメージのある日本人とは縁遠く見えます。

 みなさん、2020年に行われる東京五輪招致の最終プレゼンテーション(2013年)で、フリーアナウンサーの滝川クリステル氏が、日本の治安の良さや安全性と一緒に、日本人が人々を思いやる心や強い親切心を「おもてなし」という言葉に込めてスピーチしたことは記憶に残っていることでしょう。

仮面舞踏会 2011年3月の東日本大震災のときもそうでした。

「津波がついそこまで来ている」というのに、車の渋滞の列に並び続ける人々、震災後に不足したガソリンや水を買い求めるために、静かに待つ人々。
 そんな日本人の非常時の行動については、今年2月、このブログ「雪の日に思う(3)」にも書きましたが、暴動化してもおかしくない状況でも、節度を守って行動する日本人の姿は、「遠慮深く慎み深い」と、海外メディアでも驚きと感嘆を持って表されていました。

 ハロウィーンのときには、世界各地から来日する人がいるほど大規模化するお祭り騒ぎを繰り広げる日本人と命の危機にさらされたときにさえ慎み深く行動する日本人。

 この両極端ともいえる状態をいったいどんなふうに考えればいいのでしょう。

スプリットされた日本人

 何も私は、「いったいどちらが日本人の本当の姿なのか」などという疑問を投げかけるつもりはありません。
 どちらも日本人の国民性のなかに同居していて、どちらも日本人の特質を現しているのだとは思います。

 気になるのは、そのスプリットされた状態です。

「仕組まれた自由のなかで(1)」で書いたように、「倫理・道徳を失わせる」「風紀を乱す」などの理由で戒められた仮面舞踏会に狂喜乱舞した王侯貴族たちは、普段は紳士淑女然として振る舞い、仮面をかぶると別人のように破廉恥な振る舞いに酔いしれました。そこにはきっと極端に抑圧された欲求、押さえ込まれた自己が存在したことでしょう。

「こうしなければならぬ」「あれをしてはいけない」という社会の掟、世間のルールにがんじがらめにされ、存在することさえ許されなかった欲望が、王侯貴族たちのなかに渦巻いていたに違いありません。

日本人の防衛手段?

 そうした歴史の事実、仮面が人にもたらす影響を考えてみたとき、今の日本人のスプリット(分裂)した状態は、社会の規範が強まり、「真の自己」を隠すどころか、「真の自己」を否定して、「偽りの自己」として生きることを強いられた人々が、そんな現実から目をそらすための防衛手段のようにも見えます。

 この世には、「完璧に善である人」も「絶対に悪である人」も存在しません。人間であるからには、善と悪を両方とも持っていますし、発達度合いや置かれた状況にもよりますが、本能的な欲求もあれば、欲求を抑える理性も兼ね備えています。

そのどちらか一方だけをクローズアップしたり、逆に見ないようにしてしまったら、自分を受け入れながら自分らしい人生を生きていくことも、安定した人間関係を築くことも、難しくなります。

顕著な例は境界性人格障害

 その最も顕著な例は、自殺企図や人間関係のトラブルが顕著な境界性人格障害の人たちでしょう。その特徴のひとつは、「他者の激しい理想化とこき下ろし」という、他者イメージのスプリッティングです。

 つい昨日までは、「あなたほど素晴らしい人はいない」と盲目的に称賛していた他者を、今日になったら「私がこんなに苦しいのはおまえのせいだ!」とののしったりするため、信頼のある関係性を続けていくことが難しくなりなますし、理想を追い求めては裏切られることを繰り返していますから、本人の心はいつも傷だらけで血が流れています。

 また、自己イメージも同様にスプリッティングされていますから、自分自身のイメージも統合できず、結果的に悪い自己イメージに囚われてしまいます。
 
「自由な社会」という幻想

「こうあるべき」「こうでなければならない」という規範が強まった現代の日本社会では、それに合わせ、そこからはみ出さないように生きることを強いられます。その縛りが強くなればなるほど、振り子が逆に振れるように、抑圧した欲求も強まります。

 そんながちがちに縛られた社会にでありながら、「今の日本は自由な社会」という幻想がはびこっています。
「進学するかしないかは本人の自由」
「どんな仕事に就くのかは自分で決めること」
「有休をめいいっぱい取る権利も、育児休暇を取る権利も保障されている」

抑圧された「真の自己」の解放

解放 ・・・挙げればキリがありません。確かにその通りです。しかし実際にはどうでしょうか。進学しなければ、仕事を選ばなければ、労働現場で当然の権利を主張すれば、多くの場合、肩身の狭い思いをさせられたり、リストラの対象になったり、昇給や昇進が妨げられたりします。

「すべてはあなたの自由ですよ」と言われても、それにともなう理不尽な不利益の責任も引き受けなければいけないわけですから、人々は必死で枠からはみ出ないよう、「真の自己」を隠して頑張るしかなくなります。

 そんな仕組まれた自由のなかで生きている日本人が、抑圧された「真の自己」を解放するには、素顔を隠し自分とは違う者を装う、ハロウィーンの一夜が必要なのかもしれません。