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別猫のように強くなって

彼女が別猫のようになったのは、わが家の縁側で子猫を産み、その子猫たちを無事、里子に出した後。「この家は安全」と安心したのか、少しずつなついてきました。帰宅すると玄関前で迎えてくれるし、私が家にいると中をうかがって鳴いたりします。

当初は庭で外猫として飼うつもりでしたが、北風が吹く季節に寂しそうに窓ガラスからこちらを見つめている姿を見ているととても心が痛みました。

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「ここまでだよ」
そう言い聞かせて玄関先に入れたが最期。いいつの間にか、リビング、こたつ、私の寝室・・・。次々と家の中が、彼女にとって居心地のいい空間に変わっていきました

すっかりわが家の猫となったある日、びっくりするようなことが起きました。あの大猫が家の庭を横切ろうとすると、彼女が毛を逆立てて庭に走り出たのです。
「家に入ってこないでよ!」とばかりに、体を膨らませて声を上げる彼女に、怯えていた頃の姿はみじんも感じられませんでした。

それからというもの、大猫が家の庭を我が物顔で歩くことはなくなりました。どうも彼女に対して一目置いている様子です。何度かケンカもしていますが、お互いの存在を認め合い、「嫌だけど共生する」雰囲気が出来上がったようです。今では、それぞれのテリトリーを意識し合いながら暮らしています。

今では、20キロ以上もの体重差のあるわが家のゴールデン・レトリバーに猫パンチをくらわせたり、うるさいほど鳴いて人間に何かを要求したりしています。
近所に来た工事業者のトラックに乗っかって遊んだり、近所の家の庭に探検にでかけたりなど、好奇心もいっぱいです。(続く…

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居場所があれば人生はやり直せる

今、私の布団に潜り込み、揺すっても起きないほど熟睡している彼女を見ていて、つくづく感じること。それは「居場所(安心できる関係性)があれば、こんなにも自信を持ち、好奇心を満たし、自由に振る舞ことができるんだ」ということです。

そして、どんなに過酷な過去を持っていても、「居場所ができれば人生をやり直せる」ということです。

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それはかつて私が、非行少年やホームレスの方々と接するなかで実感したことと同じでした。
確かに人間は、知的能力が高く、複雑な脳を持っている分、動物のように簡単に過去を乗り越えることはできないかもしれません。年齢を重ねるごとに過去を乗り越えることは困難になるでしょう。

それでも、やっぱり「やり直しのきかない人生などない」のです。自分が出会った人々(や動物)たちの経験から、そう確信できます。
その思いを胸に、今年も多くの人たちのお話を聞かせていただきたいと思っています。本年もどうぞよろしくお願いいたします。(終わり)

つい先日、とっても素敵な「おじーちゃん」にお会いしました。お名前は石山朔さん。86歳にして「日本抽象画界の大型新人」と目されている希代の芸術家です。[石山朔ホームページ

2007年3月19〜30日の間、東京・日本橋のDIC COLOR SQUARE「迷走する色彩〜hue-meditation〜」で見ることができます。

絵心など皆無の私でさえ朔さんの作品には目が釘付けになります。何しろ、絵のサイズが半端じゃない。油絵に使っているキャンバスは、なんと500号!
・・・と言ってもピンと来ない方も「約畳6畳分」と言えば驚きが伝わるでしょうか。
そんな超巨大なキャンバスが100を超える色で埋め尽くされているのです。


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朔さんの絵をあえてひと言で表現するなら「生まれたての命のように力強い線と、万華鏡のように美しい色彩のダンス」。
魂の鼓動と生きる喜びという縦糸に、世の不条理や厳しさという横糸を織り込んだような色の迷宮がキャンバス一面に広がっています。

作品に向かうと、最初はただただ圧倒されるばかり。でもそのうち、混沌(カオス)、自然調和、宇宙、極楽浄土・・・そんな言葉が浮かんできます。太古から人間が持ち続けてきた荒削りだけれどプリミティブなパワーを感じます。

子どもたちに大人気なのもきっとそのせい。
絵を見たとたん、朔さんのひ孫さんはオペラを歌い出し(朔さん自身がオペラの名手。訪れた日もアトリエで「o sole mio」を歌ってくださいました)、近所の養護学校の生徒たちは歓声を上げ、展覧会に来た子どもは走り出すそう。
おそらく、おとなの曇った瞳には映らない“何か”が、子どもには見えるのでしょう。(続く…

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フレンドリーな「おじーちゃん」

「こんな壮大な作品を描く石山朔さんとはいったいどんな人なのだろう?」

自宅をかねたアトリエを訪ねたときは、正直言ってちょっと緊張していました。ピカソやゴーギャン、ムンクなどが頭をよぎります。孤独や苦悩を抱えた気難しい巨匠たちの、孤独や苦悩、不安感、気難しそうなイメージが、まだ見ぬ朔さんに重なります。

ところが、会ってびっくり。今まだかつて会ったことがないほど、陽気でフレンドリーな「おじーちゃん」でした。

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その日、庭では2歳になるひ孫さんが笑い声を上げて駆け回っていました。
門を開けると、ひ孫さんの相手をしていた女性(朔さんのお孫さん)が「いらっしゃーい!」と声をかけてくださり、「おじーちゃーん、お客さん来たよー」と奥に向かって叫びました。
庭に出てきた朔さんは「やぁ、よく来たね!」と張りのある大きな声。久々に訪ねてきた孫娘でも迎えるように両手を広げて迎え入れ、握手してくれました。温かく、力強い手です。
この手で、時に直接、絵の具をキャンバスに広げ、半世紀近くも作品を生み出してきた朔さん。力を込めて色を重ねるパステル画のために変形した関節が、けして平坦ではなかった人生を感じさせます。それなのに、まるでお地蔵様のような笑顔です。

朔さんの奥様、ふたりのお孫さんとそのパートナーの方なども、家の中からわらわらと出てきては、口々に歓迎してくれます。
S.A.K.U. PROJECT総出での出迎えです。(続く…

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S.A.K.U. PROJECTとは?

S.A.K.U. PROJECTとは、「石山朔と彼の作品が世界中で愛される芸術的遺産として認められるようになること」だけを目標にしたプロジェクトです。

展覧会を企画・主催したり、ホームページを運営したりするなど、朔さんに関するプロデュースやPR活動を一手に引き受けています。2007年に横浜バンカート(神奈川県)で個展が開かれ、その様子がNHKで紹介されてからはインターネットを通して問い合わせが殺到し、嬉しい悲鳴を上げています。

そう聞くと、とてつもない大プロジェクトかと思いがちですが、メンバーは朔さんの孫でS.A.K.U. PROJECT代表のエリスさんとその奥様を中心とした家族6人。庭で遊んでいたひ孫さんが最年少メンバーです。

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プロジェクトの発足は2000年頃。当時、イギリスに住んでいたエリス夫妻は「とにかく祖父の絵を多くの人に見て欲しい」と、写真撮影を始めます。実物の色に近づけようとカメラのことなど何も知らないというのに一眼レフカメラまで購入し、ポストカードをつくりました。そして、買い集めた美術書からリストアップしてあった世界中のギャラリーに送ったのです。

「約250カ所に送って返事が来たのは7カ所。それも断りの内容ばかりでした。今思えば、送られた相手は『なんだ、これ?』と思っただけだったでしょうね。アート界の常識を知らなかったからこそ出来たことでした」と、夫妻は笑います。

2002年、夫妻は「実物が日本にあるのだから、やはり日本でPRしなければ」と、イギリスでの仕事を辞めて帰国。本格的にS.A.K.U. PROJECT取り組み始めました。
でも、その動きは相変わらず地味。会社勤めのかたわら、東京中のギャラリーを尋ね歩いたり、ホームページを開いたり、興味を持ってくれたアート関係者と会ったりという日々でした。

S.A.K.U. PROJECT初の大仕事は2004年に高崎シティギャラリー(群馬県)で開いた個展。チラシもポスターも、もちろん手作り。開催期間中はギャラリー前で「ちょっと見て行ってください」と、呼び込みまでしたそうです。

とにかくエリスさんの思い入れは半端ではありません。17歳のときには「いつか祖父の作品を世の中に広める」と心に誓っていたほどです。
イギリスで知り合った今の奥様をはじめて自宅に誘ったときのセリフも「家に絵を見に来ないか?」でした。

「祖父の絵を見ていると、本当にその世界に吸い込まれそうになる。何時間見ていても飽きません。自由奔放で独特の色彩を持ち、かつ緊張感とスリルにあふれた作品は祖父の人生そのもの。祖父と祖父の作品は私にとって太陽のような存在です。祖父は自身の生き方と作品を通して『自由に生きろ。だが、権力や凡庸にはけして屈するな』と、私に教えてくれました」(エリスさん)

幼いエリスさんの面倒を両親以上に見てくれたのは朔さんとその奥様。エリスさんにとって、朔さんの絵に囲まれたアトリエは聖域であり、寂しさを慰めてくれる空想世界でした。

エリスさんがこの世に生を受けたのも、朔さんがふたりの娘をイギリスへ行かせたから。借金が一段落すると(詳しくは後述)、朔さんは「狭い日本にいてはダメ」と、娘たちを海外へ送ったのです。
それから3年後、イギリス人のパートナーと一緒に帰国した長女のお腹に宿っていたのがエリスさんでした。

そのとき、長女は自分の妊娠に気づかないほどガリガリに痩せていました。「これで無事な子どもが産まれるのか?」と不安がる家族に、朔さんは「どんな子が生まれても、育ててやる」と言ったとか。(続く…

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image070326.jpg作品は「今この瞬間を生きる石山朔」

それにしてもなぜ、こんなにも巨大なキャンバスが必要なのでしょう。朔さんに聞いてみました。

「86年の人生と思想があって、その生き様を表現している。自分自身の体と人生をぶつけて描くんだから、やっぱり大きくないとダメだよ。できることなら、もっと大きいキャンバスに向かいたいんだ」

500号は画材屋が布を張ってくれる最大の大きさであり、朔さんが一人でキャンバスを回しながら描くことができる限界であり、アトリエに入るギリギリのサイズなのだそう。


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インスピレーションに任せて描くため下絵は描きません。ぶっつけ本番で構図を取り、後は毎日コツコツと、その日、その時にひらめいた色を置いていきます。一見、粗野にも見える大胆な色と形が、その瞬間の心の動きであり、インスピレーションであり、感性・・・つまり、「今この瞬間を生きる石山朔」を表現したものなのです。

自由に、そのときの感情や思い、心の状態にふさわしい色をキャンバスにぶつけていくのが朔さんの描法。本人曰く「その作業は日記を書くようなもの」だそうです。
使う道具も、そのときさまざま。筆、布、綿棒、竹、指や爪までも駆使し、渾身を力で描く。没頭すると、食事も忘れ10時間近く立ちっぱなしで作業を続けることもあります。

来る日も来る日もキャンバスに向かう朔さん。その原動力は“怒り”だと、エリスさんは言います。
朔さん自身も本(『Saku Ishiyama 石山 朔〜o sole mio』)の中で、こう書いています。

「表現の根源にあるのは虚実と偽善に対する反抗であり、粗野で荒々しいその中に真実を求めようとする。その強さと重さを増大したい思いからキャンバスの大きさを必要ともする」

確かに、ていねいに塗り込んだ色や、それを拭き取った跡、躍動するような線などを見ていると、不器用なほどまっすぐな生き様と生来の繊細さが調和し、ひとつの思想世界を創り上げていることが分かります。(続く…

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朔さんは言います。

「絵も文章も、自分自身を追求する手段。だけど、絵は文章と違う。頭で考えたアイディアを形にしているわけじゃない。生活そのものから描いている。だから行き詰まることもない。今は描くことが楽しいし、毎日が充実している。絵を描く醍醐味を感じているんだ。もし文章を書き続けていたらこうはいかなかったろうね。今頃、死んでいたかもしれない」

実は朔さん、かつては新聞記者でした。色彩豊かな絵を描くようになったのも取材で出会った芸術家・岡本太郎氏に影響を受けたから。当初は、文筆業の傍ら、鬱積した気持ちをぶつけるために絵を描いていたのです。

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ところが戦後、組合活動をしていたことからレッドパージにひっかかり新聞社を追われることになりました。定職のない貧乏生活の中で長編小説『交尾種族』を書き上げたのですが、出版社と折り合いが付かず、自宅を抵当に入れて自費出版することになります。
どん底の生活の始まりでした。経済的にも精神的にも行き詰まり、壁に頭を打ち付けるほど悩んだと言います。

そんな朔さんを救ったのは奥様の「家を壊さないで」という言葉と共に手渡した画用紙とクレパス。1960年、50歳のときでした。

その頃の作品には底なし沼のような苦悩が充ち満ちています。「あまりにも息苦しそうな絵だったから出刃包丁で切り裂いてしまった」(朔さん)という作品も見せてもらいました。
幾重にも彩られた渦は少しくすんでいます。先の見えない閉塞感や不安感を表しているのでしょうか。それとも自分を見つけられない焦燥感や苛立ちでしょうか。
かつて朔さんがさまよった生き地獄がどれほど深いものだったのか、ひしひしと伝わってきて、胸が苦しくなってきます。(続く…

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怒り”とは「他者との関係の維持を求める欲求」

朔さんの“怒り”が、何に対する、だれに向けた“怒り”なのかは分かりません。本人がけして口にしないからです。
でも、たったひとつだけ分かることがあります。朔さんのなかの“怒り”は少しずつ変化してきているということです。
近年の作品には、初期の作品にあった重さがありません。古い作品から順を追って見ていくと、破壊的な雰囲気がじょじょに消え、優しい、包み込むような印象が強まっていきます。
作品全体の色彩は鮮やかになり、瑞々しさが増しています。スピード感ある線のリズムは生命力に満ち、ほとばしるポジティブなエネルギーを感じさせます。

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“怒り”はとても大切な感情です。
私たちが自分の身を守るために無くてはならないものですし、“怒り”にむりやりフタをしようとすればうつにもなります。
IFF相談室顧問の斎藤学は“怒り”についてこんなふうに述べています。

「“怒り”というのは、人間にとって大事な感情です。母親がいなくなると赤ん坊は泣きますが、あれは赤ん坊の“怒り”。“怒り”は他者との関係の維持を求める欲求であり、相手に自分の“必要”さを伝える道具でもあるのです」(『週刊金曜日』2005年5月13日号)

それでも必要なものが得られなかった場合、“怒り”は“憎しみ”や“恨み”、“あきらめ”へと変化し、破壊的な様相を帯びていきます。

しかし、もう半世紀近く“怒り”を表している朔さんの絵には“憎しみ”も“恨み”も“あきらめ”も感じません。
“怒り”は見事に昇華され、破壊とは対照的なところにある命あふれる創造の世界を造り上げています

朔さんの怒り(=他者との関係の維持を求める欲求)を昇華させたもの・・・。それは何だったのでしょうか。
帰り際、私を送り出してくれる朔さんを暖かく見つめる「S.A.K.U. PROJECT」の眼差しの中に、その答えを見つけた気がしました。

朔さんの作品は2007年3月19〜30日、東京・日本橋のDIC COLOR SQUARE「迷走する色彩〜hue-meditation〜」で見ることができます。ぜひ足を運んでみてください(HP)。

image_okinawa_1.jpg 9月の連休を利用して、沖縄の離島に行って来ました。
はじめて沖縄に行ってから、10数回目の沖縄旅行ですが、今回、初めて噂に聞く沖縄の台風に遭遇。それも「島の観測史上2番目」という大物に出合いました。

人が飛ぶほどの暴風雨で、台風によって建物が揺れるということを初めて体験しました。さらに浸水、停電、雷鳴・・・たたきつける雨でドアが膨張して開かなくなり、部屋に閉じこめられるという経験もしました。

エアコンも効かず、蒸し風呂のようになっていく部屋。最後は、暴風雨のなか愛犬(しかもゴールデン・レトリバー)を抱えて、窓から脱出! とあいなりました。

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たくさんの子どもと出合った島

なかなかレアな経験が出来た今回の沖縄旅行。でも、台風よりも印象に残っていることがあります。島で会った子どもたちです。

泊まった宿のお子さんたちをはじめ(なんと5人兄弟だそうです)、ドライブの最中に道を教えてくれた子ども、登下校の間に道草をくっていた子ども、海岸で貝拾いをしていた子ども、友達とおいかけっこをしながら道を走っていた子ども、店の前で地面に絵を描いていた子ども・・・。

出生率1.71(平成18年度版『少子化社会白書』より)と全国ダントツトップの沖縄(ちなみに全国最低の東京の出生率は0.98)を実感できるくらい、ほんとうにたくさんの子どもと会いました。
出張することの多い私ですが、子どもがおとなの付き添いなしに、自然に遊んでいる姿をあんなにたくさん目にしたのは久々のことです。

実態のない「子どもの安全」が言われるようになって(ブログ「子どもが危ない」参照)、子どもがひとりでぶらぶらと歩いている姿さえ珍しくなった昨今。島で会った子どもたちのように、すすんで道案内してくれたり、笑顔で話しかけてきてくれたりするような子どもと出合う機会は、とても少なくなっています。(続く…

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とびだすぞ! ゆっくりはしってね

image_okinawa_2.jpg そんな、子どもたちがいっぱいいる島で「へぇ〜」と思う看板を見つけました。
小学校のすぐ近くにある路地に立てられ交通安全を促す手描きの看板です。おそらく子どもが描いたのではないかと思うもので、こんなふうに書いてありました。

「とびだすぞ! ゆっくりはしってね」

イケてると思いませんか?

子どもの飛び出し防止の標語としてポピュラーなのは、子ども側に注意を促す「飛び出すな! 車は急に止まれない」というものです。少なくとも私が小学生だった○十年前には、このフレーズの入ったポスターや標識があちこちにありました。

でも、ほんとうは逆のはずですよね?
法律から考えても、子どもを交通事故に遭わせないための義務はドライバー側にあるはずだし、何より「子ども」という存在ーー何かに夢中になったり、目の前しか見えなかったりーーを考えたときに、「子どもの側に交通安全の責任を押しつけるようなフレーズはどうなのか」と、いつも思っていました。

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この看板や、沖縄で出合った子どもたちの中に、島の人々が「子ども」という存在をどんなふうに考えているのかが、少し見えたような気がしました。

沖縄は「夢の島」?

でも、だからと言って、沖縄の島が「夢の島」なわけではありません。
私が行った島は今、空前とも言える土地バブルに沸いています。定年退職した団塊の世代が移り住むようになったからです。地元の人たちとのトラブルも絶えないと言います。

沖縄の習慣になじもうとせず、都会の生活習慣を持ち込んで地元の人たちを辟易させている移住者がいます。他方、「よそ者は来ないで欲しい」と頑なな態度を崩さない地元の人たちもいます。

ほんの少し、注意深く耳を澄ませていると、「美しい海に囲まれたリゾートアイランド」という、沖縄の“表の顔”からは想像できない悲鳴が聞こえてきます。

今回、それを強く感じたのは港の周辺に掲げてあった、教科書検定の意見撤回求める「沖縄県民大会」への参加を呼びかける横断幕でした。

後日、帰宅してから、9月29日の県民大会には、11万人が集まったというニュースを見ました。
今年の教科書検定で、沖縄戦で起きた住民の集団自決への日本軍の関与や強制を表す今までの記述が削除されたことに対し、県民の怒りが結集したのです

本土に暮らす私たちにが「歴史の教科書の出来事」と思ってしまいがちな戦争も、沖縄の人たちにとっては、「今につながる現実」なのだと実感させられたニュースでした。(続く…