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image090814.jpg これは本当にすごいことです!

何度もこのブログでも書きましたが、「何でも自分でできる『自立した人間』」などというものは、今の社会が創り出したフィクションに過ぎません。

私たち人間は、みな「だれかとつながりたい」という欲求を持って生まれてきます。
赤ちゃんが、たとえお腹が空いていなくても「側にいて欲しい!」と、温もりを求めて泣くことを思い出してください。

特定のだれか、自分に安心感・安全間をくれるだれかと「つながっている」という感覚は、一人生まれ、死んでいく私たち人間が、人間存在として抱えている根源的な孤独や不安から解放されるためになくてはならないものです。


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感情を揺さぶるミーちゃん

そんな「人間らしさ」を否定しようという社会の中で、ミーちゃんは「弱い存在」であることで、私たちの心に眠る「人間らしい」感情を呼び起こしました。

「放っておけない」
「かわいそう」
「なついてくれてかわいい」

そんな感情をわき起こさせ、私たちが生まれながらに持っている「ひとりぼっちは寂しいよね」という共感能力を引き出し、「何もしてあげられなくてごめんね」という罪障感を喚起し、「何かしてあげたい」という「与える」素晴らしさを思い出させてくれたのです。

強くてポジティブで、人を蹴落としてでも、上を目指して邁進できる「自立した人間」が理想とされる社会。弱音を吐くことが「負け」につながるような社会。
「人間らしい」ものよりも、物質的なものが重視され、みんなが疲弊し、感情にふたをしなければ生きていけないような社会。

そんな今の社会では、ミーちゃんのような「弱い存在」は、なくてはならないものなのです。

「自立した人間」は本当に理想?

私たちは本当に、すべてをお金で解決し、ひとりで何でもできる「自立した人間」として生きていきたいでしょうか?
だれにも頼らず、仮面をかぶって、競争に勝ち残り、ひとりぼっちで豊かな生活を送りたいでしょうか?

ミーちゃんのような猫が生きられない、すべてが合理的できれいに整備された街に住みたいでしょうか?
人とのつながりを断ち、監視カメラやパトロールに守られ、ルールでがちがちに縛られた社会に暮らしたいでしょうか?

私たちが必要とする社会とは

きっとそうではないでしょう。
私たちが本当に必要としているのは、どんな小さな存在も安心して生きられる社会です。たとえ経済的な利益は生まなくても「あなたはかけがえのない存在だ」と言ってくれる人が、傍らにいる人生です。

けしてひとりぼっちでは生きられない私たちが暮らしたいのは、そこかしこで飼い主のいない猫がまどろんでいるような街。さまざまなものを許容する余裕があり、お互いに信頼できる関係性がある街。
ミーちゃんのような存在が、人間を信頼しながら、共に生きていくことができる街なのです。

そんないくつも大切なことを教えてくれたミーちゃんが、一日も早く帰ってきますように!

情報は今も募集中です。

「感情はもううざいし要らない」

これは、つい最近、私が知ったBENNIE Kというユニット歌手の歌『モノクローム』の一説です。

びっくりするほど芸能情報にうとい私に、この歌のことを教えてくれたのは、「子どもの声を国連に届ける会」に参加している高校生でした。
「うちの妹が好きな歌」と紹介してくれたのです。

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CA055.jpgパピーウォーカーとは

ところで、話はちょっと横道にそれるようですが、私が「絶対にできない」と思っていることのひとつに、パピーウォーカーというボランティアがあります。

パピーウォーカーは、将来の盲導犬候補の子犬を1年ほど預かり、育てるボランティアです。
その1年の間に、パピーウォーカーは家族の一員として、とにかくありったけの愛情を込めて子犬をかわいがります。
いろいろな場所に一緒にでかけ、驚いたり、喜んだり・・・そんなたくさんの経験を子犬にしてもらいます。

人間と何かをする楽しさを知ってもらうことで、子犬の中に「人間は信用できる」という人間との信頼関係を築きます。
この信頼関係が、その子犬が盲導犬となったときに「人間のために生きることは楽しい」と思え気持ちの基礎となるのだそうです(詳細は財団法人日本盲導犬協会 – パピーウォーカーについて)。

平常心では見られない子犬との別れ

たぶん、テレビのペット番組などで、パピーウォーカーの仕事を観たことがある人も多いことでしょう。
ドラマ化された『盲導犬クィールの一生』は、動物好きを大きな感動の渦に巻き込みました。

でも、私はどうも苦手です。
「今日こそはがんばって最後まで見よう」と決心するのですが、どうしても最後まで見られません。

見られるのは、パピーウォーカーとなった一家が楽しく子犬と過ごしているシーンまで。預かってから1年経ち、子犬を盲導犬協会に返す場面になると、もう、とても平常心では見ていられません。(続く…

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NEC_0002.jpg だって、あれだけ毎日毎日、たくさんの時間を共に過ごしてきた犬です。おしっこやうんちの世話をし、変な物を食べてお腹をこわしたときには添い寝をし、雨の日も風の日も散歩をして、一緒に歩んできた犬です。
何より、「ずーっとこの人と生きていくんだ」と信じて疑わない犬です。

そんなふうに思っている犬が、見知らぬ人たちに車に乗せられ、パピーウォーカーの家を離れるのです。
鼻を鳴らして必死で家族にしがみつく犬の姿が、私の愛犬(ゴールデン・レトリーバー)に重なります。

そこでもうギブアップ。「ああ、もうこれ以上は見ていられない」と、たまらず別の番組に変えてしまいます。


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ワクワク、ドキドキ生きていく?

だから正直言って、パピーウォーカーのもとを離れた盲導犬候補生がどんな毎日を送り、どんなふうに訓練されていくのか私はよく知りません。

でも、「きっと、一時の別れは辛くても、その後、新しい環境のもとでかわいがられ、愛情を注がれて生きていくんだろうな」と思ってきました。

人間がとにかく大好きで、いくつになっても子犬のように私にじゃれついてくるわが家の犬(もうすぐ9歳だと言うのに、道行く人からは「3歳くらいですか?」と言われます)を見つめながら、「きっとこのコと同じように、『人間と一緒に何かをすることが大好き!』と思って、毎日、ワクワク、ドキドキしながら生きていくんだろう」と、漠然と考えていたのです。

ホームで出会った盲導犬

実はこの前、駅のホームでたまたま盲導犬を見かけました。
ちょうど事故があり、ホームはかなりの混雑。電車の発着状況を告げるアナウンスが、途切れることなく流れ、駅はいつも以上にざわついています。

そんなホームでただひたすらジーッとして、盲導犬ユーザーさんの傍らにいる盲導犬。その周囲では女のコたちが「かわいいっ」とささやき、こっそり写真撮影などしていました。
何しろお仕事中の盲導犬に声をかけたり、触ったりするのは御法度。まかり間違って集中力が途切れ、うまくユーザーさんを誘導することができなくなってしまっては大変です。

だから私も、女のコたちに紛れながら、刺激を与えないようにちょっと距離をおいて、その様子を観察していました。

「こんなに人がいっぱいいるのにあんなに落ち着いていてすごいなぁ」
「うちの犬だったら、こんな喧噪の中であんなにジーッとしていられないよなぁ」
「やっぱりちゃんと訓練を受けると周囲の刺激にも動じなくなるんだなぁ」

最初は、ひたすらそんなふうに感心しながら見ていました。(続く…

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それからしばらくの間、私はその盲導犬の動きを観察していました。
なかなか電車が来なかったので、その間たっぷり15分はあったでしょうか。盲導犬は(当たり前のなのでしょうが)微動だにせず、ただジーッとユーザーさんの足下でうずくまっていました。

満杯の電車を見送り、次の電車に乗るつもりなのでしょう。ユーザーさんはようやく到着した電車には乗ろうとしませんでした。
そんな二人(一人と一頭?)の横をすり抜け、電車に乗り込むと、ちょうどホームで待っている盲導犬と窓ガラスを挟んで真っ正面に向き合うような格好になりました。

ホームに停車したままの電車から、盲導犬に「お疲れ様」とアイコンタクトでメッセージを送ろうとしたときのことです。うつむいて寝そべっていた盲導犬が、ふいに面を上げました。

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このコの一生は、幸せなんだろうか?

「いったい何?」

私は思わず、そうつぶやきそうになってしまいました。

ごった返す人混みにもまれ、人々が興味津々の眼差しを注いでくる中心にいながら、盲導犬はまるで何一つ認識していないかのような目をしていました。

多くのものに囲まれながら、まるで別世界にいるかのようにただ空を見つめる盲導犬。・・・そこにあったのは、何かに注目したり、興味を持ったり、自ら動こうとしたりするという能動的な動きをもたらす感情をすべてどこかに消し去ったかのような瞳だったのです。

盲導犬がいちいち周囲の状況に反応していたらしょうがないということはよく分かっています。どんなときも冷静に、自らの仕事を遂行できる犬でなければ盲導犬にはなれないことも知っています。

でも、その何も見ていないかのような瞳を見た瞬間、

「このコの一生は、幸せなんだろうか?」

そんな思いが頭をよぎりました。

「見ていたくない」と思いながら・・・

私のすぐ横では、ホームで盛んに盲導犬の写真を撮っていた若い女のコたち数人が「あー、顔あげた」「カワイイー」「いいなぁ。おとなしいねー」と声をあげていました。

「本当にそう思う?」

思わず尋ねたくなってしまう思いを抑え、私は電車が発車するまでの間、ずっと盲導犬の顔を見つめていました。

こちらが切なくなってくるその瞳を「見ていたくない」と思う反面、どこかで似た瞳に出会ったことがあったような気がして・・・。(続く…

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090930.jpg 動き出す電車の中で遠くなっていく盲導犬を見つめながら記憶のページをめくっていくと・・・と思い当たった顔がありました。
児童養護施設の子どもたちのインタビュー集(『子どもが語る施設の暮らし2』明石書店)をつくったときに出会ったある中学生の男の子でした。

「今の生活をどう思う?」
「何かおとなに言いたいことある?」
「不満に思っていることは?」

いろいろと尋ねても、その子はただ「べつに」という回答を繰り返すだけ。私と目を合わせようともしませんでした。
それでも質問を重ねていくと、その子はうんざりしたようにため息をつき、こう言ったのです。

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「不満を言ったら何か変わるんですか? 何かしてくれるんですか?」

そのときの男の子の瞳。何も見ていない、何も感じていない、何も考えようとしない瞳・・・。
それはさっき出会った盲導犬に似ていたように思えました。

「欲求や感情をすべて封じ込め、「自分」というものを出さず、与えられたもの(役目)だけを受け止めている」

そんな雰囲気の漂う瞳の色でした。

誤解のないように

誤解のないよう述べておきたいのですが、盲導犬の役割や存在を否定するつもりはまったくありません。

しかし、前にも書いたようにわが家のやんちゃ娘(愛犬)や、テレビで見たパピーウォーカーと暮らしているときの盲導犬候補犬の生き生きとした表情と、ホームで出会った盲導犬の表情があまりにも違うことが不可思議でした。

あの好奇心がいっぱい詰まった欲求の塊のような子犬が、どんなふうに成長したらこんなにも周囲に影響されず、自分から関心を示さず、ひたすらユーザーさんに忠実な犬になるのかというのが気にかかったのです。

もっと言えば、「育ち方によっては人間にも同じことが起きるのだろか?」という疑問が、そこにはありました。(続く…

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話をもとに戻したいと思います。

本来、生まれたての「子ども」は動物と同様、欲求の塊のはずです。
子どもは幼ければ幼いほど、「ああして欲しい」「なぜこうしてくれない」「自分はこうしたいのに!」という、たくさんの欲求を持っていて、それをかなえてくれないおとなに対して、生の感情をぶつけてきます。

びっくりするほど利己的で、他者を顧みようとすることもなく、ただただ「生き延びる」ことに必死。そのあふれんばかりの「生きたい!」という子どもが持つパワーは、ときにおとなを圧倒させるほどです。

そんな動物にも通じるほどの生命力に満ちあふれた「子ども」という存在から、欲求を奪い、感情を奪い、期待感を奪ったもの・・・それはいったいなんなのでしょうか。

どうしたら欲求の塊として生まれてきた子どもを、「べつに」という回答を繰り返すしかしないほどにまであきらめの境地へと追い込むことができるのでしょうか。


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バラバラになった自分を抱えて

このブログの冒頭で書いたBENNIE Kの『モノクローム』を教えてくれた高校生は、「感情なんてもううざいし要らない」というフレーズが好きな妹のことをよく話します。

プライベートなことが多いので詳しくは書けませんが、その高校生は「妹は学校でも、家庭でも『もっと頑張れ!』『お前はもっとやれるはず』『今の状態はしんどくない。甘えているだけだ』と“励まされて”きた」と言います。

そんな状態を続けているうちに、妹は「周囲が言う自分」と「自分で感じている自分」のどちらが「本当の自分」なのか分からなくなり、混乱していきます。

おそらく「周囲の期待に応えたい」という思いと、「そう思っても出来ない」自分へのやるせなさやいらだちもあったのでしょう。

妹は、本当の自分はどんな自分なのか、自分が感じている感情は本物なのか、自分はどんな人間なのかも分からなくなり、次第に外に出ることも難しくなっていってしまったのです。

そして、バラバラになった自分を抱えてうずくまる妹が口にしたのが「感情なんてもういざいし要らない」という言葉でした。(続く…

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本来、子どもの思いや願い、欲求は「そのままで」おとなに受け止めてもらえるべきものです。

おとなから見れば、たとえその内容がどんなにばかばかしくても、社会的にはとうてい認められないことであっても、まず「そうだったんだ」と身近なおとなに受け止め、きちんと応答してもらうことで、子どもは自らの存在価値や安全感を確認できます。

そんな安心できるおとなとの人間関係があってはじめて、経済的にも能力的にもおとなには及ばない子どもが、自分の人生を自分らしく、豊かに生きていくことができます。

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たとえ「同級生を殺したい」という思いでも

091016.jpg たとえば子どもの思いが、「いじめっこの同級生を殺したい」というような内容だったとしても、です。

子どもは、まず身近なおとなに思いをきちんと受け止めてもらうことで、「自分の辛さに共感し、思いを共有してくれた」と感じることができます。

そして「自分はひとりぼっちではない」という確信の中で、「もっと現実的でだれも傷つけることなく問題を解決する方法もあるかもしれない」という希望を持つことができます。

信頼でき、けして自分を裏切らないおとなが自分の思いにちゃんと対応し、一緒になって知恵を絞り、解決に向けて行動してくれることで「相手を殺したいほど辛い状況」を変えていくことができます。

結果として、自らの人生を狂わせてしまうような殺人という破壊的な行為におよぶことなく、もっとずっと建設的に問題を解消することができるのです。

成長発達に不可欠なおとなとの関係性

こうした身近なおとなとの関係性があることで、まだ人生を自らの力で切り開くことができない子どもであっても、自分らしく、今を豊かに生きることが可能になります。

また、「困ったときはだれかが助けてくれる」とか、「トラブルが起きても、ちゃんと解決できるんだ」という、他者との関係パターンを学び、やがてその子自身が、困っているだれかがいるときには、その辛さに共感し、手を差し伸べることができる人間ーー他者とつながることができる人間ーーへと成長していきます。

子どもが本音を隠したり、おとなの顔色を見たりすることなく、どんな欲求でも安心して出すことができるおとなとの関係性は、成長発達の途上にある子どもにとって、無くてはならないものなのです。(続く…

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ところが現実には、『感情はもううざいし要らない(5)』で紹介した少女のように、子どもが安心して欲求を出すことができないおとなとの関係性が少なくありません。

おとなの側が、「こうあるべき」「こう感じろ」「こんなふうに振るまえ」とさまざま子どもに要求し、子どもを混乱させ、子どもから安全感や感情を奪い、うまく成長発達できないようにしてしまっている例がめずらしくないのです。

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新聞への反響

『東京新聞』(2009年8月23日)には、
「両親と子どもの四人家族で、男児は習い事もして服装もきちんとしているみかけは『まとも』な家庭から、毎日のようにヒステリックに叱責する母親と泣き崩れる悲痛な男の子の声が聞こえる」
という隣人からの訴えが載っていました。

隣人は、その様子にたえかねて何度か行政にかけあったそうですが、外傷などの目に見える虐待が無いと言うことで抜本的な改善に至らないということでした。

さらに9月23日の同紙には、続々と届くこの記事への反響が載っていました。記事によると「同じような母子がいる」と同様の事例を伝える投書が相次ぎ、中には「これは自分のことではないか」とか「娘の養育態度が記事の事例と似ている」という祖母からの投書もあったそうです。

この祖母の娘は「孫にピアノや水泳、英語などいくつも習い事をさせ、『命じた勉強をしていない、ピアノの練習が短い』などの理由で怒り、その剣幕に怯える孫に『そんなに怖いならなぜ言うことを聞かないのか』と絶叫する」と言います。
孫は「いつかママを殺したい」とつぶやいたこともあるとそうです。

ゴミ箱の中で生き途絶えて・・・

子どもの姿をそのままで受け止めることができず、悲しい事件となってしまうこともあります。

昨年12月には、都内のあるマンションで両親が2歳半の男の子をゴミ箱に閉じ込め、殺してしまうという事件がありました。

『東京新聞』(9月23日)によると、男の子が生まれた頃、両親は男の子をとてもかわいがっていたそうです。

ところが男の子は成長が遅く、手がかからなかった姉たちに比べるととても大変な子どもでした。
母親の愛情は次第に焦燥感に変わり、イライラを男の子にぶつけるようになりました。食事を拒む男の子に何も食べさせなかったり、椅子に縛り付けて無理矢理口に食べ物を押し込んだこともありました。

子育てに無関心だった父親にも「しつけ」に協力するようもとめ、父親が男の子をベッドに縛り付けるなど、事態はエスカレートしていきます。

事件の日、なかなか寝付かない男の子に腹を立てた両親は、男の子をプラスチック製のゴミ箱に入れてふたを閉め、ポリ袋をかぶせた上にゴムをかけて閉じ込めました。
両親がふたをあけたのは半日後。男の子は、少量のゴミにまみれて息絶えていたました。(続く…

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こうした親に「母性がない」「母親失格」というレッテルを貼り、自己責任として切り捨てているのが今の社会です。

自己責任することで私たちは、「自分の親が、けして無条件に愛してくれたわけではない」という辛い事実から目を反らし、自らの親と同じように子どもを支配しながら、家族幻想の中で生きていくことができます。

また、社会全体で考えればどうでしょう。

子育てという大変な仕事を「母親の仕事」にし、社会が望む人材育成の担い手という役割を女性に押しつけることができます。
さらに言えば、「子育て優先」という、反論しにくい理由をつけて、安い労働力としての女性を確保し続けるというメリットがあるのではないでしょうか。

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問題解決に向けて

でも、それでは悲惨な子どもたちの状況は絶対に解決しません。

なぜ現実的な判断ができないほどにまで親が追い込まれているのか。他の子と同じように成長しない我が子にいらだちを覚えるのか。困っていても外に助けを求められないのか。・・・そうした原因をきちんと取り除いていくという姿勢がなければ事態は改善しないでしょう。

親たちの周りには、リストラ、無理な働き方、孤立、“よい子”育てのプレッシャーや子どもの将来への不安など、多くの不安定要素が渦巻いています。社会が競争的になればなるほど、子育ても、教育も「自己責任」という声が強まります。

何でも自分の力でやっていかなければならない社会で、子育てのすべてを引き受けなければならないとしたら、子どもに受容的で応答的な関係を提供することなどできようはずもありません。

悲劇を繰り返さないために

子どもたちをめぐる悲劇を繰り返さないためには、社会全体が変わっていかなければなりません。

いつまでも労働力確保のための少子化対策や、子どもを経済発展に役立つ“人材”としてとらえた教育施策、経済界の発展を念頭に置いた雇用対策、根本的な格差解消につながらない子ども手当などをしていてはダメなのです。

財産や学歴、能力などの「ある」「なし」などで、大きく生活に格差が生じるようなことがなく、だれでも安心して弱音を吐き、愚痴を言い、困ったときにはだれかに頼れるような社会に転換すできれば、子どもの思いや願いを受け止められる親が増えていくことは想像に難くありません。

そんな親が増えれば「感情はもううざいし要らない」とつぶやき、あきらめ、つぶれていく子どもも、必ず減っていくのです。

(終わり)

 新年あけましておめでとうございます。

 早いもので、このブログが始まってから今年で4年。
 皆様にこうして新年のあいさつをさせていただくのも4回目となりました。

 昨年は、このブログを書かせていただいきたおかげで、地域猫・ミーちゃんの話が本になり、『迷子のミーちゃん 地域猫と地域再生のものがたり』(扶桑社)として出版されるというビックリするような出来事がありました。

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 さらに年末には、au公式サイトで、ペット好きのための電子書籍を扱っている「PET☆STAR=」から電子書籍としても販売されるというニュースが飛び込んできました。

 どれもこれも、こうした機会を私に与えてくださった大勢の方々のおかげだと思います。
 本当にありがとうございました。

教えていただいたことの集大成

 ミーちゃんの本は、今まで私が出会ってきた生きづらさを抱えて苦しんでおられるクライアントさんや、おとなに頼ったり甘えたりしながら子どもらしく生きる時間を奪われている子どもたち、それらの問題を解決する手段となる子どもの権利条約を通して知り合った仲間たちから教えていただいたことの集大成です。

「世界的にはまだまだ豊かな日本で、なぜこんなに自殺する方が多いのだろう」
「子どもが身近なおとなと愛着関係を持ちながら成長することがなぜ難しいのだろう」
「どうして“自立”という就縛から、みんな逃れられないのだろう」
etc・・・。

 そんなさまざまな疑問を持ちつつ、右往左往しながら20年近く考えてきたことが、ほんの少しだけでですが、カタチになったように思います。

 これからもみなさまにたくさんのことを教えていただきながら、どうしたらすべての人が「生まれてきて良かった」「背伸びなんかしなくても、自分はここにいていいんだ」と思えるような社会をつくっていくことができるのかを考えていきたいと思っています。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。