地下鉄サリン事件から25年3月20日で30年。あちこちで、さまざまな検証報道がなされています。

『東京新聞』(25年3月14日)では、サリン事件の実行犯役のひとりで無期懲役が確定している杉本繁郎受刑者が同紙に寄せたという手記も。こんな紹介でした。

「(杉本受刑者は)事件について『最終解脱者は何をやっても(略)すべて許されるという妄想を本気で信じ込んでいた麻原影晃(本名・松本智津夫元死刑囚、2018年7月死刑執行)の妄想の集大成、それが地下鉄サリン事件だった』と総括。社会へのカルトの浸食があらためて不安視される現在、『生の続く限り、知っていることのすべてを語り続けたい』としている」

あさましい権力者たち

一連の「オウム真理教事件」を検証すること自体は否定しません。しかし、宗教という、多くの日本人がアレルギー反応を感じる“特殊な”ものに矮小化されてしまうのは、ちょっと「もやっ」とします。

「最終解脱者は何をやっても(略)すべて許されるという妄想」の「最終解脱者」の部分を「巨万の富を持つ者」と置き換えたら、アメリカに象徴される、現代社会の権力者となんら変わりありません。

金と権力を背景に「自分は特別」という妄想にとらわれ、平気で他国の領土を侵略し、資源を横取りし、自国(自分)の利益だけを追求する。権力者たちのほうがもっとあさましい気さえもします。

私の人生を変えたオウム真理教事件

そんなことを考えていたら、ふと、私がまだタブロイド紙に勤めていた頃を思い思い出しました。空前の「オウム景気」に沸いていた地下鉄サリン事件直後の時代です。

思えば、今の私があるのは同事件があったからです。

サティアンと呼ばれるオウム真理教の施設(山梨県旧上九一色村)から、必死で抵抗するオウム真理教信者の子どもたちが、機動隊や警察官に力づくで、次々と担ぎ出され、それを「またひとり、子どもが“保護”されました!」と実況中継する報道陣。

その姿に、大きな大きな「もやっ」と感を覚えたことが、子どもの権利条約に惹かれる要因をつくり、マスコミの世界から心理の世界へと転身するきっかけになりました。

そんな私の人生を変えた事件から、はや30年。そして去年は日本が子どもの権利条約を批准して30年でした。

そんな節目に、もう一度、子どもの権利のことを考えて行きたいと改めて思う、今日この頃です。

前回のブログで「2025年は、日本が子どもの権利条約に基づく国連審査に向け、6回目の日本政府報告書を提出する“はず”の年。それにむけ、何より集めたいのは子ども自身が書く『子ども報告書』」と書きました。

これがなかなか難航しています。

『子ども報告書』難航の理由

私が感じる理由は大きく分けてふたつ。

ひとつは、子どもたちがめちゃめちゃ忙しくなったこと。第3回の日本政府報告審査に参加した子どもたちとは、渡航費用を稼ぐためにバザーをやったり、長い休みがあるときには合宿したり、だれかのうちに集まって夜な夜な「あーでもない、こーでもない」と雑談交えて話合う、などをやってきました。

が、前回(第4・5回)の子どもたちとはようやく数回の合宿ができただけ。学習会と称して数ヶ月に1度集まって、報告書の内容を深める話し合いをもつことさえままなりませんでした。

忙しい子どもたち

今回(第6回)の子どもたちはさらに忙しくなっています。

現在、どうにか集まれている子たちは小学生。それでも予定を合わせるにはなかなか苦戦しています。

中学生、高校生ともなると、部活に塾に習い事、さまざまな検定試験やらそれらに向けた勉強などが目白押し。「興味があるので行ってみたい」と連絡をくれる子はいるものの、何らかの予定が入ってしまって結局は参加できず、ということを繰り返しています。

怒らない子どもたち

ふたつめの理由。個人的にはこれがとっても大きいと感じているのですが、子どもたちがとってもおとなしくなったことです。とにかく、怒りません。おとなに気を遣うし、よく言えばものすごく社会適応が良い。悪く言うと従順です。

話を聞いていると、親への不満、教師への不満、学校への不満・・・いっぱいあるのに、「じゃ、それを報告書にしてみようよ」と言うと、そこで止まってしまいます。

帰りの会が最短で終わるよう壁にかけたストップウォッチでカウントダウンされること、教師が「気に入らない」と思う子を標的のように攻撃すること、やりたくもない受験にひっぱり回されること・・・どれもこれも変なのに、「先生ガチャは仕方がない」「親ってそういうもの」と、達観している感じです。

自殺や自傷の増加にもつながる

批判したり、反論したり、何かを変えていこうと熱くなるのは「スマートじゃない」という様子も見て取れます。

怒りはとっても大切な感情です。理不尽なことをされたとき、不当に扱われたとき、自分を守らなければいけない状況に追い込まれたときに、不可欠です。

怒りを忘れ、去勢された子どもたちは生きるエネルギーも萎えて行きます。それが、10代の自殺を増加させ、20代の自傷・自殺未遂最多の現状につながっていると思います(『東京新聞』25年2月16日。

そとに向けることができない、表現すること、いや、気づくことさえできなかった怒りは、自分に向かうしかありません。

子どもたちよ、もっと怒れ!

2025年は、日本が子どもの権利条約に基づく国連審査に向け、6回目の日本政府報告書を提出する“はず”の年です。

“はず”と書いたのは、原則は5年に1回の報告書提出そして国連審査なのですが、政府や国連の事情が重なり、なかなかそうはならないからです。前回(2018年)は、あまりにも間が空いてしまったため4・5回合同の審査になりました。そして、今年で7年が過ぎようとしています。

日本が子どもの権利条約を批准したのは1994年。それから計4回の審査しか受けていないことからも、日程が延び延びになりがちなのがよく分かるかと思います。

2024年も、大きな話から、ごく身近な小事まで「もやっ」とした思いにとらわれることが多い年でした。

大きな話で言えば、進まない能登半島の復興、終わらない戦争、自国の利益だけを声高に叫ぶ指導者の乱立・・・などなど、ため息の出ることばかりでした。

能登半島地震から1年が経つというのに、未だ避難所生活を続けている人は多く、住宅の整備すらままならない状況です。円安による建築資材の高騰や建設業の人手不足が原因、と言われます。

一方で、東京は建設ラッシュです。超高層ビルがバンバン建ち、うちの近所でも新築の戸建てが雨後の筍のごとく次々とつくられています。大阪万博の準備も着々と進んでいます。

ロシアによるウクライナ侵攻は止まることを知らず、ガザ地区では子どもを含む4万人以上がイスラエルの攻撃によって亡くなったと報じられています。さらにイスラエルとレバノンやイランとの戦闘にも発展し、中東全体に戦禍が広がる勢いです。

そんな状況を大国は放置したままです。

定着した格差

円安の追い風に乗って大企業の収益は伸び続け、株価はうなぎ上り。富裕層の金融資産はつり上がる一方なのに、日本の雇用の7割を支える中小企業は円安に苦しんで倒産が続出しています(『東京新聞』24年7月21日)。

大企業の収益増で法人税は激増、国の税収が過去最高の78.4兆円になるのに(『日経新聞』24年12月25日)、NPO法人が12月28日に行った食糧配布には通年で最多の人が並び、「食品がないときは、水道水にしょうゆをたらしておなかを満たしました」(52歳女性)という人も(『東京新聞』24年12月28日)。

過保護? それとも優しさ?

小事で言えば、日常生活のなかで「これは過保護? それとも優しさ?」と、あたまを悩ませる出来事が・・・。

近年気になっているのが、「電車の中で当然のように座る子どもと、譲るおとなの図」です。もちろん、幼児なら気にしません。が、遊び盛りの小学生や元気盛りの中学生が当然の顔をして空いた席に座り、一緒にいるおとなが立っています。立っているおとながランドセルを持ってあげていることもあります。

それが祖父母であったりすると、なおさら「もやっ」と感が募ります。

同じような違和感

同じような違和感は、けっこうな大きさの子どもを自転車の幼児用座席に乗せ、必死で自転車をこぐおとなとすれ違ったときにも感じます。

自転車の幼児用座席に乗せることができる子どもの年齢制限が、46都道府県で「6歳未満」から「小学校入学まで」に緩和されたせいなのか? それにしては妙に大きなサイズの子どもが乗っていたりします。

ときには、祖父母と思わしき初老の人物が、自転車で孫(とおぼしき小中学生)を幼児用座席に座らせ、よたよたしながら運んでいる姿にも出くわします。「無理せず子ども自身に自転車をこいでもらったほうが良いのでは」と心配になることもしばしばです。

来年の抱負

今年はぜんぜんブログを更新できませんでした。来年こそは、こうした「もやっ」とした思いを文章にして、発信していきたいと思っています。

みなさんどうぞ、よいお年をお迎えください。

昨今の取り組みからは、不登校が増え続けていること。学校へ行くこと、もしくは行けないことを苦にして自殺まで考える子どもも増えていること。そうした子どもをどうにか救おうと、親も教員も対応に追われていることがよく分かります。

文部科学省によると令和4年度の小中学校の不登校数は約29万9000人。不登校も増え続け、過去最多を更新中です。

解せない疑問

でも、私には解せません。

これだけ学校を嫌がる子どもが増えているのに、学校へ行くことが子どもの命を脅かしているのに、なぜ、学校教育の在り方を見直そうという声が高まらないのでしょうか。

日本の教育制度の問題を国連も指摘

日本の教育制度は、国連「子どもの権利委員会」から度々見直しを迫られている問題のある制度です。
子どもの権利条約に基づいて批准国を審査した後、国連が批准国に出す『総括所見』(第3回までは『最終所見』と訳されてきた)は次のように述べています。

①成長発達の主要な三つの場である家庭、学校、施設のすべてで競争(管理)と暴力、プライバシーの侵害にさらされ、意見表明を奪われ、その結果、発達が歪められている(Developmental Disorder)」(1998年:第1回)

②「教育制度の過度に競争的な性格が子どもの肉体的および精神的健康に否定的な影響を及ぼし、子どもが最大限可能なまでに発達することを妨げている」(2004年:第2回)

③「ストレスの多い学校現場から子どもを解放せよ」(2019年:第4・5回)

ここまで国連が厳しい指摘をしている学校になど、「行けない」ほうがむしろ正常なのではないでしょうか。

子どもはスーパーマンではない

今、日本の教育は本当に多くのものを子どもに課しています。

知人の公立中学校の教員は「子どもに求めるものが本当に多すぎる」と、こう話していました。

「ICT教育でいろんなツール使いこなし、英語のリスニングにヒヤリングもやって、英検やら漢検やら、いろんな検定も受けないといけない。プレゼンテーション能力にコミュニケーション能力も問われる。もっと言えば、さらには歌って、踊れて、明るく学校生活を過ごすことを要求される」

子どもはおとなの要求に応える人形でも、スーパーマンでもありません。

これ以上、異常な教育制度に子どもを適応させようとすれば、子どもの自殺はますます増えていくでしょう。適応できず、壊れる子どもが増えることは想像に難くありません。

8月後半から、9月にかけて「子どもの自殺」に関する報道をよく目にしました。

過去にも書いたように、日本は世界でもまれに見る「10代の死因1位が自殺」の国です。コロナの影響もあり、小中高生の自殺も増え続け、24年3月の厚生労働省発表では統計がある1980年以降最多の514人という数字になりました。

子ども自殺が増えるのは8月と9月です(厚生労働省『学生・生徒等の自殺の分析』)。新学期を前にして、心身に不調を来す子どもも増えます。

保護者や教員向けのツールも

そうした子どもへの対応に困った保護者や教員に向け、さまざまなツールも開発されているようです。

そのひとつが、保護者向けにフリースクールなどが開発した「学校休んだほうがいいよチェックリスト」です。子どもが「学校に行きたくない」と言っているときに、本当に休ませた方がいいかどうかの目安がわかるというもの。

リストの利用者は7万5000人を超えたそうですから、いかにとまどう保護者が多いかが分かります(『東京新聞』24年8月30日)。

AIが不登校予測

埼玉県戸田市ではAI(人工知能)で不登校の可能性を予測する実証実験も行われました。

欠席日数や遅刻数、学力調査や健康診断記録、保健室の利用回数、いじめの記録などから、AIがひとり一人の予測結果を数値化するそうです。結果をもとに、教員らが対応に当たるとか。

今さらの話ですが、日本の子どもの精神的幸福度が低いこと(子どもたちに影響する世界)、そして、10代の自殺率の高さ(『令和5年版自殺対策白書』)はよく知られています。

これに加え、最近では、16~74歳の日本人の幸福度が2011年から2024年の13年間で低下傾向にあるという調査結果も出ています。
世論調査会社イプソスの調査です。

この調査によると、24年の日本の順位はワースト3で、10年間で13%減少。つまり、どんどん「おとなも子どもも幸せを感じ無い国」になっているわけです。

人生をコントロールできない感覚が増す若者たち

興味深いことに、同調査は年配の人たちに比べ若い世代の方が、自分の人生をコントロールできる感覚が少ないと分析しています。

ベビーブーム世代の76%がコントロールできると感じているのに対し、Z世代では65%に減少しているのです。
心の健康についても、同じ傾向があります。ベビーブーム世代の76%、X世代の72%、ミレニアル世代の69%に対し、Z世代の63%しか自分の心の健康に満足していません。

ちなみに、ベビーブーム世代とは1946年~1964年の間に生まれた人たち、X世代は1965年~1980年の間、ミレニアル世代は1981年~1996年の間、Z世代は1997年~2012年の間だそう(ベビーブーマーからZ世代まで:世代別アプリマーケティング)。

まさに修羅の国

「修羅の国」と化したディズニーランドが象徴しているように(同ブログ第一回目参照)、他者を出し抜けるお金とスキルが無ければ生きていけない日本で生き残るため、「ああしたほうがよい」「こうしなければならない」と子どもをいじくり回すおとなたち。そのあげくに、子どもから当事者性も人生のコントール感も奪い、夢を取り上げていくおとなたち。

「金がすべて!」の社会をつくり、そこに適応することだけを強いるおとなたちが、夢の無い子どもを育てているのです。

まさにここは修羅の国と言ってよいかもしれません。

もちろん、多くのおとなは「子どもらしさを削ごう」とか「従う国民に育てよう」と思っているわけではないでしょう。

しかし、未だに「集団行動」や「集団保育」が当たり前の日本では、号令によって一斉に動ける子どもが「良し」とされ、できない子どもは「気がかりな子」として、場合によっては発達検査を受けるよう、勧められます。

社会が望む行動が取れなかったり、社会が是とする価値観に合わせられなければ、子どもが落伍者になる恐れが高まります。

世話焼きに必死になるな

一方、世界中を見渡してもみても、競争はエスカレートするばかり。「子どもを負け犬にはさせたくない」という“親心”から、いつでも子どもの先回りをして、手を出し、口を出したくなります。

子どもが失敗しないよう、困ることがないよう、落ちこぼれてしまわないよう、世話を焼きたくなります。

何しろ、おとなは「金とスキルが無ければ、何もできない」ことを、おとなは骨身に染みて知っています。
だからこそ、「現実を見て、小さいうちから頑張れ!」と言いたくなります。

子どもの人生をコントロールし、子どもから夢を奪うことになってしまうなどとは思わずに。

行き過ぎたおとなのコントロール

統計的な証明は難しいですが、過干渉過ぎる関わり、行き過ぎたおとな(親)のコントロールについては、あちこちで目にします。

たとえば「オヤカク」です。

企業が学生に内定を出す際、保護者の事前確認しておくことを意味します。就職情報サイトの調査では、就活生の保護者の半数以上が、企業から「オヤカク」を受けたと回答したとか(『NHK NEWSWEB』2024年2月26日)。

親からの就職に関する否定的な意見によって約3割の学生が、結果として「内々定を辞退した」との回答もあります(『マイナビキャリアサポート』)。

親の代理婚活は今や珍しくない

一時、世間を驚かせた「親同士の代理婚活・見合い」も、今や普通です。これらのキーワードを入力すると、驚くほど多くのサイト・業者がヒットします。「親と子の結婚相談会」なるものもあったりします。

昨今の大学では、親の授業参観も当たり前ですし、大学のオープンキャンパスや説明会は、当事者より親の方が多いくらいです。子ども1人に対し親はふたり・・・両親そろって来れば、親の数が倍になります。

ある大学の先生は、「大学説明会でも、熱心に話を聴いてうなずいているのは親だけ。子どもは他人事、という感じです」と嘆いていました。

最近、ある地域活動をしている方々の集まりで、都内のある小学校のこんな話を聞きました。

「8時15分から25分の10分間に教室に入れるよう登校しなければならいというルールがあるんです。もし、それより早く登校した場合は昇降口で学年ごとに、校帽をかぶったまま整然と並んで待つのが決まり。校庭で遊んでも、教室に入ってもダメ」

絶句する私をよそに、他の人から「家の近所の学校も!」という声がいくつも上がりました。

まるで軍事訓練です。いったいなぜ? ある保護者はこう推測します。

「たぶん、安全の問題だと思います。まだ先生たちも教室にいないし、目の行き届かないところで何かあれば困るから、『おとなしくじーっとしていて欲しい』ということなのではないでしょうか」

またもやおとなの都合優先! こうやって子どもの欲求を潰していくのです。

子どもらしさを削がれた子ども

カウンセリングの場でも、「登下校中の子どもの問題行動」として、「一列に並べない」とか「興味があるものがあると立ち止まる」とか、「友達と大声ではしゃぐ」などがあがることがあります。

そのいったい何がいけないのか? 首をかしげるばかりです。子どもは道草をくったり、興味のあるものに惹かれたり、はしゃいだりするものです。それが「子どもらしさ」です。興味関心が子どもの好奇心を育て、生きる力につながります。

うちの近所でも登校時の私語が禁じられているのか、無言で静々と並んで歩く小学生を見かけます。まるで葬式の参列のようで、いつも心配になります。

黙って従う国民づくりのリハーサル

もう数十年前になりますが、法律の専門家から「校則は馬鹿馬鹿しいほどいい。馬鹿馬鹿しいルールにも黙って従い、お上(上司や行政)の言うことには『はい』と言っておとなしく従う国民をつくるためのリハーサルだから」と聞き、膝を打ったことがあります。

実は校則の存在は、私にとって長い間、謎でした。

小中高を通して、「どうしてスカートの丈は膝下10センチでないといけないのか」「なぜ、肩についた髪は結わかないといけないのか」「鉛筆はよくてシャープペンシルはダメなのか」・・・。学校には謎のルールがたくさんありました。

教師に尋ねても「決まりだから」と言われるだけ。食い下がると、「面倒な子ども」という顔をされました。いつも判然としない、もやっとした思いを抱えながら、なんとなく過ごしていました。

でも、もしそれが「黙って従う国民(良民)づくりのリハーサル」だと言われれば、「なるほど、それは有効だ! と思えます。

『夢の国から修羅の国に』ディズニーランドが“ガチ勢”御用達のラーメン二郎系テーマパークへと変貌か…価格高騰・システム複雑化にファンからは悲しみの声も

最近、そんなネット記事を読みました。

どんな記事だったのか。ごく簡単に記事の内容をまとめると、「入念な下調べ(ができるスキル)と潤沢な資金を持った“ガチ勢”でないと、もはや楽しめない」ということらしいです。

記事には「家族で存分に楽しもうとすると、海外旅行並みの金額になってしまううえ、子どもには理解不能なシステムばかり」という嘆きの声も紹介されていました。

まさに、今の世の中を象徴する“夢の国”ではありませんか。

夢を持てない日本の子どもたち

ディズニーランドの記事を読み、思い出したのが、やはり最近読んだあるネット記事。「日本では『夢をみられない』子どもが4割。『ミスが許されない』ことが起こす弊害」です。

もとになっているのは、2022年5月に経済産業省が発表した「未来人材ビジョン」です。
これによると、18歳未満で「将来の夢を持っている」と答えた子どもが日本では60%に止まっています。

他の国は80~90%を超えているのに、です。

同調査は、夢を持っている18歳未満が少ない現状と、やはり他国に比べて低い「国や社会を変えられると思う」(18%)、「自分の国に解決したい社会課題がある」(46%)という結果を合わせ、「日本の18歳の社会への当事者意識は低い」と分析しています。

そして、学校教育が「目指してきた理想」と「今の現実」の解離をどう埋めるのか、と述べています。

未来人材ビジョン

私からすれば、「まさに日本が目指してきた教育の結果」という感じです。

何しろ、日本は、国連「子どもの権利委員会」から「過度に競争的でストレスの多い学校環境から子どもを解放せよ」と勧告(第4/5回日本政府報告審査に対する国連からの『総括所見』パラグラフ39)と言われてしまう国です。

「多様性」だの「個性の尊重」だのといいながら、実際には、「こうあるべき」が決まっていて、そこからはみ出すと「ああ、発達障害だからね」と片付けられてしまいます。「自主性を持つ」ことは推奨されますが、本当に自ら考え、主張したりしたら、「問題のある子」にされてしまいます。

その最たる場所が学校(教育の場)です。