そうしたことが、ほんとうに子どもの権利条約第12条「意見表明権」の実現なのでしょうか?

子どもに「どちらの親と暮らしたいか」の決定を迫ったり、「別居親と会うか会わないか」を尋ねたりすることが、子どもの権利を認めることになるのでしょうか?

ちょっと難しい話になりますが、そもそも「意見表明権」がどんな権利として考えられてきたのか、というところから考えてみましょう。

「意見表明権」は社会に参加する権利?

これまで、「意見表明権」は、「子どもは未熟な存在だ」という考えを克服し、子どもが権利行使の主体となることを保障するためのものとされてきました。条約13条「表現の自由」などと同じように市民的自由の流れに属すると理解されてきたのです。そのため、子どもが表明した意見の内容その中身を尊重すること(限りなく自己決定権に近づく)や、子どもが社会に参加する権利を保障したものとされていたのです。

子どもの権利条約の4つの原則のひとつとされる「意見表明権」も、長らく「参加の権利」だとされてきました。

赤ちゃんには使うことができない

しかし、そのような考え方で「意見表明権」をとらえれば、まだ未熟な子ども相手に「自分で決めたのだから、自分で責任をとりなさい」と、早い自立を促したり、自己責任を問うことになってしまいます。なにより、赤ちゃんでは、使うこともできません。

確かに、子どもには年齢や成長発達の度合いに応じて自分の気持ちを表すことができます。ものすごい虐待を受けてきた子どもが、親に恐怖を覚えて、会うことを拒否することも皆無ではないでしょう。

しかし、多くの子どもは、たとえひどい親であっても、親が大好きで、愛されたいと願います。恐怖を感じる一方で、「本当は抱きしめてほしい」と思っていたりします。守ってくれるおとながいなければ生き延びられない子どもという存在にとって、当たり前なことです。

そんな子どもという存在の特性を考えれば、子どもと親の決定的な別離、それを子ども自身に決定させることの残酷さがわかるはずです。

子どもに残酷な決定を迫ることになる

・・・だとすれば、そのような残酷な決定を子どもに迫るものが、子どもの幸せのために存在する子どもの権利条約の重要な「意見表明権」であると言ってしまっていいのでしょうか。

私にはとうていそうは思えません。

「子どもの意思を尊重しよう」とか「子どもの意見を聴こう」という声をあちこちで聞くようになりました。「子どもアドボカシー」や「子どもアドボケイト」という言葉を耳にすることも増えています。

子どものアドボカシーとは、子どもに代わって、子どもの権利を擁護・代弁し、権利の実現を支援する機能。子どものアドボケイトとは、そのための代弁者のことです。子どもアドボケイトの取り組みが進んでいるイギリスでは、その役割は「マイク」に例えられたりします。つまり、「おとなの考えや都合を入れずに、子どもが語った言葉をそのまま大きくして第三者(社会)に届けるための道具」が、アドボケイトということなのでしょう。

 
「子どもの意見尊重」の機運の高まり

「子どもの意見を尊重しよう」という機運は、①2013年に制定された家事審判手続法で子どもが家事事件の当事者として訴訟に参加する制度が設けられたこと、②2019年の児童福祉法の改正で子どもが意見を述べる機会の確保とその際に支援する仕組みの検討が盛り込まれたことにより、強まりました。

さらに③2010年代後半に相次いだ虐待死事件も制度づくりを後押ししました。痛ましい事件をこれ以上起こさないためにも、「当事者である子ども自身の意見がしっかり聴かれるべきである」という考えが強まり、子どもの意思を措置や処遇、調停や審判等にも子どもの意見を生かすべきだという流れができてきました。

2022年5月には、厚生労働省の子どもの権利擁護に関するワーキングチームが、児童相談所が親子を分離する一時保護や、里親委託・施設入所を決定する際には、子どもから意見を聴くことを児童福祉法で義務付けるよう提案しました。

 同年6月に成立した改正児童福祉法では、施設入所等の措置や一時保護の決定時などに、子どもの意見を聴取することが義務化されました。意見表明等支援事業が創設され、そのための環境整備が都道府県等の業務に明記され、子どもの意見を代弁する「意見表明支援員」(アドボケイト)の配置が本格的に始まりました。

極めつけは「こども基本法」

極めつけは、2023年4月に施行された「こども基本法」でしょう。政府は「日本国憲法および児童(子ども)の権利に関する条約の精神にのっとり、全てのこどもが、将来にわたって幸福な生活を送ることができる社会の実現を目指し、こども政策を総合的に推進することを目的として」定めたとし、その6つの基本理念にも、子どもの権利条約の意見表明権(第12条)そっくりな文言が入りました(こども家庭庁ホームページ)。

家庭裁判所でも、「子どもの意見」がかつてないほど重用されるようになりました。子どもの権利条約第12条「意見表明権」を前面に出し、監護親を決めたり、面会交流を行うかどうか決定するケースが増えているのです。

それにもかかわらず、昨今、巷では、やたらめったらに「子の意思」や「子どもの意見表明権」がもてはやされています。

「子も思いや願いや考えをもっていて、それを表現すべきであり、一人の人間として尊重されるべき存在」という考えに、私ももちろん、異論はありません。

私が気にしているのは、
①どうしたらまだ未熟な存在である子どもが一人の人間として尊重されることになるのか、
②未熟な存在である子どもが今、表現した意思内容をそのまま実現すれば、それが一人の人間として尊重されたことになるか、

ということです。

そして、そうした疑問と向き合うこともせず、「子どもの声を聴こう!」「子どもの意思を尊重しよう!」叫び、「それが子どもの権利の実現だ!」と考えることの危険性です。

そんな「子の福祉」について考えていて、子どもの権利条約にも似たような条文があることに気づきました。
「子どもの最善の利益」(子どもの権利条約第3条)です。第3条は、次のように述べています。

「子どもに関するすべてのことを『子どもの最善の利益』を第一に考慮し、子どもの福祉に必要な保護と養護を確保するための立法上・行政上の措置をとること」

「子の福祉は大切だ」と言うのと同様、この条文に異論を唱える人はまずいないでしょう。

子どもは門外漢

しかし、やはり「子の福祉」と同じ疑問がわいてきます。
「子の最善の利益」とは何か。それを決めるのはだれなのか、ということです。

言わずとしれた、“おとな”です。教師は「子どものため」に、社会規範を教え、塾講師は受験競争で勝てるよう叱咤激励していることでしょう。親も、そんな教師や塾講師に従うよう、子どもを促すことでしょう。

たとえ子どもが納得していなかったり、辛くて仕方が無いと感じていたりしても、周囲のおとなは、それをやりきることが「あなたのため」だと主張します。

「あんな学校には行きたくない」
「教師を代えてほしいだ」

と言っても、通りません。それどころか「わがままだ」とか「聞き分けがない」などと言われ、その思いさえ聞いてもらえないこともよくあります。

「子どもの最善の利益」と言いながら、ここでも子どもは門外漢です。子どもの意思が尊重されることは、まずありません。

子どもの意思の尊重?

確かに、家事事件手続法では、親権者の指定や変更、子の監護に関する処分の審判では、15歳以上の子の話を聴かなければならないと定められています。なので、15歳になれば子どもの意思は尊重されるようなイメージがあります。が、私の認識では、これまたかなり眉唾です。

たいていの子は、身近にいて、自分の世話をしてくれているおとな(多くは同居親)の期待に応えたいと思っていますし、その気持ちや願いを忖度します。

子ども自身が「忖度している」と意識していなくても、毎日そばにいる親から伝えられる親の思いをしっかりと吸い取ってしまうのです。そして、いつの間にかそれがすっかり自分の思いや願いになってしまっているというケースにたくさん出会ってきました。

そうしてできあがった「子どもの意思の尊重」ですから、結局、その中身は子どもの身近にいる親の考えや意見を尊重しているだけになってしまいます。

最近、私が気になっている言葉に「子の福祉」があります。よく聞くようになった言葉なのに、その意味がぜんぜん分からないのです。

そもそもこの言葉を聞く機会が増えたのはなぜなのでしょう。考えられる理由はいくつかあります。

①こども家庭庁ができ“まがりなりにも”「子どもまん中社会の実現」を目指す機運が高まっていることや、②それとの関連で「子どもの意見(意思)の尊重」が言われるようになったこと。
③民法改正で共同親権が法制化されたこと、④その本格実施を目前に控え、離婚を考える夫婦が「子どものこと」を考えないわけにはいかなくなってきたこと。

⑤以上のような社会情勢を受け、別居・離婚・面会交流をめぐる悩みをかかえて、カウンセリングを利用する方が増えたこと、などでしょうか。

さらに「もやっ」としたのは、
「子どもの意見をきちんとすくうべき」
と言いながら、その意見の内容を政策等に反映する際は、
「子どもの年齢や発達段階、実現化に生、予算や人員なども考慮しつつ、子どもの最善の利益の観点で判断」
となっていて、
「意見がどう検討され反映されたか、反映されなかった理由を伝える」
と、同記事に書いてあったことです。

子どもの意見が大事だとか、子どもの声をすくうだとか言いながら、結局は、
「おとなが、おとな目線、おとな都合で判断し、決める」
ということに過ぎません。

子どもがどんなに一生懸命に考え、思いや願いを伝えても、それが「意味のあるものかどうか」を決め、「すくうかどうか」を決めるのはおとななのです。

おとなの自己満足かエクスキューズ

そんな権利の、いったいどこが「子どもの権利」だというのでしょう。そんな権利をわざわざ子どもに与えることにどんな意味があるというのでしょうか。

あえて意味を考えるとしたら「わたしはちゃんと子どもの意見も聴きましたよ」と、おとな側の自己満足を満たしたり、子どもに寄り添ったように見せるエクスキューズに過ぎないのではないでしょうか。

そんな子どもの権利はいらない!

そもそも子どもは、おとなに比べてさまざまな点で未熟です。理性も判断能力もおとなのようにはいきません。もし、理性的に何かを判断し、決定したとしても、それを実現するための経済的、社会的能力もまだまだありません。

だからこそ、「子ども」という存在なのです。

そんなおとなに及ばない子どもに、意見を言わせ、おとなの意に添えばそれをすくって「あなた(子ども)が決めたんでしょ!」と責任を子どもに負わせる。一方、意に添わなければ却下する。

そんな、おとながどうにでもできる、おとながいかようにも利用できる子どもの権利なんかいらない!

5月5日は「子どもの日」でした。

例年に漏れず、昨日は子どもの日にちなんだ全国各地のイベントや、「子どもの数の減少」(前年より35万人減)、「不登校」(23年度の小中学校の不登校数は34万6482人で連続11年増加)など、子どもに関するニュースがさまざま報道されました。

そうしたなか、またもや「もやっ」とした記事が・・・。

「子どもの意見 すくえていますか?」(『東京新聞』5月5日)という見出しが躍る、子どもの権利、とくに昨今「最も大切!」と声高に叫ばれている子どもの意見表明に関する記事です。

地下鉄サリン事件から25年3月20日で30年。あちこちで、さまざまな検証報道がなされています。

『東京新聞』(25年3月14日)では、サリン事件の実行犯役のひとりで無期懲役が確定している杉本繁郎受刑者が同紙に寄せたという手記も。こんな紹介でした。

「(杉本受刑者は)事件について『最終解脱者は何をやっても(略)すべて許されるという妄想を本気で信じ込んでいた麻原影晃(本名・松本智津夫元死刑囚、2018年7月死刑執行)の妄想の集大成、それが地下鉄サリン事件だった』と総括。社会へのカルトの浸食があらためて不安視される現在、『生の続く限り、知っていることのすべてを語り続けたい』としている」

あさましい権力者たち

一連の「オウム真理教事件」を検証すること自体は否定しません。しかし、宗教という、多くの日本人がアレルギー反応を感じる“特殊な”ものに矮小化されてしまうのは、ちょっと「もやっ」とします。

「最終解脱者は何をやっても(略)すべて許されるという妄想」の「最終解脱者」の部分を「巨万の富を持つ者」と置き換えたら、アメリカに象徴される、現代社会の権力者となんら変わりありません。

金と権力を背景に「自分は特別」という妄想にとらわれ、平気で他国の領土を侵略し、資源を横取りし、自国(自分)の利益だけを追求する。権力者たちのほうがもっとあさましい気さえもします。

私の人生を変えたオウム真理教事件

そんなことを考えていたら、ふと、私がまだタブロイド紙に勤めていた頃を思い思い出しました。空前の「オウム景気」に沸いていた地下鉄サリン事件直後の時代です。

思えば、今の私があるのは同事件があったからです。

サティアンと呼ばれるオウム真理教の施設(山梨県旧上九一色村)から、必死で抵抗するオウム真理教信者の子どもたちが、機動隊や警察官に力づくで、次々と担ぎ出され、それを「またひとり、子どもが“保護”されました!」と実況中継する報道陣。

その姿に、大きな大きな「もやっ」と感を覚えたことが、子どもの権利条約に惹かれる要因をつくり、マスコミの世界から心理の世界へと転身するきっかけになりました。

そんな私の人生を変えた事件から、はや30年。そして去年は日本が子どもの権利条約を批准して30年でした。

そんな節目に、もう一度、子どもの権利のことを考えて行きたいと改めて思う、今日この頃です。

前回のブログで「2025年は、日本が子どもの権利条約に基づく国連審査に向け、6回目の日本政府報告書を提出する“はず”の年。それにむけ、何より集めたいのは子ども自身が書く『子ども報告書』」と書きました。

これがなかなか難航しています。

『子ども報告書』難航の理由

私が感じる理由は大きく分けてふたつ。

ひとつは、子どもたちがめちゃめちゃ忙しくなったこと。第3回の日本政府報告審査に参加した子どもたちとは、渡航費用を稼ぐためにバザーをやったり、長い休みがあるときには合宿したり、だれかのうちに集まって夜な夜な「あーでもない、こーでもない」と雑談交えて話合う、などをやってきました。

が、前回(第4・5回)の子どもたちとはようやく数回の合宿ができただけ。学習会と称して数ヶ月に1度集まって、報告書の内容を深める話し合いをもつことさえままなりませんでした。

忙しい子どもたち

今回(第6回)の子どもたちはさらに忙しくなっています。

現在、どうにか集まれている子たちは小学生。それでも予定を合わせるにはなかなか苦戦しています。

中学生、高校生ともなると、部活に塾に習い事、さまざまな検定試験やらそれらに向けた勉強などが目白押し。「興味があるので行ってみたい」と連絡をくれる子はいるものの、何らかの予定が入ってしまって結局は参加できず、ということを繰り返しています。

怒らない子どもたち

ふたつめの理由。個人的にはこれがとっても大きいと感じているのですが、子どもたちがとってもおとなしくなったことです。とにかく、怒りません。おとなに気を遣うし、よく言えばものすごく社会適応が良い。悪く言うと従順です。

話を聞いていると、親への不満、教師への不満、学校への不満・・・いっぱいあるのに、「じゃ、それを報告書にしてみようよ」と言うと、そこで止まってしまいます。

帰りの会が最短で終わるよう壁にかけたストップウォッチでカウントダウンされること、教師が「気に入らない」と思う子を標的のように攻撃すること、やりたくもない受験にひっぱり回されること・・・どれもこれも変なのに、「先生ガチャは仕方がない」「親ってそういうもの」と、達観している感じです。

自殺や自傷の増加にもつながる

批判したり、反論したり、何かを変えていこうと熱くなるのは「スマートじゃない」という様子も見て取れます。

怒りはとっても大切な感情です。理不尽なことをされたとき、不当に扱われたとき、自分を守らなければいけない状況に追い込まれたときに、不可欠です。

怒りを忘れ、去勢された子どもたちは生きるエネルギーも萎えて行きます。それが、10代の自殺を増加させ、20代の自傷・自殺未遂最多の現状につながっていると思います(『東京新聞』25年2月16日。

そとに向けることができない、表現すること、いや、気づくことさえできなかった怒りは、自分に向かうしかありません。

子どもたちよ、もっと怒れ!

2025年は、日本が子どもの権利条約に基づく国連審査に向け、6回目の日本政府報告書を提出する“はず”の年です。

“はず”と書いたのは、原則は5年に1回の報告書提出そして国連審査なのですが、政府や国連の事情が重なり、なかなかそうはならないからです。前回(2018年)は、あまりにも間が空いてしまったため4・5回合同の審査になりました。そして、今年で7年が過ぎようとしています。

日本が子どもの権利条約を批准したのは1994年。それから計4回の審査しか受けていないことからも、日程が延び延びになりがちなのがよく分かるかと思います。