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もはや、「原発は安全で低コスト、そして環境に優しい」とは、とうてい思えません。

震災から9ヶ月がたとうというのに、福島第一原発では「安全」からはほど遠い状況が続いています。

復旧や廃炉に向けては、少なくとも30年以上はかかるという見通しです(『朝日新聞』11月12日)。
また、フランスの政府関連機関である放射線防護原子力安全研究所(IRSN)は、流出した放射性物質の量は東京電力が試算し公表している量の20倍相当になるとの報告を発表しています(福島第一原発事故-海洋放射能汚染は東京電力試算の20倍相当)。

見せかけの安全と低コスト

原発が「安全で低コストに見えた」のは、事故や放射線の危険性をまったく度外視していたからです。
事故が起きたり、廃炉にしたりする場合の費用や何かあったときの補償などを、まったく組み込まずに、つくり続けてが起きたからです。

「環境に優しい」というのは、たんに「発電の際、二酸化炭素を出さない」というだけの話にすぎません。

今まで私たちの社会は、そんな原発を受け入れ、特別な予算までつけて増設することを許してきました。そうして、事故の後でさえも、「原発は効率がよく、クリーンなエネルギー」と言ってはばからない経済界や大企業の利益に与してきました。

フロムの言葉を借りるなら、まさに原子力(水爆戦争)による破滅への道を選び、「技術を人間の幸福に奉仕させる社会」ではなく、「人間を技術(経済)の発展に奉仕させる」社会をつくってきたのです。

暗雲垂れ込める分かれ道

さて、分かれ道です。
これから先、はたして日本は人間を幸せにする社会を選び取ることができるのでしょうか。

残念ながら、昨今の野田首相の言動を見ていると、暗雲が垂れ込めていることは間違いなさそうです。
野田首相率いる政府は、この期に及んで、なおも「原子力ビジネスを継続する」と断言し、新興国を中心に原発を輸出するという姿勢を崩しません。

そんな日本政府の態度を「アメリカへの忠誠の証し」(『東京新聞』2011年9月27日ほか)と批判する声もあります。
アメリカの原子力関連企業は、日本の原発メーカーから莫大なライセンス料を得ており、さらにはアメリカ企業は日本のメーカーを通して技術を維持していると言うのです。

以下のブログに、関連記事が載っているので、ご興味のある方はご覧ください。

原発-アメリカ内「政府(推進)VS電力会社(脱原発)」それぞれの記事からみえるもの続く…

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まるで「死の商人」です。

制御する術が確立していなかったことが露呈し、甚大な事故が起きれば損害賠償保険さえ打ち切られてしまう可能性がある原発(福島第一原発 1200億円保険打ち切り)。そんな危険なものを平気で他国へと売りつけることができる神経に、戦慄さえ覚えます。

野田政権の姿勢

それだけではありません。

野田政権は、アメリカ軍普天間飛行場の沖縄移設の具体化、武器輸出三原則の見直し、環太平洋連携協定(TPP)への参加推進の姿勢などを明らかにしました。
いずれも、アメリカ追随、そして、輸出によって利益を生み出したい人々の顔色をうかがっているとしか思えないやり方です。

さらに消費税率の引き上げについては、野田首相が先のG20首脳会議でその意志を表明するという「自国民の生活よりも経済活動優先」の意思もうかがい知れました。

こうした現実を並べてみると、人の命の尊さ、大切な存在とのつながりを否応なく実感させられた大震災を経た分かれ道の先にあるのは、やはり「技術を人間の幸福に奉仕させる社会」ではなく、「人間を技術(経済)の発展に奉仕させる社会」のように思え、暗澹たる気分になります。

「人間が幸福になれる社会」など念頭にない

もし野田政権が、ほんのわずかなりとも「人間が幸福になれる社会」を念頭に置いているのであれば、このタイミングで原発輸出やあからさまなTPP参加意欲を示せるでしょうか。

被災された方の中には、農業や酪農、漁業などの第一次産業に従事者がたくさんいます。
そうした方々の生活が、地域が、仕事が、再建の目処も立たない今、その神経を逆なでし、打ちのめすようなことをできようはずがありません。

いくら「農業などは対象外にするよう交渉する」と日本政府が力説しても、アメリカ側の強い姿勢、アメリカ追従の野田政権に、それができるかはかなり疑問です。

つい最近も日本政府は狂牛病問題がつきまとうアメリカからの牛肉の輸入を緩和する準備に入りました。
アメリカの食肉処理工場はブラックボックスで、どんなことが行われているのかの実態も分からず、安全性の確保が厳しいにも関わらず、アメリカの意向に沿った判断を下したのです。(続く…

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フロムは言います。

「現在のシステムの中で働いているすべての人間の努力や思考を導く原理はふたつあり、システムはその線にそって動いてゆく。

第一の原理は、何かをすることが技術的に可能であるから、それを行わなければならないという原理である。核兵器をつくることが可能なら、たとえ私たち皆が破滅することになっても、それは作られなければならない。月や惑星に旅行することが可能なら、たとえ地上の多くの必要を満たすことを犠牲にしてでも、それはなされなければならない。

この原理は、人間主義(ヒューマニズム)の伝統が育ててきたすべての価値の否定を意味する。この伝統においては、何かをしなければならないのは、それが人間にとって、また人間の成長、喜び、理性にとって必要だからであり、またそれが美であり、善であり、あるいは真であるからであった。

何かが技術的に可能だからしなければならないという原理がいったん受け入れられると、他のすべての価値は王位を奪われ、技術的発展が倫理の基礎になる」
(『希望の革命61ページ』)

フロムのことばを繰り返しながら

フロムのこの言葉を繰り返しながら、ひとたび事故が起これば、その周辺で暮らすあらゆる生命を脅かすことになっても、原発の輸出にためらいを感じ無い人たち。また、つい最近の、情報収集衛星の打ち上げ成功を「成功率95%の世界最高水準の技術力を示した」と喜び、沸くニュースを読むと、その類似性よく見えます(情報収集衛星:H2Aロケット20号機打ち上げ 「世界に技術力示す」/鹿児島

福島第一原発の事故を意識し、さすがに原発輸出ビジネスの継続にはクビをかしげるマスコミもありますが、情報収集衛星打ち上げを疑問視する声は、とんと聞きません。宇宙開発とそのビジネス利用への参入をもてはやすムードの方がずっと高いように思えます。

第二の原理は最大の効率と生産

さらにフロムは、同書(62ページ)で以下のように続けます。

「第二の原理は最大の効率と生産の原理である」と。そして、効率と生産の原理を挙げるためには、「人間は個人性を奪われ、自分自身の中よりもむしろ団体の中に自己の同一性を見いだすように、教えられなければならなくなる」と。(続く…

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このフロムの言葉は、ともすると日本の状況を現すときに昨今よく使われる「多様化した社会」とか「個性化の時代」などとは真逆の言葉のようにも聞こえます。

多くの人が、今の日本社会は自由に人生を選び取り、さまざまな個性に応じて生きて行けると思わされ、私たちは自由で公平な社会に生きていると錯覚しているからです。

現実を見れば、今の社会がマニュアル主義になっていること、個人よりも組織の判断が優先されていること、ひとりひとり違う人間存在(個性)よりも効率性が重視されていることは、明らかです。

一見、自由に見えるけれども、そこにはいつも選ぶべき答えが用意されており、それ以外の選択をすれば、その組織の中枢からはじき出されます。
「何を言ってもいいんですよ」というタテマエを信じて本音を語れば「空気の読めない人」として排除されていくのです。
しかもそうして片隅に追いやられ、たとえば“負け組”に入ったとしても、それは「自己責任」として、その当人が引き受けることとされます。

端的に現す高校生のプレゼン

かつて私がブログ(『家族はこわい』)でも紹介したある高校生が言った次の言葉が端的に、そんな日本社会の状況を表しているように思います。

私たち子どもは「子どもだから」と話し合う場を用意されず、学校ではいうように教えられても言う場を与えられず、もし意見を言っても聴いてもらえません。
また、意見を言わなくても生きていける、物質的には裕福な社会にいます。逆に意見を言ったために周りから白い目で見られ、孤立させられてしまうなど、時には思いもよらぬ不当な扱いを受けることもあります。
 そうしているうちに、多くの子どもたちは意見を言うのを恐れ、また言っても変わらない現状に疲れ、自分の意見を主張するのをやめていきます」(1997年の子どもの権利条約に基づく第一回日本政府報告書審査での高校生プレゼンテーション)(続く…

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そんな社会では、ひたすら個性を殺し、自ら進んで「長いものに巻かれる」ことで生き延びるしかありません。多様性のある価値観も、生き方もできようはずがないのです。
一昔前よりも多様化が進んだものといえば、働き方くらいなものでしょう。しかしそれも、ある労働組合の方は、こんなふうに断じていました。

「よく、派遣や契約、アルバイトなど、正社員だけでなくさまざまな選択ができるよう『働き方が多様化した』と言う人がいますが、それは違う。経営者の、大企業の都合に合わせて『働かされ方が多様化した』だけです」

今や、非正規で働く男性は539万人で労働者全体の19%、女性では1218万人で女性雇用者の54%を締めています(2011年12月9日『朝日新聞』)。日本の従業員約27%がパートタイム労働者になりました(2011年12月15日『東京新聞』)。年収200万円以下の所得者層が1000万人を超え、低所得者(07年調査では114万円)を示す相対的貧困率は16.0%にも達しています。

不安定雇用を強いられる人たちが就いている仕事の多くは、自分らしさや創造性を必要としないマニュアル化した仕事。流れ作業のように仕事を“こなし”、不平不満があってもおとなしく飲み込んで会社の歯車のような働き方を強いられる仕事。自分らしく意見を述べれば、すぐにクビを着られるような仕事。効率性や経済性だけを追求させられる仕事。

つまり、人として働く意欲や意義を持ちにくい非個性的で非人間的な仕事ばかりです。

「マクドナルド化」した世界

このような仕事のあり方、企業のあり方、考え方が、本来は個性や人間性、批判精神を必要とするはずの教育や福祉、医療、法律、ジャーナリズムなど、あらゆる分野に浸透しています。アメリカの社会学者であるジョージ・リッツァが指摘した世界の「マクドナルド化」です(詳しく知りたい方は『マクドナルド化する社会』早稲田大学出版部を参考にしてください)。

確かに経済的な合理性を追求しようとするのであれば、マクドナルド的な手法ほど良いものはありません。しかし、そのために払う甚大なリスクに、私たちはあまりにも無頓着です。

「マクドナルド化」した環境で生きる人間の想像力は低下し、創造性は失われ、その考えは型にはまったものになります。働き手は阻害され、新しいアイディアは浮かばなくなり、安い給料で働かざるを得ない人を大量に生み出し、貧困の連鎖を招きます。フロムが言うとおり(同書、65ページ)、ストレスや緊張は高まり、さまざまな健康上の問題も生じ、社会は健康維持のために大きなコストを払わねばならなくなります。

不平等感や不満、偏った優越感などが犯罪の温床となり、社会は住みにくく、リスクは高まって行きます。(続く…

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想像力・創造力を失い、型にはまった考え方しかできない例は、たとえば「指示まちくん」などと揶揄される「ゆとり世代」に象徴されているかもしれません(「ゆとり世代」の若者を批判する論調には異論がありますが、今回は触れません)。

一方、健康上の問題は13年間も続いている年間3万人の自殺や、うつ病などの気分障害の患者数の増加などに見て取れることでしょう。
1996年には43.3万人だった総患者数が2008年には104.1万人となり、9年間で2.4倍にまで増加しています。さらに、2009年の20代〜30代の死因トップは自殺で5割を超えていますが(『平成23年版自殺対策白書』)、その実態は気分障害の増加がもっとも多いのは30代というデータとも重なります(『社会実情データ図録』)。

すでに『希望の革命』で看過

このような社会の問題をフロムはすでに『希望の革命』で看過していました。
同書の「訳者(作田啓一氏)あとがき」(234ページ)には、その考えが以下のようにまとめられています。

「最大生産の原理が現代社会に貫徹しており、その貫徹の要件として最大能率、最大消費の原理が作用するとともに、上からの計画を施行するため、人間を<ケース>として取り扱う官僚主義的管理がゆきわたる。
限られた時間と空間の中では能率的である行動も、もっと広い幅の時と所を念頭におけば、<人間というシステム>の機能障害に貢献するだけであり、体制が作った消費の欲望を追及することで、人々は物の主人公になるつもりでいるが、じつは物への依存を深めるにすぎない。物、地位、家族などの所有は自我(エゴ)を確認するための有力な方法である。

だが、そのような方向に向かって人が貪欲になればなるほど、真の自己(セルフ)は空虚となる。自我防衛のための所有の方向は、外界に向かって自らを開き、自発的、能動的に自らを世界に結びつけることによって得られる存在の確認の方向と両立し得ない。
今日の体制のものとでは、所有は存在を貧しくすることによってしか得られず、そして存在が空虚になればなるほど、その代償として所有の追及が行進する」

最大能率、最大消費を目指す最大生産の原理は「グローバル経済」の名の下、ときに「民主化」などという仮面をかぶって、世界中でどんどん進んでいます。

希望はないのでしょうか? 私たち人間はこのまま機能障害に陥り、人間らしい営みを奪われ、滅んでいくしかない。

希望はある

いいえ、希望はあります。なぜなら人間は「可能性のある限り、生命を守るためのあらゆる努力をする」(同書、209ページ)存在であるからです。

その兆しを、私は震災後に感じました。未曾有の大震災、原発事故という取り返しのつかない人災を経て、私たちは「命と人間関係ほど大切なものはない」ことを改めて確認しました。いくら所有し、溜め込んでも、それだけでは人間は幸福を感じられないことを実感しました。どれほどの物があっても関係性を失ってしまえば、そこにあるのは空虚でしかないことを思い知らされました。その象徴として、今年の漢字には「絆」が選ばれました。

道を過つことがないように

今、私たちは分かれ道に立っています。一本の道は、人間に破滅をもたらしても大量生産、大量消費を目指す経済効率を優先する社会。もう一本の道は、人間の幸福のために経済を、物質を発展させることができる社会です。

その選ぶべき道を過つことがないよう、来年もまた足元を見つめながら一歩ずつ進んで行きたいと思います。今年もブログを読んでいただきましてありがとうございました。みなさまにとって来年が良い年となりますよう心より祈っております。

雪 東京が「4年ぶりの大雪に見舞われる」と天気予報が告げた日、最寄りの駅に行くと「緊急のお知らせ」という立て看板が置かれていました。通常は、人身事故で周囲の関係各線が止まったときなどに出るものです。

「もしや人身事故で出勤できない?」と、あわてて看板に近寄ると、
「来週月曜日(1月22日)に関東地方で大雪の予報が出ています。電車が通常運行できない場合があり、交通に影響が出る可能性があります。いつもより余裕を持っての乗車をお願いします」といった内容でした。

もしかしたら、私の最寄り駅の話だけなのかもしれませんが、まだ雪も降っていないうちから「緊急のお知らせ」を出すなんて・・・。よく言えば、その律儀さというかまじめぶりに、悪く言えば責任どうにか回避しようとい姿勢に、思わず吹き出してしまいました。

これが「日本人!」?

この話を海外経験の長い友人やクライアントさんにしたところ、みな一様に「『日本人』って感じ!」と口をそろえ、次のように言いました。

「予想外に大雪が降ったりして交通網が乱れたら、私が暮らしていた国では当然のようにみんな休む。『事故の可能性が上がって危ないし、公共交通機関も乱れているのに、なんでわざわざ仕事に行くの?』と言うと思う。だけど日本人はどんなに大変でも『仕事なんだから』と、どうにかして出勤しようとするんだよね。逆に、雪が降ったことを理由に仕事を休んだら、白い目で見られたりして」

大雪の予報を受け、都心のホテルは軒並み満室。タクシーも予約がいっぱいで、当日では予約を受け付けられない状態でした。
夜のニュースでは、帰宅を急ぐ人が押し寄せ都心の基幹駅では軒並み入場制限が行われ、改札に入れないあぶれた人でごった返し、騒然とした様子が放映されました。

311直後を思い出した

その映像を見て、311直後の都心の風景を思い出しました。電車が間引き運転され、急行や乗り入れも軒並み運休。乗車してからの「行き先変更」なども行われ、私も通勤・通学するだけでへとへとになったのを覚えています。
駅に行ったら電力不足のためなのか? シャッターが降りていて駅に入れないということもありました。

それでも多くの日本人には「仕事を休む」という発想は無いようでした。かく言う私も、やはり日本人。いつもよりもかなり早めに家を出て、ちゃんと出勤を続けました。

津波 311直後には、こうした日本人のきまじめさ、規範意識の高さが、たびたび海外メディアにも取り上げられました。

未曾有の大地震に見舞われ原発事故まで起き、燃料や食糧が不足しても、奪い合うこともパニックを起こすこともなく、だれかを押しのけて暴走することも無く、自分の順番が来るまで整然と並んでみんなと一緒に待つ姿が「美徳である」と語られました。

「美徳」が命取りに

一方で、こうした日本人気質が命取りになったケースもありました。2011年10月2日放送のNHKスペシャル巨大津波「その時ひとはどう動いたか」では、東日本大震災の津波で多くの犠牲者を出した宮城県名取市閖上地区を取材し、震災が発生したときの人々の心理と行動を分析していました。

番組では、多くの人が有効な避難方法を取ることなく亡くなってしまった理由を①正常性バイアス(危険な状況ではないと思いこむ心理)、②愛他行動(自分の命をかえりみず他人の身を守ろうとする行動)、③同調バイアス(判断や行動を周りに合わせようとする心理)の三点から、解き明かそうとしていました。

語られていた心理状態についてはさておき、私は番組が③同調バイアスのエピソードとして示していた人々の次のような行動に衝撃を覚えました。

渋滞にはまっても待ち続けた

閖上地区には、大通り沿いに公民館、中学校、小学校の3つの避難所がありました。それまで、津波はこれらの避難所までは来ないという想定でしたが、あの日、津波はその想定を超え、それぞれの建物の1階部分を完全に飲み込みました。

そして、最も犠牲者が集中していたのは、公民館と中学校の間でした。なぜ、「公民館と中学校の間」だったのか。「公民館は危ない。中学校に移動した方が良い」というあいまいな情報に不安を持った大勢の人々が、車での移動中に津波に巻き込まれたからです。

当時、3カ所の避難所をつなぐ片側一車線の道には、整然と車が並んでいたと言います。迫っている大津波を目撃したある証言者は、渋滞の列に並んでいる車の窓ガラスを叩きながら、「車が動けないなら走ってでも逃げないと。もう間に合わないぞ」と声をかけたと言います。

このときの様子を、番組では次のようにナレーションしていました。

「危機に気付いた一部の人々は裏道を通って逃げました。それは可能でした。しかし、大多数の人が次から次へと渋滞にはまり、じっと待ち続けました」(のうみそのなかみをちょっとだけ

行列 津波が来ると聞きながらも、おとなしく渋滞の列に並んでいた人々。

 その番組を見ながら、私は311のあと不足しがちだったガソリンや灯油を求めるため、私の家の近所にあるガソリンスタンドを目指して整然と並んでいた車の列を思い出していました。何百メートル、いや、もしかしたら1キロくらいに渡って並んでいたのです。

 未曾有の震災を体験し、だれもが得たいの知れない不安感、先の見えない恐怖のようなものを抱えていたと思います。

 ガソリンや灯油だけでなく、東京周辺でもトイレットペーパーや水など一部の物が品薄になっていました。計画停電が行われ、明るいテレビ番組は自粛。やたらにACジャパンのCMが流れていました。

 当時、私が相談にうかがっていたある施設では、「ACジャパンのCMを聞くと泣き出す子どもがいる」という話を聞いたほど、テレビを点けるだけでどこか異様な雰囲気が感じ取れ、前に書いたように通勤・通学するだけで一苦労というような、日常から遠く離れた日々が続いていました。

 そんな異常事態のなかでも、文句を言うことも無ければ、割り込もうとする人もいない風景。じーっと列に並び、たんたんと進んで行く車の、その落ち着いた様子が、逆に異様な光景のような感じがしました。

みんなと同じにふるまうのがよいこと

「みんな、そうしているんだから」

 子どもの頃、何度となくおとなたちに、そう言われたことを覚えています。

「個性化」とか「多様化」という建前とは裏腹に、私たちは物心がつく前から生活のあらゆるシーンで、「まわりと違う行動を取るのは良くないことだ」「周囲に合わせておけば安心だ」と、「まず集団のことを考えろ」「自分を優先させることは控えろ」と、教え込まれてきました。

 たとえ非常事態においても、そこから逸脱することは許されません。その好例が、以前にもご紹介した宮城県石巻市立大川小学校の一件でしょう。

同調バイアスを強化する教育現場

 311の日、大川小学校では教員と一緒にいながら、避難することもなく74名もの子どもが津波に巻き込まれて亡くなりました。津波が来るまでの約50分間、校庭で待機させられた子どもたちは、「このままでは死んでしまう!」「先生! 山に逃げよう!」と口々に叫びました。
 中には自分1人で山へと逃げた子どももいました。 しかし、そうした子どもは「団体行動を乱す」と連れ戻され、結局は命を落としました。

 このエピソードは、日本の教育現場がまさに異常事態でも周囲との同調を最優先させる、いわゆる同調バイアスを強化する場となっていることを物語るものです。

不登校 子どもたちを縛る同調バイアスがいかに苦しいものか。・・・2010年の第3回日本政府報告審査時に国連「子どもの権利委員会」でプレゼンテーションをした子どもが語ったことからも明らかです。
 ある子どもは、子ども同士の閉塞的な人間関係について次のように発言しました。

「私達は『苦しくてあたりまえ』という奇妙な連帯感に縛られていて、へたに声を発すれば嫉妬や恨みを買ってしまうので、自分の本当の心を殺し、お互いに演技を続けています。私達は自分の要求や欲求を口に出せないことよりも、一人だけ浮いてしまうことの方が怖くて、人間関係に臆病になり、関係性が壊れることを恐れて、‘発言’することを避けます。
 周囲がどう自分を評価しているかを気にするあまり、存在するかどうかも分からない『他人の感情』に怯え、他人と同調し、いつしか自分の感情さえも解らなくなるーー。そんな不気味な関係の中で生きています」(国連に子どもの声を届ける会『子どもの権利モニター』NO.103 81ページ)

強まる同調バイアス

 子どもたちが上記のように発言し、国連「子どもの権利委員会」が教育の在り方をはじめ、子どもを取り巻く人間関係を見直すよう最終所見を出してから、今年で8年になろうとしています。

 この8年の間に、同調バイアスは少しでも緩み、子どもたちの息苦しさは改善されたのでしょうか。いえ、私にはますますひどくなっているように感じられます。 
「こうしなければいけない」、「ああするべきだ」というおとなの価値や期待に縛られ、自分の感情さえ見失ってしまった子どもは、むしろ増えているような気がしてなりません。

 私は、仕事でも不登校になった(もしくは不登校ぎみの)子どもと会うことが多々ありますが、その多くが非常に感受性が強く、自分でものを考える力を持っていて、他人(クラスメイト)に同調することが難しいという特徴を持っているように思えます。

もし自分が子どもだったら

 そんな子どもたちから「どうして学校に行きたくないのか」「学校の何が嫌なのか」を聞いていると「ああ、それはそうだよね」と共感できることばかりです。

 たとえば「社会科見学のとき、列からちょっとはみ出すだけで怒鳴り散らす先生が怖かった」「本当は自分がやっていないことを自分のせいにされ、話も聞いてもらえなかった」「道徳の時間には『みんな仲良く』と教えるくせに、実際には『受験競争に勝って少しでもいい学校へ進学しろ』と言うのはおかしい」などなど・・・。

 挙げればキリがありません。不登校の子どもたちから学校の話を聞いていると、「むしろ多くの子どもが学校に行けていることのほうがすごい!」と思えてしまいます。

 もし自分が今、子どもだったら・・・とても毎日、登校できる自信はありません。