耳ざわりのいい言葉やフレーズを聞くと、ついつい「それってほんと?」と、真意を疑ってしまう自分がいます。
ひねくれ者であるうえに、経験上、本音と建て前がかけ離れたものほど、きれいなオブラートに包まれていることが多かった気持ちがするからです。

最近、私が気になるのは地域のさまざまなサービス。地方負担が増える中で、サービスが低下するに連れて、そのネーミングはどんどんフレンドリーな雰囲気になっています。
たとえば説教ばかりする「さわやか相談員」、まったく相談に乗ってくれない「くらし応援室」、動物を処分する「動物ふれあいセンター」、子どもを縛る「子ども生き生きプラン」などなど・・・。

みなさんもお心あたりはありませんか?

うさんくさい「絆」

鳩山首相が大好きだという「絆」という言葉もそうです(谷垣氏のパクリ? 今年の漢字で鳩山首相はなぜか「絆」)。
もともとは人と人とのつながりを差す、とても良い言葉であることは分かっているのですが、最近の使われ方がどうも気になります。

民主党の子ども施策の目玉である「子ども手当」が、今まで子どもの居場所(人間関係)を保障してきた保育や教育などの予算を取り上げ、各家庭がそのお財布状況に合わせて消費活動をするようばらまかれるものであるという事実が象徴するように、民主党はけして「絆」を大事にする政党ではありません。

事業仕分けは、今まで「人と人とのつながり」を前提に行われたきた福祉や教育といった分野の事業までを、企業に丸投げし、その儲けの対象とすることになんら躊躇しない政党であることを明らかにしました(事業仕分け 「民業圧迫」と予算減)。

それなのに「友愛」だの「絆」だのという言葉を使う首相。
そのウラにはまったく違う真意、もしくは言葉の解釈があるように思えてしまうのは、うがった見方なのでしょうか?

「ゆとり教育」見直し

そんな私が、今年度になって、かなりげっそりした気分にされられたオモテとウラを感じる言葉のひとつが「ゆとり教育」です。

昨今、「ゆとり教育」は、「見直し」や「路線変更」というフレーズと言葉とセットで使われることが多いのですが、過去を振り返ってその中身や導入の経緯をきちんと検証することもなく、ただただページが増えた教科書と、それが学校現場に与える影響について、表面的な議論ばかりが飛び交っています。

そして中には「教科書が厚くなったのだから、子どもの学力は上がる」という、びっくりするような楽観論まであったりします。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

そもそも「ゆとり教育」は、子どもにゆとりある学びを保障するためにスタートしたものではありません。

その中身は、
「どんな家庭に生まれたどんな子でも、等しく教育を受けられる」
という平等教育を解体して、公教育費を削減させるために
「出来る子には手厚く、それ以外には最低限の教育」
へと、日本の教育を変えていくための装置として準備されたものです。

いったいどういうことなのか。
「ゆとり教育」の現実や、批判論議を振り返りながら、説明したいと思います。

「ゆとり教育」批判のきっかけ

私が「ゆとり教育」について、当事者(保護者や子ども、教師)についてよく話を聞いたのはその批判が高まりはじめた2004年から2005年にかけてでした。

批判の直接的なきっかけは、2004年末に公表された二つの国際学力テストの結果です。
一つはPISAという経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査。もう一つは、TIMSSという国際教育到達度評価学会(IEA)の国際数学・理科教育調査です。

とくにインパクトが強かったのは、PISA。いわゆる読み書き計算などの机上の学問ではなく、子どもの生きる力=「実生活の中で使える知識や技能」を測るとされたこのテストで、読解力が8位から1位に、数学的応用力が1位から6位になったのです。

しかも、「ゆとり教育」のスローガンは「子どもたちに『生きる力』を!」でした。子どもたちに「生きる力」をつけてもらうために、週休二日制にしたり、教科内容を削減したり、「総合的な学習の時間」(総合学習)をスタートさせたはずでした。

学校からゆとりを奪った「ゆとり教育」

実は、これら「『生きる力』をつけてもらうための取り組み」にも、さまざまなカラクリがあるのですが、その話をする前に「ゆとり教育」の現実についてふれておきたいと思います。

当時、私がよく聞いたのは「『ゆとり教育』が始まった頃から、学校にはゆとりが無くなった」というセリフでした。

たとえば、小中学生の親でもある中学校教師の方は、こんなふうに「ゆとり教育」について話していました。

「授業時間が減って総合学習が入ったことで、子どもは教科の宿題と総合学習の調べ物、そして受験勉強に追われるようになりました。子どもに興味を持ってもらえるようなゆとりある授業ができ、子どもが自分のペースで考える時間のある総合学習なら『生きる力』につながるかもしれませんが、今の学校にそんな余裕はありません。うちの子どもは、教科の宿題はせずに総合学習の調べ物を優先させています。週休二日になった分、平日の帰りが遅くなってとてもすべてをこなすのは無理なのです」(続く…

このシリーズの最初の記事へ

教科内容の削減(いわゆる教科書の3割削減)も本当の「ゆとり」にはつながりませんでした。

なぜなら、国連「子どもの権利委員会」から二度にわたってその見直しを勧告されているほどに競争主義的な受験教育体制は、そのままだったからです。

教科書が薄くなっても

たとえ教科書が薄くなったとしても、受験を中心とした教育システムや社会の在り方が同じであれば、「教師が教えなければならない内容」が変わるはずがありません。
ほんのちょっと考えればだれでも気づくことです。

一方、「ゆとり教育」が始まったことで教科の授業時間は減っています。そのため、子どもがゆっくり考えをめぐらしたり、試行錯誤したり、体験をもとに何かを学んでいく機会はぐっと減ってしまいました。

===
たとえば子どもは、磁石で砂鉄を集めて遊んだり、ゆっくりと観察しながら植物を育てたりしながら、理科の基礎を育てます。みんなでおいしいジュースを味わいながら、その量を量ったりして、リットルの単位を実感したり、重さの概念を知っていきます。

ところが「ゆとり教育」導入後の「ゆとりのない学校」では、そんな授業をする余裕が無くなってしまったのです。
結果的に学校は子どもに、今までもよりも少ない時間、薄い教科書、体験をともなわない学習しか提供できなくなりました。

学習には積み重ねが必要

しかも学習というものは積み重ねです。
次に進むには、一見、難しく見えても押さえておかねばならないポイントというものがあります。「教科書から削除されたから」と、単純に省略すると、かえって子どもが理解できないことも多いのです。

たとえば漢字が書けるようになるためには、まず平仮名の成り立ちを知り、カタカナとの共通性や違いにワクワクしたり、不思議に思ったりしながら、「文字」を自分の中に取り込む必要があります。

文字をならべると意味のある言葉ができることを楽しむ時間も重要です。それを楽しみながら、ある漢字一文字を使うと、意味のある言葉が表現できることに驚いたり、部首やつくり、へんなどがいろいろな意味を持っていることに興味をかき立てられたりしながら、漢字という「図柄(絵文字)」が「言語」として定着していきます。

こうした機会をすっとばして「一年生で覚える漢字の量を減らす」と言われても、子どもは混乱するばかり。「基本的な漢字の仕組みが分かっていないから、あり得ない場所に『`』を付けてしまったり、考えられない方向に『払い』を付けたりする」(中学校の国語教師)なんてことが起こります。

数字全体のイメージがつかめないまま

数字についても同様です。「○年生までは小数点は教えない」とか「3桁以上の計算は来年」として、桁数の少ない計算式をたくさんこなせば計算力がアップするわけではありません。

逆にこうした切り貼りのような学習をしていれば「小数点以下やゼロという数字全体のイメージがつかめないうちに計算方法だけを習うため、計算ができても数の概念が分からいままになってしまう。中には小数点以下が読めない子どももいます」(小学校の教師)という自体が生じるのは当たり前です。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

「ゆとり教育」になったことで、教師は「以前と同じ内容を短時間で、しかも子どもの実感がともなわない方法で教えなければならない」ようになりました。

当然、子どもの理解度は落ちていきます。そして、一度、分からなくなるともう二度と学校の授業には付いていけなくなることも増えました。

「基礎的な学力を何も身につけられないまま、小学校高学年、中学生へと進んでいく子どもが少なくない」
現場の教師はよくそんなふうに嘆いていました。

ゆとりのなくなった教師

そもそも教師自身、子どものことを気にする余裕がなくなっています。「学校を開く」とか「学校の説明責任を明確にする」とか、「優秀な教師を育てる」とか、これまたオモテとウラのある現実で教師への締め付けが厳しくなったのもちょうどこの頃。

オモテ向きはとても耳障りよく聞こえるこれらの言葉の実態は、たとえば基準の明確な数値目標の設定や、教育委員会(文部科学省)の人事考課による教師評価、管理職向けの膨大な事務仕事の増加などです。

すごく簡単に言ってしまうと、“お上”が教師を管理し、個々人の教師が、目の前にいる子どもの現実に合わせて自由に教育を行う自由と余裕を奪ったのです。

時間的にも精神的にもゆとりのなくなった教師には、以前のように必要なときに補習授業をしたり、個別に勉強を見てあげるなどということが難しくなってしまいました。たとえ“気になる子”がいても、教師に余力がなければ「見なかったこと」にするしかありません。

しかも、アメリカを真似た平等や福祉を排除した教育制度——競争と選択によって受けられる教育を個人に決めさせ、その結果責任を個人に負わせて国民を階層化しようというもの——に移行しようという動きもすでに始まっていました。そうした教育制度に親しむよう教育された教師の中には、かつてのように「分かるまでちゃんと教えよう」ではなく、「分からないのは自己責任」と考える教師も増え始めていました。

開く学力の差

当然、“できる子”と“できない子”の学力差は開いていきます。

一昔前には、テストをすると点数の分布表は真ん中付近が高いベル型になるのが普通でしたが、「ゆとり教育」が始まった後からは真ん中がくぼんだM型になることが多くなったという話をあちこちで耳にしました。
しかも、Mの山と山の間はどんどん離れていく傾向にあるというのです。そして、高い点数を取る子どもは、ほぼ全員が塾に行っているという話しも聞きました。

分からなくなった勉強、ていねいに教えてくれる人がいない勉強をすっかりあきらめ、ぜんぜん勉強しない子どもが増える一方で、高額な塾に通い本来は上の学年で学ぶべきことまで先取りして学ぶ子どもも多くなりました。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

教育熱心で、学校以外に勉強の場を確保できるような親がいる子どもの学力は上がり、そうでない子どもの学力は下がる・・・。
そんなことが当たり前のようになっていきました。

そして、学力格差を生み出すような「学ぶ子」と「学ばない子」が歴然とする学校は、学力以外にもさまざまな問題をもたらしました。

それまでは、たとえ勉強ができなくても、走るのが速いとか人前で話すのが得意とか、それぞれの得手不得手を活かして、行事で活躍できる子が大勢いました。
だから、テストでは上位になれなくても、自分のことを卑下したり、ストレスをため込むことは少なかったのです。

でも、ゆとりが無くなり、行事が減らされる一方の学校では、勉強以外の活躍の場はどんどん減っていきました。
勉強以外で活躍できない子どもたちの中には、荒れたり、暴力的になったり、弱い者いじめで鬱憤を晴らそうとする子が出て来ました。また、早いうちから「どうせ自分は頭が悪い」などと考え、諦めてしまう子も増えていきました。

進む学力低下と問題行動の増加

その結果、学力の二極化はどんどん進んでいき、全体の学力レベルは下がり、問題行動は増えて行きました。

たとえテストの点数が高い子であっても、生涯を生き抜く力につながるような真の学力が向上しているのか、学ぶことによって思いやりなどの人間性まで育てられているのかは眉唾です。

何しろテストで点数が取れるのは、塾などで「他人を蹴落として点数を取る」勉強のテクニックを学んだ子ども。だれかに支えられながら好奇心を持って取り組んだり、みんなで知恵を絞って難しい課題に取り組むなど、人とつながる経験をもとにする“こころ”を育てながら、持って生まれた力を伸ばすような学びではありません。

しかし、残念ながら「受験体制は変えないまま教える内容と時間を減らして、教員の管理を強めて多忙にすれば、子どもにかかわれない教員が増えて、子どもの学力が二極化、低下したり、子どもの問題行動が増えるは当たり前」という事実は、ほとんど振り返られることはありませんでした。

本質はおきざりにされたまま、子どもたちがうまく育たない原因は「学校(教師)が悪いから」という雰囲気で語られ、「教員の質の問題」や「学力向上にはゆとりではなく競争が大事」という論調がつくられていきました。

「ゆとり教育」の見直し

そして2005年、ついに「ゆとり教育」の見直し論争が始まりました。

確かにその導入からの経過をきちんと見ていけば「ゆとり教育」が子どもによいものをもたらしたとは言えません。だから、その見直しをはかることには、私も異論がありません。

でも、「ゆとり教育見直し」を声高に叫んだ人たちが主張する「ゆとり教育見直しの必要性」は、私が考える理由とはまったく違いました。

彼・彼女らの主張は「週休二日制や教科内容の厳選(三割削減)などの生ぬるい『ゆとり教育』が学力低下を招いた。だから子どもたちをもっと競争させ、たくさん勉強するようにしなければならない」というものでした。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

「ゆとり教育」の見直しに拍車がかかったのは、教育「改革」に熱心な安倍晋三元首相が誕生した2006年です。

安倍元首相は教育再生会議(会議)という機関を設置し、「これからの教育の在り方」に熱心だった人です。

会議では「教師の質の確保」や「競争教育の必要性」「事業時間の増大」などが声高に叫ばれるようになり、2007年に開始された全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)や昨年始まった教員免許更新制への道筋がつくられました。

すごい出来レース

まるで出来レースのようです。

今回のブログの2回目で書いたように、そもそも「ゆとり教育」は平等教育を解体し、公教育費削減に向けて「出来る子には手厚く、それ以外には最低限」の教育に移行させるためものも。学力を二極化、低下させることを承知での施策と言っても過言ではありません。

でも、そんなことを言ってしまえばだれも賛成しません。だからこそ、「ゆとり教育」という名前を付け、本音が見えないように隠したのです。

かくして世間には「学校(教師)には任せておけない」との不安が蔓延し、比較的お金がある保護者は子どもを学習塾に行かせたり、教育産業を利用するようになりました。文部科学省の「子どもの学習費調査」によれば、公立小中学校に通う子どもがいる家庭の学習自塾等にかける費用は年々、最高額を更新しています。

東京都では低所得層の子どもに塾代を融資する対策が始まり、学習塾と提携した放課後学習や特別講習を行う公立校もめずらしくなくなりました。
文部科学省の「子どもの学校外での学習活動に関する実態調査」によれば、「学習塾通いが過熱している」と考える保護者は6割もいるのに、それを止めることはできずにいるのです。

一方、収入の格差が広がる中で低所得層の子どもはそのまま放置されることになりました。

進む企業の学校参入

さらに付け加えれば、「学校の外で」教育産業に頼らねばならないようにするのと同時に、学校の中にも多くの企業が入って来られる仕組みも整えられました。

今や、大手金融機関による金融経済教育、ジャンクフード会社による食育、携帯電話会社による携帯電話の使い方の授業などはまったくめずらしくありません。

それらの授業を通し、企業はサブリミナル広告よろしく商品に親和性をもたせる授業や、いかに自社製品が安全かということを子どもたちに植え付けます。

私にはとても危険な行為に見えるのですが、こうした企業による教育は「企業による社会貢献(CSR)」と呼ばれ、教育関係者や行政機関の人間でさえ、ほとんど疑問を持つことなく進められています。

実はこうした「企業の社会貢献」ができるようにまでの話にも、いろいろとウラがあるのですが、それはまたいずれの機会に詳しく書くにことにしましょう。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

進む学力低下、増える子どもの問題行動、ぬぐえない学校(教師)不信のスパイラルの中で、教育基本法はいとも簡単に「改正」されてしまいました。
憲法とも連動した国の基幹法でもあるとても大事な法律なのに、その理念や在り方については、ほとんど議論されないまま・・・。

子どもの成長発達を援助するための国家の責務を定めた国連の条約であり、歴史的、科学的、国際的な英知が詰まった子どもの権利条約も、まったく無視されました。

このときもまた、一人ひとりの子どもが生来持っている能力を最大限に伸ばす人間教育から、国際社会で勝ち残れるような企業(国家)利益をもたらすことができる人材教育へと理念の大転換を果たす法「改正」であることはいくつものオブラートに包まれ、隠さました。

「大競争時代を生き抜く力を持つ子どもを育てる」ーーそんな「改正」に向けたスローガンは、愛するわが子の行く末を案じる親心にかなり強く響いたことでしょう。

「最小不幸社会」への期待と現実

そんなことを書いているうちに、世の中は鳩山政権から菅政権に・・・。
鳩山前首相とは違い、菅首相は市民運動からのたたき上げ。巷でも「とてもクリーンなイメージ」と語る人が多いようです。

そんな菅首相が目指すと言う「最小不幸社会」。その指さす方向を信じて応援すれば、「世の中、きっと良くなるに違いない」という期待もふくらみます。

でも、そう語る一方で、菅首相は「行政に依存しない新しい公共」や「地域主権」「さらなる規制緩和(民間開放)」も声高に叫んでいます

福祉を厚くするのであれば、生存や保育、教育など、生活の根幹に関わる部分の行きすぎた規制緩和をまず是正しなければなりません。あらゆる国民が安心して行政に頼ることができる仕組みも必要です。

国の負担金を減らして福祉や教育の水準を地域にまかせるのではなく、まず国が基準をつくり、その基準に見合った公教育や公的保育、福祉など出来るよう交付金を出さなければなりません。そうしなれば、大阪府のように地方の首長の考えによっては福祉や教育などに回すお金が削られてしまう可能性があり、地域格差がますます開いてしまいます。

本質を見抜く目を持ちたい

すでに民主党が提案した労働者派遣法や障害者自立支援法の改正案を見れば、党としての民主党が「ひとりひとりの生活をいちばんに」考える政党でないことは見えてきます。
野党時代に民主党がつくった教育基本法改正案では、自民党のそれよりも「競争時代を生き抜く道具」として子どもを見ていることが鮮明です。

そうした民主党が壊そうとしているのは本当に官僚政治なのでしょうか? 官僚ではなく、福祉や公教育を支える国(行政)の仕組みのようには思えるのは、私だけでしょうか。

民主党が政権交代を果たした昨年9月の衆議委員議員選挙前は、酒井法子被告の事件でマスコミは大賑わい。今回は相撲賭博問題で、国の命運をかけた参議院議員選挙が吹き飛んでしまう勢いで、立候補者の素顔も、各党の公約もよく見えないまま投票日に突入です。

日々、相撲賭博報道にやっきになるマスコミの様子は
「時の権力にとって不都合なことを国民に知らせずにすむよう、スケープゴートをつくっている」
ーーかつてマスコミの末席にいた私には、そんなふうにも見えてしまいます。

情報があふれかえる現代だからこそ、「ことの本質を見抜く目を持ちたい」。そう強く感じる今日この頃です。

このシリーズの最初の記事へ

いつもにも増してこの夏は、不可解なことがいっぱいありました。

たとえば、大阪市のマンションで幼児二人が置き去りにされ、母親が死体遺棄容疑で逮捕された事件。
この事件では、子どもの泣き声を聞いた近所の人々から何度も児童相談所に通報があり、計5回も児童相談所の方が訪問していました。110番通報を受けた警察官も部屋を訪ねていました。

ところが、「訪問時に子どもの声がしなかった」とか「世帯構成が把握できないから」とそのまま帰り、強制的な手段に出ることもないまま、2人の子どもは命を落としました。

政府も自治体も、「児童虐待防止!」と声高に叫んでいるのに、なぜこんなことが起こるのでしょう。

お年寄りの命を奪ったのはだれ?

100歳以上のお年寄りの行方が分からなくなったり、高齢者が熱中症で亡くなる事件も相次ぎました。

生活保護の受給者を減らそうとやっきになっているのですから、仕事がなく、親の年金だけを頼りに生活している中高年が親の死亡届を出さずに生き延びようとしたり、扇風機さえ置けない生活でも我慢しようとするのは、ある意味、当たり前の話です。

それを「詐欺罪だ!」とか「福祉の手からこぼれ落ちた」などと大騒ぎする方が不思議です。

もっと言えば、児童虐待も、老人の行方不明も、「家族が崩壊してしまった」と嘆き、倫理観の欠如の話に持っていくなんてもってのほかです。

子どもや老人を見殺しにしているのは「崩壊した家族」ではなく、「家族がどうにかするべきだ」という自己責任論に他なりません。

もし、倫理観を問うのであれば、切羽詰まった生活をしている一般人ではなく、世界でもまれにみる低い社会保障を平気で続ける政府と、その政府を背後から操っている人々の倫理観こそ問いたいものです。

不思議な就職応援事業

昨今、さかんな就職応援事業も不思議です。

子どもがいる女性向けのマザーズハローワーク、若者向けのジョブ・カフェなど、親しみやすいネーミングの仕事紹介所や、NPO法人などと連携した就職スキル向上プログラムなど、政府は確かに就職を応援するための事業をいくつも展開しています。

でも、現実に目をやれば、今春卒業した大学生の就職率は約60%。前年度に比べて7.6%下回っており、高校生は約16%、中学生は0.4%で、過去最低(2010年8月発表の文部科学省の学校基本調査速報)。30代以上の女性では、非正規雇用から失職という憂き目にあう人がたくさんいます(『東京新聞』8月20日)。

ところが、民主党になっても、こんな労働環境をつくってきた非正規雇用増加の元凶である労働者派遣法の改正案は骨抜きで、菅首相が唱える成長戦略は相変わらず企業利益最優先。

椅子取りゲームで言えば、圧倒的に椅子の数が足りないのです。それなのに、椅子の数を増やすための根本的な努力はせず、「どうやったら椅子に座れるか」という相談窓口を増設したり、椅子取り練習の機会を増やすなんて施策に、いったいどれだけの意味があるのでしょうか。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

5月頃からずっーと報道を独占していた力士による野球賭博問題も疑問がいっぱいでした。
70人近い親方や力士が賭博行為に関わっていたとされ、現役力士が解雇されるほどの事件へと発展しました。

でも、ちょっとまって。
ギャンブル依存の方とお会いすることも少なくない立場としては、どうもストンと腑に落ちないことがいろいろあります。

刑法では賭博は禁じられています。それなのに、どうして競馬やサッカーくじ、パチンコなどのギャンブルはOKなのに、野球賭博はダメなんでしょうか。

賭博の歴史に詳しいある学識経験者は、現在の賭博の在り方を批判しつつ「禁止の『健全な勤労意欲を失わせる』という理由に対し、公営ギャンブルは『国がコントロールしている』『ガス抜き的な娯楽の提供』からよいとされている」(『東京新聞』(2010年7月10日付け)と語っています。

また、公営ではないパチンコがグレーゾーンとして許されているのは、「警察の管理下にあるから」(同)だそう。

そんな説明を聞いて「ますますもって納得いかない」と思うのは、私だけでしょうか?

もっと言えば、日本政府が推奨し、政府のコントロールが効かないマネーゲームーー株式投資やデリバティブなどーーは、健全な勤労意欲を失わせるものとはカウントされないのでしょうか。

常笑野球はいいこと?

それから、常笑野球。埼玉県代表となった高校が有名? ですが、今年の夏の甲子園ではけっこうあちこちの高校が「常に笑う」プレーに取り組んでいたようです。

たぶん本来は「前向きに楽しみながら野球をしよう」という考えから生まれたのでしょう。その意見には大賛成です。

でも、ミスっても笑う、負けても笑顔というのは・・・どうでしょう。アナウンサーが「気持ちの良い笑顔」と、さかんに言っていましたが、私はどうも違和感を禁じ得ませんでした。

「うまくいけばはしゃぎ、楽しければ笑う」というのは人間として当然のふるまいです。そして、それと同じように「失敗したら悔しがり、負けたら泣く」のも当たり前。そのときの感情を適切に感じ、表現するということは、人が人らしく、健康に生きていくためにとても大切なことです。

カウンセリングの場で

これも、カウンセリングの場での話ですが、多くの方が「いつもポジティブでいたいんです」「つらい出来事があって落ち込んでいる自分をどうにかしたいんです」とおっしゃいます。
でも、それはかなりへんな話です。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

つらい出来事に遭遇したときに、落ち込むのは自然な心の働きです。
仕事で失敗したり、失恋したり、大事な人を亡くしたりしたときに、ネガティブになってしまうのも、心がきちんと働いている証拠。気分には波があって当然です。それが生きているということなのです。

もし、どんなにことがあっても落ち込むことなく、常に前向きでいられたとしたら、私たち人間はどうなるでしょうか。

たとえば、上司から人格を否定するような言葉を投げつけられたり、一生懸命働いてきたのに期限付きでクビを切られたり、非正規雇用ということで正社員からぞんざいな扱いを受けたりしても、そんな現実をただただ受け入れて、前向きに生きられることは本当に幸せでしょうか。

気持ちが落ち込んだり、怒りを感じたり、快・不快を感じ分けたりできるから、私たちは自分の身を守ったり、理不尽な状況を変えようと立ち向かうこともできます。
悲しみや怒りなど、一見、マイナスに思える感情も、私たちの人生をよりよく変えていくためにはとても必要なものなのです。

思い出す『心のノート』

「いつも前向きで行こう」というかけ声は、かつて文部科学省が「子どもの心を耕し、豊にする」として作成した『心のノート』を思い出させます。つい最近、あの事業仕分けで「ムダ」と指摘されたノートです。

ノートは、小学校低学年版と中学年版、高学年版、中学生版と4つあるのですが、たとえば低学年用には「あかるい 気持ちで」という塗り絵をするページがありました。

そのページには、たくさんの風船が結ばれた気球のイラストがあり、
「きょうは どんな 一日だったかな。あかるい 気持ちで たのしく いっしょうけんめいにすごせた 一日だったら 気きゅうのふうせんに 青い いろをぬろう。もう すこしだったなと おもう日には きいろい いろを ぬろう」
と書かれています。

もし、ノートに向かった子の一日が青にも黄色にも塗れないほど辛いものだったらどうするのでしょう。仕事に忙殺されたお父さんが大事な約束を忘れていたり、すれ違いの夫婦生活にイライラするお母さんに怒られたりして、とっても悲しい朝を迎えた日だったら、子どもはいったい何色に風船を塗ればいいのでしょうか。

心を変えることで現実問題を温存する

たぶん、素直な子どもは困って、少し迷い「なるべく青で塗れるように」と、明るい気持ちでいられるようにと頑張るはずです。「青く塗れないのは頑張りが足りないせいだ」と考え、辛いことは極力、考えないようにして、現実は横に置き、一生懸命楽しくすごそうと努力することでしょう。

『心のノート』には、こうしたしかけがたくさん詰まっていました。現実の問題を見据えて批判したり、合理的に考えたりするのではなく、すべてを“心の問題”にすり替えていく仕組みがそこかしこにあったのです。

どんな辛い現実も「そう感じるのは心の問題なんだ。心を変えればハッピーに生きられるんだ」と、“現実の問題(環境や社会の問題)”を“心の問題(個人の問題)”として、「おかしいことを『おかしい』と感じる心の方(個人)を変えていくことで、解決すべき現実(環境や社会)を温存する」――そんな役割を果たすべくつくられたノートのように、私には感じられました。

こんなノートをつくって小さな頃から「あるべき心」を埋め込もうとする文部科学省に、さらにはその作成の立役者が高名な心理学者であることに、猛烈に腹が立ったことを覚えています。(続く…