「みんなちがって、みんないい」(1)
東京では桜が満開を迎え春本番。卒業式が終わり、入学式も間近になってきました。
入学式と言えば、つい最近までちまたの話題をさらっていたのは東京・銀座にある中央区立泰明小学校が4月に入学する新1年生から、イタリアの高級ブランド「アルマーニ」がデザインを監修した標準服(制服)を導入する方針を示したという一件でした。
アルマーニというブランド名だけでなく、セーターなどまで含めると計8万円にもなる高額商品だったことから、批判や物議を醸しました。
平等とは?
ブランド品だの、高額だのという前に、個人的には「標準服(制服)」というものが大嫌いなので、そもそも小学校で「標準服(制服)」を指定するということが了解しかねます。前回のブログの続きのようですが、「みんなと同じ」同調意識を持たせ、そこからはみ出すことを禁じる道具のように思えてなりません。
「平等という意味では標準服(制服)もいいではないか」とおっしゃる方もおられますが、そもそも「みんなと同じ」物を持ったり、着たり、やったりできることが平等なのでしょうか?
ネットで引くと平等について「人間は、人種、信条、性別、門地・社会的身分などの違いにかかわりなく、個人相互の間において、人間としての価値に差異はないという思想」(コトバンク)、「差別なく、みなひとしなみである・こと(さま)」「すべての個人が身分・性別などと無関係に等しい人格的価値を有すること」(weblio)などという説明が載っています。
詩人・金子みすゞさんの言葉
つまり、「みんなと同じ」ように扱うとか、「みんなと同じ」ようにすることが平等なのではなく、「さまざまな違いを持つ人間がお互いにその違いや価値を認め合い、だれもが世界にふたつとないがかけがえのなさを持っていることを尊重すること」なのではないでしょうか。
ごくごく簡単に言えば、詩人の金子みすゞさんが、「私と小鳥と鈴と」という以下の詩で書いているように「みんなちがって、みんないい」と認め合い、その違いを大切にすることが、平等ということなのではないかと思うのです。
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。