iimage060608.jpg 3万2552人。何の数字だと思いますか? 実はこの6月に警察庁が発表した自殺者数です。日本の自殺者数は1998年から8年連続で3万人を超えています。

自殺者数の推移と完全失業率の推移がほぼ同じ動きを見せることはよく指摘されていますが、日本は第12回世界精神医学会(2002年)の推計で実質自殺率世界第1位と言われた国でもあります。
「格差社会」などと言われて久しくなりますが、日本は世界的にみればまだまだ裕福な国です。それにも関わらず、なぜ、こんなにも幸せになれない人が多いのでしょうか?

===
臨床の現場にいると、自殺の多さを裏付けるような辛い毎日を生きている方々にお会します。相談内容はさまざまですが、クライアントさんと向き合っていて感じるのは、それぞれの方が抱えている孤独や寂しさ、そして絶望の深さです。

「だれも話を聞いてくれない」「辛さを分かってくれない」「ひとりぼっちだ」・・・そんな悲痛な声が聞こえてきます。いったいなぜ日本は、こんなにも生きづらい社会になってしまったのでしょう。
続く…

このシリーズの最初の記事へ

image060612.jpg 人間は関係性のなかで生きています。社会から影響を受けずに生きている人など存在しません。
「ひきこもり」という、一見、社会と隔絶しているかに見える人たちでさえ、日本社会の持つ歪みーー競争、効率化、親や社会の期待などーーと無関係ではありません。「社会の問題」を見ることなしに「個人の心の問題」を語ることなどできないのです。

すべてを「個人の心の問題」と片づけてしまうことは簡単です。けれどもそれでは根本的な解決にはなりません。

===
セラピーを必要とするひとり一人の生きづらさにアプローチすることはもちろん、そこから見えてくる「社会の問題」——ひとり一人が安心と自信と自由にあふれた人間関係をつくれない社会であるということーーを世の中へと戻していくことが重要です。
それが「生きていてよかったな」、「毎日が幸せだな」と多くの人が思えるような社会へと変えていく足がかりとなるでしょう。

多くの場合、「個人の心の問題」と「社会の問題」とは分断されがちです。最近の報道をみても、疑問はたくさんあります。
たとえば「子どもの安全」についてのとらえ方。世間ではガードマンやGPS機能付き携帯電話を使って「いかに子どもを監視するか」ばかりが叫ばれています。けれども、そうした監視が子どもの心に与える影響についてはほとんど議論がありません。今、国会で騒がれている教育基本法や少年法の「改正」問題についても、しかりです。

「社会の問題」が、現れやすいのは能力的にも経済的にもおとなに頼るしか生きるすべのない子どもの世界です。しかし逆に言えば、最も弱い立場にいる子どもが生きやすい社会とは、どんな人も幸せになれる社会、おとなにとっても生きやすい社会のはずです。

そうした視点から、このブログは子どものことを中心に、「個人の心の問題」と安心できる人間関係をうばわれている「社会の問題」について書いていきたいと思います。

image060726.jpg 重たい話題が続いていましたので、今回はちょっと一息。

先日、一足早い夏休みをいただいて沖縄の離島に行ってきました。日本列島のほとんどの地域では冷たい雨が降っていましたが、沖縄地方は台風一過の晴天続き。「気もちがいい」を通り越して「痛い」ほどの太陽が照りつけていました。

旅のテーマは「何にもしないこと」。朝起きてひと泳ぎしたら、お昼を食べてしばし昼寝。日差しが弱まった頃、また海に出る。夜は泡盛片手に海の見えるテラスで食事・・・。それをただ繰り返し、頭も心もカラッポにして数日間を過ごしました。

===
私が初めて沖縄を訪れたのは94年。以来、10回近く沖縄へと足を運んでいます。世の中には年に5〜6回も沖縄を訪れる「沖縄フリーク」と呼ばれる人々がいるので、けして多い回数ではありませんが、のんびりしたいとき、疲れたとき、心をリセットしたいとき、ひとりになりたいとき、「行きたい!」と思うのは、なぜかいつも沖縄なのです。
今回の沖縄旅行で出会ったひとり旅の女性も、「休みが取れると、つい沖縄に来てしまうんです。知り合いがいるわけでもなく、マリンスポーツをするわけでもないのに」と言っていました。

沖縄には「チャンプルー」という料理があります。にがうり(ゴーヤ)などの野菜や豆腐、肉などを炒めた郷土料理です。
もともとチャンプルーとは、沖縄の方言で「まぜこぜにした」という意味。そこから転じて、なんでもいっしょくたにしてしまうことをチャンプルーと言います。

琉球時代の日本や中国、韓国、東南アジアの国々との交流、薩摩藩の支配(江戸時代)や日本政府の統治(明治時代)、アメリカ軍統治(第二次世界大戦後)などの関係で、異なるいくつもの文化を受け入れては融合・発展させ、独自のチャンプルー文化を生み出してきた沖縄らしい言葉です。

そしてまた、チャンプルー文化は度重なる支配や悪税、戦争に苦しまされた沖縄の歴史を物語るものでもあります。
でもそんな悲しい過去を持ちながらも、沖縄の人たちは、笑い、歌い、踊ることを忘れませんでした。「なんくるないさー(なんとかなるさ)」と言いながら、しなやかに生き抜いてきたのです。
その力強さに驚いて、かつて島の男性に「もし今、どこかの国が攻めてきたらどうしますか?」と尋ねたことがあります。すると、彼はほんの少しだけ考えこみ、こう答えたのです。
「たぶん、きっとまた三線と太鼓をならして受け入れちゃうだろうね」(続く…

このシリーズの最初の記事へ

image060728.jpg 離島など沖縄の地方には、まだまだそうした「なんでも受け入れてくれる」雰囲気が残されているように思います。名前も知らない他人でも、目が合えば席を共にし、話が弾めば泡盛を勧め、盛り上がれば一緒に歌う。そう、「いちゃりばちょーでぇー(会えば兄弟)!」なのです。

どこのだれかも問いません。今、時間と場所を共有しているというだけで、受け止めてもらえるような空気を感じます。
そんな優しさ包まれると、体の奥から深呼吸できるようになって、コチコチになった心までがほぐされていきます。思い詰めていたことがあっても「てーげー(アバウト)に考えられるようになる」と言ったらいいでしょうか。

こうした空気の“もと”になっているのは、やはり「何でも受け入れ合っている」沖縄の人々の関係性ではないでしょうか。

===
今回、泊まった宿のオーナー夫妻は、まさにそんなお二人でした。宿を取り仕切っていたのは、働き者の奥さん。
ご主人は、一見、いつも奥さんの言うことに従っているように見えます。でも、実は違うのです。お客さんの送迎や食材の準備、掃除など、ご主人がいなければ、とても仕事が回らないことを奥さんはよく知っていて、なんだかんだ言いながらもご主人をとても尊重していました。

たとえば奥さんは「早い時間から飲み過ぎるのさ!」と毎日、怒っていましたが、夕方には必ず冷えたビールとご主人のマイグラスを用意していました。数日いると、「飲み過ぎる」と奥さんがプリプリするのも、実はご主人の体を心配してのことなのだと分かりました。

そんな奥さんの気持ちを知ってか、ご主人はあまり言い返しません。でも、ときには「何で指図するか!」と、ケンカになったりもします。だけど、すぐに仲直り。大ゲンカした日も、夕飯どきには愛犬を間に挟んで、ふたり仲良く笑いあっていました。

腹にためず出し合って、自分を主張しながらも受け入れ合う。ほどよい距離感を保ちながら、お互いを気遣っている。夫妻の醸し出すそんな心地よい雰囲気が宿全体に流れていました。

たとえ生活が大変でも一緒に生きていく人がいる。飾らなくても、受け入れてくれる人がいる。そうした安心感があるからこそ、てーげーでいられるし、「なんくるないさ」と笑うことができる。
オーナー夫妻のやりとりを見ながら「そんな人間関係がつくりだす優しい空気こそが、私が沖縄に惹かれる理由なのかもしれない」と、考えた休日でした。

image060911.jpg 火薬の袋貼りは容易の仕事じゃないらしいね。さぞ肩も張るだろう。ほんとうにお察しする。しかしあまり無理しないがいいでしょう。無理するとやはりからだに障るよ。
(昭和19年10月10日付)

冬になって水が冷たくヒビ、あかぎれが切れるようになったとの事、本当に痛わしく同情します。水を使った度に手をよく拭き、熱くなる程こすって置くとよいでしょう。又燃料節約で風呂が十日に1遍とは、昨年の今頃と比べてほんとうに可愛そうに思います。
(昭和19年12月11日付)

===
これらは、硫黄島で戦死した栗林忠道陸軍中将(死後、大将となる)が戦地から妻に宛てた手紙です(『栗林忠道硫黄島からの手紙』/文藝春秋より引用)。栗林は、太平洋戦争中最も激しい戦闘が行われた硫黄島に赴任した後も、10日と空けないまめさで家族に手紙を書きました。

しかもその内容は、妻をいたわり、子を心配し、留守宅を案じる、生活の細部にわたるものばかりでした。
手紙はみな、自身の無事を伝える文章ではじまり、家人の身を思いやる文章で終わっています。

『散るぞ 悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社)を著した梯久美子氏は、「留守宅に宛てた栗林の手紙で、私が直接手にとって読んだものは41通あるが、その中に天皇、皇国、国体、聖戦、大義といった、大所高所に立ったいわば“大きな言葉”はただの一度も出てこない」と書いています。

妻だけでなく、3人いた子どもたちにもよく手紙を書きました。
とくに気にかけていたのは、まだ幼く、ひとり長野に疎開していた末っ子のたか子のこと。歯磨きはしているか、寒くはないか、こたつでうたた寝などしていないか、みんなと仲良く暮らしているか、などと問いかけ、たか子の手紙が「よく書けていた」とほめ、字に間違いがあると添削までしてあげています。
そして、ときには育てているヒヨコのかわいらしさを伝えたり、絵まで描いて送ったりしていました。

たこちゃん! お元気ですか? お父さんは元気ではたらいています。
(省略)
たこちゃんの注文のお父さんの画はかきましたよ。今度又ヒマの時に書いて送ります。
たこちゃん! お父さんのところの一羽のお母さんどりは今日ヒヨ子を四羽生ませましたよ。
(昭和19年11月26日付)(続く…

このシリーズの最初の記事へ

栗林は、太平洋戦争で戦局がアメリカ優位となったあと、米軍の損害が日本軍のそれを上回った唯一の戦場である硫黄島で2万もの兵士を束ねた最高指揮官です。

圧倒的な戦闘能力を持つ米軍を相手に各地で敗退を続ける日本軍。そうした戦況にあって、最終的には敗北したものの、栗林は“寄せ集め”の兵士だけで米軍上陸から1ヵ月もの持久戦を行ない、米軍側の死傷者数2万8686名に対し、日本軍側2万1152名という戦いを繰り広げたのです。

===
この戦争で米軍の太平洋最高指揮官だったニミッツ大将と、現場で指揮をとったスミス中将は、それぞれ著書のなかで「栗林は太平洋において最も難攻不落な八平方マイルの島要塞にした」(ニミッツ大将)、「栗林の地上配備は著者が第一次世界大戦中にフランスで見たいずれの配備よりも遙かに優れていた。また観察者の話によれば、第二次世界大戦におけるドイツの配備を凌いでいた」(スミス中将)と評価しています。

それだけでなく栗林の名は、今も米軍の将官クラスに「アメリカを最も苦しめた男」として知られています。何しろ硫黄島は、ニミッツ大将に「硫黄島で戦ったアメリカ兵の間では、並はずれた勇気がごく普通の美徳であった」と言わしめたほど、米軍が大きな痛手を負った激戦地です。2003年にブッシュ大統領が自国の兵士をたたえたて演説したイラク戦争終結宣言でも「(イラクでは)ノルマンディ作戦の大胆さと、硫黄島での戦いの勇気が示された」と述べたほどです。

栗林は、信州松代藩の元士族の家に生まれ、県立長野中学から陸軍士官学校、そして陸軍大学校へと進みました。陸軍大学校を恩寵の軍刀を授与されるほど優秀な成績で卒業。その後、アメリカに留学し、軍事研究のかたわらハーバード大学などでアメリカの国情などを学びました。

アメリカ留学中にも、まだ字の読めなかった長男の太郎に宛てて、アメリカの風景や生活、日々の自分の様子などを伝える絵を描き、それに文章を添えて頻繁に留守宅へ送っています。

『「玉砕総指揮官」の絵手紙』(小学館文庫)には、懐中電灯であたりを照らして遊んでいる自身の絵に「これを一つ送ってやるかな (太郎が)欲しかろうから」と添えられた手紙、一升瓶を眺めている絵に「もう一合も残っていないのだよ それをもう三日も前から眺め暮らし さらにもう四日間 眺めようとするのである これだけはいくら呑みたくても 今暫く我慢して 太郎君のお誕生日の分としような」と書かれた手紙、郊外をドライブしている絵に「太郎がいたら大よろこびだろうな、洋子(長女)やお母ちゃんはこんなに早く走ると怖い怖いというだろうな ブーブーブー」と記された手紙など、約47点が収録されています。

それらを読んでいると、栗林がどれだけ妻や子どもたちを大切に思っていかが伝わってきて、彼が玉砕指揮官であるということを忘れ、ほのぼのとした気分にさせられます。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

絵手紙には、新聞配達をしている子どもと向き合って座り、お菓子をごちそうしているところや、街頭で出会ったメキシコ人の子どもにお金をあげているところもあります。

階級社会である軍にいながら栗林は、目下の者にも絶えず心をかけ、小さき者と同じ視線に立ち、だれとも気さくに接していた人でもあったようです。

===
『栗林忠道硫黄島からの手紙』には、逃げまどう硫黄島の一般人に心を痛めるくだりがあり、『散るぞ 悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』には、水が極端に無い硫黄島で「馬を歩かせると水をたくさん飲むから」と丸腰に地下足袋で歩き、下級兵士と同じ一日一本の水筒で暮らし、同じ物を食べる姿や本土から自分宛に送られてきた野菜を切り刻んでで将兵に分け与え、自らは一片も口にしなかったという話が書かれています。
また、硫黄島に慰安所が設けられなかったのは、栗林の一存によるものだという話もあります。
どれも、安全な父島から指揮をとることはせず、最期まで先頭に立って戦い、部下と共に戦死した栗林らしいエピソードです。

こうした人だからこそ、「多くを語らず、皇国のために命を捧げることこそ喜び」とされた時代にあって、その訣別電報に

国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき

と謳ったのでしょう。
戦時中の日本においては、中将たる者が、戦死することを「悲しい」と表現するなどとは、絶対に伝えてはならないタブーだったはずです。それでも栗林は「悲しき」と書かずにはいられなかったのでしょう。
大本営から見捨てられ、弾も尽き果て、圧倒的な戦闘能力の差の前に死んでゆく兵士とその家族の悲しさ。それを知りながら「戦い続けよ」と命じるしかない自分の無力さ。そうした戦争の愚かさを知っていたから・・・。

しかも相手は、かつて自分が暮らし、親しんだアメリカです。日本とは段違いのアメリカの国力を知っていた栗林は、「アメリカはけして戦ってはならぬ相手」とたびたび周囲に話していたと言います。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

この訣別電報は、「そうした現実を見極めることもせず、いたずらに戦争しかけ、迷走し、最後には現場の兵士を切って捨てる・・・そんな軍の上層部へのぎりぎりの抗議だったに違いない」と、梯氏は著書で書いています。
そして「おそらくその意図を感じたからこそ、当時の硫黄島玉砕を伝えるニュースでは、この句の最後が『悲しき』ではなく『口惜し』と改変される必要があったのだ」とも言っています。

===
激しさを増す米軍の空襲の下でしたためた「私も米国の為にこんな処で一生涯の幕を閉じるのは残念ですが、一刻でも長くここを守り東京が少しでも長く空襲されない様に祈っている次第です」(昭和19年9月12日付)、「此の様な大戦争も起こらず普通だったら、今頃はお前達も勿論私もずいぶん幸福に愉快に暮らして居れたろうに、今は此の始末でなんと思ったって仕方がない」(昭和19年11月26日付)という、最高指揮官でなければまず検閲を通らなかっただろう手紙からは、愛する者を残して死んでいかなければならない無念さがひしひしと伝わってきます。

栗林に関する本を読んでいると、いわゆる「お国のために戦った」名将ではなく、「愛する人々の盾となろうとした」ひとりの人間の姿が浮かび上がってきます。
「文句は言わずに黙って散っていくことこそ軍人の美学」とされ、「お国(天皇)のために死ぬことこそ尊い」という、当時の常識を覆し、愛する人を守るために闘い、銃弾が降り注ぐなかでも愛する人に寄り添い続けた栗林忠道という人物が見えるような気がするのです。

このように人を愛した栗林は、いったいどんな愛を受けて育った人なのでしょうか? 持てる力のすべてをかけて身近な人々を救おうとした彼は、どんなふうに支えられた記憶を持っていた人だったのでしょうか?

残念ながら、そうしたことが分かる資料はほとんどありません。栗林の幼い頃を記した文献も多少はありますが、「決められたことをきちんとこなし」「目上の人の言うことを尊重し」「人の嫌がることも率先して行い」「強い意志を持って努力した」など、昔の道徳教本に出てくるような内容ばかりです。

栗林の母については「厳しい中にも慈愛の心が深い人だった」などの記述があり、甘やかすことなくしつけたというエピソードは載っています。しかし母がどのようなまなざしで栗林と向き合い、栗林がどのような感情で母に対していたのかは分かりません。また、どのような家族関係のなかで、どのような子ども時代を生きたのかも分かりません。とりわけ栗林の父親像は見えないままです。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

世界に誇る陸軍大将の文献をしてこうなのですから、いかに日本社会に「幼い頃の人との関わりがその人の一生に影響を与える」という視点が欠落しているのかが分かるような気がします。

つい最近も、それを痛感する記事を読みました。東京板橋区で社員寮管理人であった両親を殺害し、ガス爆発事件(2005年6月)の加害少年(17歳)に関する記事です。
この8月、検察側は、少年に対し、「両親が虐待や不適切な養育をしていたとは到底認められない。いまだに『父親の責任が大きい』と話すなど改悛の情が見受けられない」などとして懲役15年を求刑したのです。

===
この事件が起きた当時の報道からは、家族よりもバイクを愛し、少年を“物”のように支配していた暴力的な父親、父親と不和や生活に疲れ「死にたい」とたびたびつぶやいていた母親。そして、そんな父親に怯え、母親の不幸に心を痛めていた哀れな少年の子ども時代が見えてきます。こうした両親の関わりが「不適切な養育ではない」というのなら、「不適切な養育とはいったいどのようなものを指すのか」と聞いてみたくなります。

生まれ落ちた瞬間から、「いつかは両親を殺そう」とか「社会を震撼させる事件を起こそう」などと決意する子どもはいません。暴力で屈服させられた子どもでなければ、「暴力で人を支配しよう」などという発想は生まれようが無く、だれからも助けてもらえない絶望感を経験した子どもでなければ、「社会に復讐しよう」などと思いつくはずはないのです。
誕生後の人(とくに親)との関わり、つまり子ども時代が人格形成に大きな影響を与え、人生を左右するということは明白です。

けれどもそのように考えることは、一般的にはとても難しいようです。
たとえば板橋の事件の後の報道でも、クローズアップされたのは「少年がパソコン好き」だったことや「ホラー映画に関心を持っていた」ことなどでした。

私が『プレジデント Family』(プレジデント社)の「お金に困らない子の育て方」(10月号)という特集の取材を受けたときにも、同様の感想を持ちました。「子どもの問題は親や家族の問題を顕在化させているだけ。問題のある子どもの背景には、必ず“問題のある親”や“問題のある家族”がいる」と話すと、編集者は「どういう親に育てられるかが、子どもの一生にそんなに影響を与えるんですか!」と驚いていました。

「幼い頃からの人との関係性が人格形成に深く影響する」

その事実を、そろそろ社会も認識すべきでしょう。そのうえで「人間の幸福を実現するための社会はどうあるべきか」を真剣に考えなければなりません。
さもなければ、親殺しはますます増え、少年事件は“凶悪化”する一方となるでしょう。
(終わり)

image070110.jpg 新年、明けましておめでとうございます。昨年は、このブログも始まり、貴重な機会を得た年でした。また、みな様からは、ブログへのご意見やアドバイス、質問などもいただくことができました。ほんとうにありがとうございました。

昨年中はどうしても重たい話題をテーマとすることが多かったのですが、本年はもう少し明るい話題も提供していきたいと思っております。引き続きお読みいただけると幸いです。

ところで、このお正月はどのように過ごされたでしょうか? 私は例年通り、ともに暮らす犬と猫と一緒に、入れ替わり訪れるお客様をお迎えしたお正月でした。


===
わが家には6歳になるゴールデン・レトリバー(♀)と「推定」9歳の三毛猫(♀)がいます。「推定」なのは、迷い猫だったため正確な年齢が分からないからです。
今では日がな一日、お気に入りの場所を探しては昼寝をし、わが家のだれよりも自由気ままに暮らしている猫ですが、実は苦労をしてきたようです。

いじめられ猫だった時代

猫が一緒に暮らすようになって一年ほどたった頃のこと。当時まだ子犬で、近所しか歩けなかったゴールデン・レトリバーの散歩をしていると、猫も必ず後についてきました。近所では「犬の後を着いて散歩する猫」としてちょっと注目を浴び、いろいろな人に声をかけられました。

そうした人々から聞いた話からは、さまよっていた頃の大変な生活がしのばれました。曰く
「○○さんちで水をかけられたのを見た」、
「××さんちの庭で出産し、保健所に連れていかれそうになって子猫を一匹だけくわえて逃げていった」、
「子どもに棒きれを持って追いかけられていた」
・・・などなどです。

確かに出会った当初の猫は、とても人間を警戒していました。今とはまるで別猫のようにガリガリで、毛づやは悪く、犬歯も折れ、お世辞にもかわいい猫には見えませんでした。いつもビクビク怯えて、様子をうかがい、こちらが近寄ろうとすると逃げてしまいます。体が小さく、力が弱かったため、猫の間でもいじめられていたようでした。

そもそも彼女が一緒に暮らすことになったきっかけも、彼女がいじめられ猫だったからです。近所の大きな猫に追いかけられ、わが家の縁の下に逃げ込んできたことでした。ひどく痩せていた彼女は、縁の下の小さなスペースに隠れることができるのですが、大猫は入ることができなかったため、そこが絶好の逃げ場所だったのです。

それから他の野良猫と一緒にたびたびわが家にご飯をもらいに来るようになりました。でも、彼女はいつも他の猫たちの後ろに、ちょこんと座っているだけ。せっかくあげたご飯はみんな他の猫に食べられてしまいます。(続く…