『希望の革命』(9/9)

2019年5月29日

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想像力・創造力を失い、型にはまった考え方しかできない例は、たとえば「指示まちくん」などと揶揄される「ゆとり世代」に象徴されているかもしれません(「ゆとり世代」の若者を批判する論調には異論がありますが、今回は触れません)。

一方、健康上の問題は13年間も続いている年間3万人の自殺や、うつ病などの気分障害の患者数の増加などに見て取れることでしょう。
1996年には43.3万人だった総患者数が2008年には104.1万人となり、9年間で2.4倍にまで増加しています。さらに、2009年の20代〜30代の死因トップは自殺で5割を超えていますが(『平成23年版自殺対策白書』)、その実態は気分障害の増加がもっとも多いのは30代というデータとも重なります(『社会実情データ図録』)。

すでに『希望の革命』で看過

このような社会の問題をフロムはすでに『希望の革命』で看過していました。
同書の「訳者(作田啓一氏)あとがき」(234ページ)には、その考えが以下のようにまとめられています。

「最大生産の原理が現代社会に貫徹しており、その貫徹の要件として最大能率、最大消費の原理が作用するとともに、上からの計画を施行するため、人間を<ケース>として取り扱う官僚主義的管理がゆきわたる。
限られた時間と空間の中では能率的である行動も、もっと広い幅の時と所を念頭におけば、<人間というシステム>の機能障害に貢献するだけであり、体制が作った消費の欲望を追及することで、人々は物の主人公になるつもりでいるが、じつは物への依存を深めるにすぎない。物、地位、家族などの所有は自我(エゴ)を確認するための有力な方法である。

だが、そのような方向に向かって人が貪欲になればなるほど、真の自己(セルフ)は空虚となる。自我防衛のための所有の方向は、外界に向かって自らを開き、自発的、能動的に自らを世界に結びつけることによって得られる存在の確認の方向と両立し得ない。
今日の体制のものとでは、所有は存在を貧しくすることによってしか得られず、そして存在が空虚になればなるほど、その代償として所有の追及が行進する」

最大能率、最大消費を目指す最大生産の原理は「グローバル経済」の名の下、ときに「民主化」などという仮面をかぶって、世界中でどんどん進んでいます。

希望はないのでしょうか? 私たち人間はこのまま機能障害に陥り、人間らしい営みを奪われ、滅んでいくしかない。

希望はある

いいえ、希望はあります。なぜなら人間は「可能性のある限り、生命を守るためのあらゆる努力をする」(同書、209ページ)存在であるからです。

その兆しを、私は震災後に感じました。未曾有の大震災、原発事故という取り返しのつかない人災を経て、私たちは「命と人間関係ほど大切なものはない」ことを改めて確認しました。いくら所有し、溜め込んでも、それだけでは人間は幸福を感じられないことを実感しました。どれほどの物があっても関係性を失ってしまえば、そこにあるのは空虚でしかないことを思い知らされました。その象徴として、今年の漢字には「絆」が選ばれました。

道を過つことがないように

今、私たちは分かれ道に立っています。一本の道は、人間に破滅をもたらしても大量生産、大量消費を目指す経済効率を優先する社会。もう一本の道は、人間の幸福のために経済を、物質を発展させることができる社会です。

その選ぶべき道を過つことがないよう、来年もまた足元を見つめながら一歩ずつ進んで行きたいと思います。今年もブログを読んでいただきましてありがとうございました。みなさまにとって来年が良い年となりますよう心より祈っております。

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Posted by 木附千晶