このシリーズの最初の記事へ

私たちの社会はずっと長い間、「経済的に豊になれば幸せになれるはずだ」と考えてきました。そして、「経済的に豊なのに問題を起こしたり、意欲を持って何かに取り組んだりできないのは本人が甘えているからだ」としてきました。

実は、とても残念なことですがいまだにそのように考えている人が知識人とか、学識経験者と呼ばれる方の中にも少なくありません。

最もよい例が、06年12月の「改正」教育基本法につながる今の教育政策路線を決定づけた『教育改革民会議』の第一分科会に提出した曽野綾子氏のレポートです。

このシリーズの最初の記事へ

でも、ちょっと待ってください。

確かに、保険証がなくて病院に行けなかったり、高校生がアルバイトで生計を支えたり、学用品も買えず、家に食べ物がないような「貧困」生活は確かに問題です。
教育費がバカにならないほどかかる日本においては、経済格差は子どもの将来、いえ、何世代にもわたる格差の始まりになることも明らかです。
間違いなく子どもたちを不幸にすると言っていいでしょう。

では、単純にこうした子どもたちにお金を与えれば、それで問題は解決するのでしょうか?
お金がいっぱいあれば子どもは幸せに生きていけるのでしょうか?

このシリーズの最初の記事へ

前回書いたような「子どもの貧困」をもたらす要因のひとつに、90年代後半からの非正規雇用者の増加が挙げられます。

90年代には20.0%だった非正規雇用者が2008年には33.9%にもなっているのです。
とくに、これから子どもを育てたり、今、子育てをしている世代に当たる20〜30代男性の割合が増えていて、24歳未満の若年労働者では48%前後。10代後半の非正規雇用率は約7割との報告もあります(2008年版『青少年白書』)。

非正規雇用者の場合、年収は300万円未満が多く、生涯賃金にすると正社員とは2.5倍もの格差が生じるそうですから、その影響は深刻です(『経済財政白書』2009年)。

高度成長期以降、2%台という低水準を維持してきた失業率も、90年代以降は5%台まで上昇しています。

雇用環境の悪化を受け、生活保護受給世帯も増えました。98年度には66.3万世帯でしたが、2009年4月現在では120.4万世帯にもなりました。

「子どもの貧困」という言葉を目にすることが多くなりました。

新聞やニュース番組などでも、「学費を払うためだけでなく、家計を助けるためにアルバイトをせざるを得ない高校生」や「健康保険が無いため、病院に行かず、保健室に繰り返し訪れる小中学生」などの姿がリアルに報道されています。

子どもが貧困であるということは、つまりその子どもが暮らす家庭(世帯)が貧困ラインにあるということ。

ちなみに、経済協力開発機構(OECD)のデータが採用している日本の貧困ラインは、親子二人世帯では年収195万円以下、親二人子一人世帯では239万円だそうです(『子どもの最貧国・日本 ーー学力・身心・社会におよぶ諸影響』山野良一/光文社新書)。

10月20日に厚生労働省が公表した相対的貧困率によると、今や国民の七人に一人が「貧困状態」で、OECDの最新統計に当てはめると、なんと上から四番目だそう。
しかも、他の国に比べて「貧困層全体に占める働く人の割合」が八割以上と、高くなっているのが特徴です(『東京新聞』2009年10月21日付け)。

このシリーズの最初の記事へ

こうした親に「母性がない」「母親失格」というレッテルを貼り、自己責任として切り捨てているのが今の社会です。

自己責任することで私たちは、「自分の親が、けして無条件に愛してくれたわけではない」という辛い事実から目を反らし、自らの親と同じように子どもを支配しながら、家族幻想の中で生きていくことができます。

また、社会全体で考えればどうでしょう。

子育てという大変な仕事を「母親の仕事」にし、社会が望む人材育成の担い手という役割を女性に押しつけることができます。
さらに言えば、「子育て優先」という、反論しにくい理由をつけて、安い労働力としての女性を確保し続けるというメリットがあるのではないでしょうか。

このシリーズの最初の記事へ

ところが現実には、『感情はもううざいし要らない(5)』で紹介した少女のように、子どもが安心して欲求を出すことができないおとなとの関係性が少なくありません。

おとなの側が、「こうあるべき」「こう感じろ」「こんなふうに振るまえ」とさまざま子どもに要求し、子どもを混乱させ、子どもから安全感や感情を奪い、うまく成長発達できないようにしてしまっている例がめずらしくないのです。

このシリーズの最初の記事へ

本来、子どもの思いや願い、欲求は「そのままで」おとなに受け止めてもらえるべきものです。

おとなから見れば、たとえその内容がどんなにばかばかしくても、社会的にはとうてい認められないことであっても、まず「そうだったんだ」と身近なおとなに受け止め、きちんと応答してもらうことで、子どもは自らの存在価値や安全感を確認できます。

そんな安心できるおとなとの人間関係があってはじめて、経済的にも能力的にもおとなには及ばない子どもが、自分の人生を自分らしく、豊かに生きていくことができます。

このシリーズの最初の記事へ

話をもとに戻したいと思います。

本来、生まれたての「子ども」は動物と同様、欲求の塊のはずです。
子どもは幼ければ幼いほど、「ああして欲しい」「なぜこうしてくれない」「自分はこうしたいのに!」という、たくさんの欲求を持っていて、それをかなえてくれないおとなに対して、生の感情をぶつけてきます。

びっくりするほど利己的で、他者を顧みようとすることもなく、ただただ「生き延びる」ことに必死。そのあふれんばかりの「生きたい!」という子どもが持つパワーは、ときにおとなを圧倒させるほどです。

そんな動物にも通じるほどの生命力に満ちあふれた「子ども」という存在から、欲求を奪い、感情を奪い、期待感を奪ったもの・・・それはいったいなんなのでしょうか。

どうしたら欲求の塊として生まれてきた子どもを、「べつに」という回答を繰り返すしかしないほどにまであきらめの境地へと追い込むことができるのでしょうか。

このシリーズの最初の記事へ

090930.jpg 動き出す電車の中で遠くなっていく盲導犬を見つめながら記憶のページをめくっていくと・・・と思い当たった顔がありました。
児童養護施設の子どもたちのインタビュー集(『子どもが語る施設の暮らし2』明石書店)をつくったときに出会ったある中学生の男の子でした。

「今の生活をどう思う?」
「何かおとなに言いたいことある?」
「不満に思っていることは?」

いろいろと尋ねても、その子はただ「べつに」という回答を繰り返すだけ。私と目を合わせようともしませんでした。
それでも質問を重ねていくと、その子はうんざりしたようにため息をつき、こう言ったのです。

このシリーズの最初の記事へ

それからしばらくの間、私はその盲導犬の動きを観察していました。
なかなか電車が来なかったので、その間たっぷり15分はあったでしょうか。盲導犬は(当たり前のなのでしょうが)微動だにせず、ただジーッとユーザーさんの足下でうずくまっていました。

満杯の電車を見送り、次の電車に乗るつもりなのでしょう。ユーザーさんはようやく到着した電車には乗ろうとしませんでした。
そんな二人(一人と一頭?)の横をすり抜け、電車に乗り込むと、ちょうどホームで待っている盲導犬と窓ガラスを挟んで真っ正面に向き合うような格好になりました。

ホームに停車したままの電車から、盲導犬に「お疲れ様」とアイコンタクトでメッセージを送ろうとしたときのことです。うつむいて寝そべっていた盲導犬が、ふいに面を上げました。