そろそろあの「啓蒙活動」「啓発活動」というものを振り返ってみる時期なのではないでしょうか。
もちろん啓蒙や啓発が不必要とは言いませんが、「それだけではダメ」というのはもう自明のことのように思います。
まさに落ち穂拾い
児童虐待防止推進月間であり、DV防止推進月間であった11月。あちこちで虐待の防止やDV防止を訴えるイベントやチラシ配り、シンボルタワーのライトアップなどが行われていました。こうした活動には国や都道府県、自治体などから補助金が出ていることも少なくありません。
そろそろあの「啓蒙活動」「啓発活動」というものを振り返ってみる時期なのではないでしょうか。
もちろん啓蒙や啓発が不必要とは言いませんが、「それだけではダメ」というのはもう自明のことのように思います。
まさに落ち穂拾い
児童虐待防止推進月間であり、DV防止推進月間であった11月。あちこちで虐待の防止やDV防止を訴えるイベントやチラシ配り、シンボルタワーのライトアップなどが行われていました。こうした活動には国や都道府県、自治体などから補助金が出ていることも少なくありません。
最近の日本は、つくづく「矛盾社会」だなぁと思います。
本質からずれたことがあたかも「よいこと」であるかのように喧伝され、根本的な問題についてはまったく触れようともせず、表面上「ちゃんと取り組んでいますよ」というふりをする姿勢や取り組みが多すぎます。
「落ち穂拾い社会」と言ってもいいかもしれません。
たとえば「真夏の怪」のときに書いたように、今の大学生の就職は「就職氷河期」以下。60%を割っています。
それにもかかわらず、就職支援といえば就職カウンセリングだの、スキルトレーニングだのの話ばかり。「卒業して数年たっても新卒枠で採用する」などという新しい?発想も生まれていますが、その考え方そのものがよく分かりません。
今回のテーマでは、この夏に起きた不思議な事件、奇々怪々な事象、施策などさまざま取り上げてきました。
まだまだ疑問を感じることは山のようにありますが、すっかり秋も深まって参りましたので、そろそろ終わりにしたいと思います。
しかしなんと言っても、山積する不思議の中で最も不可解なのは、こういった政治や社会に怒ることもしないサイレントマジョリティーの存在です。
勝っても負けてもだれも幸せにしない。果てしなく続く競争社会の中で、心休まるときもなく、余裕のある生き方もできないまま、「でも、それは仕方のないこと」とあきらめ、結果的にさらなる競争社会ーー「自己決定と自己責任」ーーへと突き進むことを許している大多数の存在です。
誤解のないようにことわっておきますと、「だから、景気の動向と自殺者数はリンクしているはずだ」と言いたいわけではありません。
そのふたつがまったく無関係とは思っていませんが、ただ「景気回復」や「貧困対策」をして、失業者が減れば自殺が減るわけではないとお伝えしたかったのです。
昨年末に「『子どもの貧困』の何が問題か」でも書いたように、失業の増加や不況だけを重視して「貧困こそが問題なのだ」という視点で見てしまうと、「だから景気対策を優先させ、経済的に豊かになることが大切なのだ」というところに帰結してしまいます。
でも70年代、80年代を振り返えって見ればわかるように、世界一の経済大国であるアメリカを見れば分かるように、経済優先の社会は人間を幸せにしませんでした。
それどころか、他者とのつながりとか、家族の情緒的な結びつきとか、損得を抜きにした関係性とか、お金では得られないホッとする時間などの、人間が“人間らしく”生きることを否定することで、ひたすら富を生んできたのです。
そして、その先にあったのが「無縁社会」であり、「家族の絆の崩壊」でした。
閑話休題。
ところで笑顔と言えば、今、さかんに行われている「自殺予防としての笑顔」の奨励についても、なんだか違和感がいっぱいです。
情報番組などでも、「笑顔でやると仕事や家事の能率も上がる」とか、「笑顔でいると脳がだまされて幸せな気分になれる」などといい、その検証を行う番組などもよく放映されています。
自殺予防のための自治体セミナーなどでは「笑いでうつを予防する」などという講習も行われています。
こうした取り組みのすべてを否定するつもりは、もちろんありません。それどころか、笑顔をつくったり、意図的に笑うことで幸せになることができるならば、そんな簡単なことはない! とも思います(カウンセリングの場では意図的に笑うことさえもできない方がいらっしゃるのは事実ですが・・・)。
でも、あまりにも「自殺予防には笑いが一番!」と喧伝されてしまうと、「それはなんか違うでしょ」と言いたくなってしまうのです。
つらい出来事に遭遇したときに、落ち込むのは自然な心の働きです。
仕事で失敗したり、失恋したり、大事な人を亡くしたりしたときに、ネガティブになってしまうのも、心がきちんと働いている証拠。気分には波があって当然です。それが生きているということなのです。
もし、どんなにことがあっても落ち込むことなく、常に前向きでいられたとしたら、私たち人間はどうなるでしょうか。
たとえば、上司から人格を否定するような言葉を投げつけられたり、一生懸命働いてきたのに期限付きでクビを切られたり、非正規雇用ということで正社員からぞんざいな扱いを受けたりしても、そんな現実をただただ受け入れて、前向きに生きられることは本当に幸せでしょうか。
気持ちが落ち込んだり、怒りを感じたり、快・不快を感じ分けたりできるから、私たちは自分の身を守ったり、理不尽な状況を変えようと立ち向かうこともできます。
悲しみや怒りなど、一見、マイナスに思える感情も、私たちの人生をよりよく変えていくためにはとても必要なものなのです。
5月頃からずっーと報道を独占していた力士による野球賭博問題も疑問がいっぱいでした。
70人近い親方や力士が賭博行為に関わっていたとされ、現役力士が解雇されるほどの事件へと発展しました。
でも、ちょっとまって。
ギャンブル依存の方とお会いすることも少なくない立場としては、どうもストンと腑に落ちないことがいろいろあります。
刑法では賭博は禁じられています。それなのに、どうして競馬やサッカーくじ、パチンコなどのギャンブルはOKなのに、野球賭博はダメなんでしょうか。
いつもにも増してこの夏は、不可解なことがいっぱいありました。
たとえば、大阪市のマンションで幼児二人が置き去りにされ、母親が死体遺棄容疑で逮捕された事件。
この事件では、子どもの泣き声を聞いた近所の人々から何度も児童相談所に通報があり、計5回も児童相談所の方が訪問していました。110番通報を受けた警察官も部屋を訪ねていました。
ところが、「訪問時に子どもの声がしなかった」とか「世帯構成が把握できないから」とそのまま帰り、強制的な手段に出ることもないまま、2人の子どもは命を落としました。
政府も自治体も、「児童虐待防止!」と声高に叫んでいるのに、なぜこんなことが起こるのでしょう。
そして、さらにさらにすごいことに、国連「子どもの権利委員会」の最終所見は、子どもと親や教師との関係が希薄化している原因として、この間、政府がずっと行なってきた(民主党政権になってさらに強化されようとしている)(1)労働の規制緩和や民営化政策などに代表される企業優遇の施策を挙げました。
そんな企業に利益をもたらす施策に多くのお金が使われる一方で、(2)社会保障や教育費をなるべく出さないようにする財政政策が取られてきたこと、(3)保育所や児童養護施設など、子どもに関する施設の最低基準や、子どもに関連する現場で働く人々の労働条件などの最低基準が低下の一途をたどっていること、(4)企業利益を拡大することを最優先課題とするがあまり、子どもへの予算配分が配慮されていないことなどが原因であるとし、(5)こうした施策を背後から操っている財界に対し、政府がまったく規制をかけようとしていないことをも問題視しています。
もちろん、(6)少子化になっても変わらない相変わらず続く高度に競争主義的な教育制度についても見直すよう述べています。
そうやって、子どもたちが迷い、考え、身を削りながら、力を振り絞って臨んだプレゼンテーションなのですから、国連の委員の方々の胸を強く打たないわけがありません。
しかも、彼・彼女らのメッセージの核心は見事に一致していたのです。それは、「ひとりぼっちにしないで!」ということでした。
立場も、考え方も、体験も、何一つ一緒ではない8人。
すでに書いたように取り上げたエピソードだって、もちろん全部違います。ある子は両親に向けて、ある子は教師(学校)に向けて、またある子は人との関係性を奪う競争的な社会と制度を肯定しているあらゆるおとなに向けて、のメッセージだったのに、訴えたいことの中心はまったく同じだったのです。
※写真は政府報告書審査が行われたパレ・ウィルソンの玄関ホールから議場へ向かう通路