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たびたびこのブログでも書いてきたように、こうしたことはもちろん、個々の親のせいではありません。
「幸せとは何か」を見失ってしまった社会の当然の産物です。

発達障害という“くくり”

それから発達障害という“くくり”もくせ者です。

この発達障害という“くくり”をよく耳にするようになったのは2003年頃から。

4歳児を全裸にして立体駐車場の屋上から突き落として死亡させた事件(長崎県)で補導された男子(当時中学1年生)が、脳の機能障害とされる広汎性発達障害のひとつであるアスペルガー障害とされた頃から頻繁に聞くようになりました。

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そしてさらに言えば、物理的な時間や余裕があっても、子どもの気持ちを受け止める大切さを見失っているおとなもたくさんいます。

前回も紹介した「子どもの声を国連に届ける会」のべつな子どもは、国連でのプレゼンテーションの中で、いじめについて周りのおとながどう反応したのかをこう語っています。

「クラスの男の子たちから『死ね』『っていうかうざくね?』などと言われ、教室に入れなかった。行き場所もなく泣きながら保健室に行くと、『熱がないなら戻りなさい』と入れてくれなかった。トイレに逃げると猫なで声で先生たちが『大丈夫なの?』『早く出てきない』と説得に来た。
両親に話すと、父は『そんなの社会に出ればよくあること。俺だっていじめられている』と言い、母は『全員殺してやる』という私の言葉に『全員もどうやって殺すの?』と言うだけだった」

勇気を振り絞って言葉にし、辛さを態度で示しても、こんなふうにおとなから返されたら、もう二度と相談する気持ちになどなれないでしょう。

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そうそう「こころのケア」で思い出しました。

最近、暗澹たる気持ちになったもののひとつに、さいたま市教育委員会が出したいじめに関する緊急アピールがありました。

アピールは群馬県や千葉県で、いじめを受けていた小中学生の自殺が相次いだことを受けて出されたもの。タイトルは「とても大切なあなたたちへ」で、市内の小中高校と特別支援学校全164校に配布したそうです。

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そろそろあの「啓蒙活動」「啓発活動」というものを振り返ってみる時期なのではないでしょうか。
もちろん啓蒙や啓発が不必要とは言いませんが、「それだけではダメ」というのはもう自明のことのように思います。

まさに落ち穂拾い

児童虐待防止推進月間であり、DV防止推進月間であった11月。あちこちで虐待の防止やDV防止を訴えるイベントやチラシ配り、シンボルタワーのライトアップなどが行われていました。こうした活動には国や都道府県、自治体などから補助金が出ていることも少なくありません。

最近の日本は、つくづく「矛盾社会」だなぁと思います。

本質からずれたことがあたかも「よいこと」であるかのように喧伝され、根本的な問題についてはまったく触れようともせず、表面上「ちゃんと取り組んでいますよ」というふりをする姿勢や取り組みが多すぎます。

「落ち穂拾い社会」と言ってもいいかもしれません。

たとえば「真夏の怪」のときに書いたように、今の大学生の就職は「就職氷河期」以下。60%を割っています。

それにもかかわらず、就職支援といえば就職カウンセリングだの、スキルトレーニングだのの話ばかり。「卒業して数年たっても新卒枠で採用する」などという新しい?発想も生まれていますが、その考え方そのものがよく分かりません。

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今回のテーマでは、この夏に起きた不思議な事件、奇々怪々な事象、施策などさまざま取り上げてきました。

まだまだ疑問を感じることは山のようにありますが、すっかり秋も深まって参りましたので、そろそろ終わりにしたいと思います。

しかしなんと言っても、山積する不思議の中で最も不可解なのは、こういった政治や社会に怒ることもしないサイレントマジョリティーの存在です。

勝っても負けてもだれも幸せにしない。果てしなく続く競争社会の中で、心休まるときもなく、余裕のある生き方もできないまま、「でも、それは仕方のないこと」とあきらめ、結果的にさらなる競争社会ーー「自己決定と自己責任」ーーへと突き進むことを許している大多数の存在です。

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誤解のないようにことわっておきますと、「だから、景気の動向と自殺者数はリンクしているはずだ」と言いたいわけではありません。
そのふたつがまったく無関係とは思っていませんが、ただ「景気回復」や「貧困対策」をして、失業者が減れば自殺が減るわけではないとお伝えしたかったのです。

昨年末に「『子どもの貧困』の何が問題か」でも書いたように、失業の増加や不況だけを重視して「貧困こそが問題なのだ」という視点で見てしまうと、「だから景気対策を優先させ、経済的に豊かになることが大切なのだ」というところに帰結してしまいます。

でも70年代、80年代を振り返えって見ればわかるように、世界一の経済大国であるアメリカを見れば分かるように、経済優先の社会は人間を幸せにしませんでした。

それどころか、他者とのつながりとか、家族の情緒的な結びつきとか、損得を抜きにした関係性とか、お金では得られないホッとする時間などの、人間が“人間らしく”生きることを否定することで、ひたすら富を生んできたのです。

そして、その先にあったのが「無縁社会」であり、「家族の絆の崩壊」でした。

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閑話休題。
ところで笑顔と言えば、今、さかんに行われている「自殺予防としての笑顔」の奨励についても、なんだか違和感がいっぱいです。

情報番組などでも、「笑顔でやると仕事や家事の能率も上がる」とか、「笑顔でいると脳がだまされて幸せな気分になれる」などといい、その検証を行う番組などもよく放映されています。
自殺予防のための自治体セミナーなどでは「笑いでうつを予防する」などという講習も行われています。

こうした取り組みのすべてを否定するつもりは、もちろんありません。それどころか、笑顔をつくったり、意図的に笑うことで幸せになることができるならば、そんな簡単なことはない! とも思います(カウンセリングの場では意図的に笑うことさえもできない方がいらっしゃるのは事実ですが・・・)。

でも、あまりにも「自殺予防には笑いが一番!」と喧伝されてしまうと、「それはなんか違うでしょ」と言いたくなってしまうのです。

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つらい出来事に遭遇したときに、落ち込むのは自然な心の働きです。
仕事で失敗したり、失恋したり、大事な人を亡くしたりしたときに、ネガティブになってしまうのも、心がきちんと働いている証拠。気分には波があって当然です。それが生きているということなのです。

もし、どんなにことがあっても落ち込むことなく、常に前向きでいられたとしたら、私たち人間はどうなるでしょうか。

たとえば、上司から人格を否定するような言葉を投げつけられたり、一生懸命働いてきたのに期限付きでクビを切られたり、非正規雇用ということで正社員からぞんざいな扱いを受けたりしても、そんな現実をただただ受け入れて、前向きに生きられることは本当に幸せでしょうか。

気持ちが落ち込んだり、怒りを感じたり、快・不快を感じ分けたりできるから、私たちは自分の身を守ったり、理不尽な状況を変えようと立ち向かうこともできます。
悲しみや怒りなど、一見、マイナスに思える感情も、私たちの人生をよりよく変えていくためにはとても必要なものなのです。

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5月頃からずっーと報道を独占していた力士による野球賭博問題も疑問がいっぱいでした。
70人近い親方や力士が賭博行為に関わっていたとされ、現役力士が解雇されるほどの事件へと発展しました。

でも、ちょっとまって。
ギャンブル依存の方とお会いすることも少なくない立場としては、どうもストンと腑に落ちないことがいろいろあります。

刑法では賭博は禁じられています。それなのに、どうして競馬やサッカーくじ、パチンコなどのギャンブルはOKなのに、野球賭博はダメなんでしょうか。