「子どもの貧困」の何が問題か(7/7)

2019年5月29日

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いったい「子どもの貧困」の何が問題なのでしょうか? 競争による格差や、自己決定ー自己責任による貧困をもたらす社会で子どもたちは何を奪われているのでしょうか

それは「人間関係」です。

人間関係を奪われた果てに

私たち人間は、「あなたは、そのあなたのままで十分価値があるんだよ」と言ってくれるだれかがいなければ絶対に生きていくことはできません。

たとえどんなに大勢の人に囲まれていたとしても、その存在をまるごと受け止めてくれるだれかがいなければ、私たちの心は空虚なまま。安全感も安心感も持てません。
子どもであればなおさらです。

何もできない自分であっても、そのままで抱えてくれる身近なおとながいなければ、子どもは世の中や自分を信じ、「自分は何かをなす事ができる」という自信を持ち、将来への希望も持つことなど、とうていできません。

こうした人間関係に恵まれなければ、子どもは自らが持って生まれた能力をきちんと伸ばすことができません。

それどころか、「不遇の身は自分のせい」と早いうちからすべてをあきらめてしまったり、周囲が振り向いてくれるような価値のある人間になろうとして息切れを起こしたり、空気を読みながら必死でキャラをつくったりして、どうにか日々を生き延びるしかなくなります。

とうてい「自分も他人も幸せに生きられる社会をつくろう」と、自らの力を惜しみなく使えるような調和の取れた人格に成長することなどできなくなってしまいます。

そして、さらに自分で自分を孤独と絶望へと追い込んで行きます。

自分を偽り、周囲に合わせることで本当の自分を受け入れてくれる人に会えようはずもないことはわかりきっているのに、いっときの寂しさを埋めるために、演技をしてしまうからです。
そのあげくに、たとえばある子は無気力や抑うつ状態に陥ったり、ある子は薬物やネットの世界などにハマッていきます。

だから「子どもの貧困」は大問題

貧困家庭では、親が子どもに目を向ける物理的、精神的な余裕が無いために関係性を築くことができません。一方、競争を勝ち抜いてきた裕福な家庭の親の多くは、情緒的なつながりに価値があると思えないために、子どもが親にぶつけてくる欲求に目を向ける必要を感じられません。

子どもは生まれ落ちた瞬間から、生き、成長、発達していくために保護やいたわり、理解と言った愛情を必要とするのに、貧困や格差をもたらす日本のような社会ではお金があっても無くても、そんな愛情を得られるような関係性を保障されないまま、子どもは生きていかなければならなくなります。

貧困・格差社会は、どの子もかけがえのない存在と認められ、今を豊かに生き、調和の取れた人格へと成長、発達する土台となる人間関係を奪います。

その結果、子どもはさまざまな“症状”を呈し、中には自傷行為や他者破壊に走らざるを得ない者も出て来ます。

だから「子どもの貧困」は大問題なのです。

一年間、ありがとうございました

今年も一年間、思うままにブログに綴らせていただき、ありがとうございました。

おかげさまでブログに書いていた小さなつぶやきが『迷子のミーちゃん 地域猫と商店街再生のものがたり』(扶桑社)として出版されるという幸運にも恵まれました。

『迷子のミーちゃん』は、子どもの権利条約を通して知り合った仲間や子どもたち、多くのクライアントさんに教えていただいたことが詰まった一冊です。

こうした本を書くことができたのも、たわいもないつぶやきにつきあってくださった大勢の方々がいらしてこそ、です。

この場を借りて感謝申し上げたいと思います。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

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Posted by 木附千晶