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NEC_0002.jpg だって、あれだけ毎日毎日、たくさんの時間を共に過ごしてきた犬です。おしっこやうんちの世話をし、変な物を食べてお腹をこわしたときには添い寝をし、雨の日も風の日も散歩をして、一緒に歩んできた犬です。
何より、「ずーっとこの人と生きていくんだ」と信じて疑わない犬です。

そんなふうに思っている犬が、見知らぬ人たちに車に乗せられ、パピーウォーカーの家を離れるのです。
鼻を鳴らして必死で家族にしがみつく犬の姿が、私の愛犬(ゴールデン・レトリーバー)に重なります。

そこでもうギブアップ。「ああ、もうこれ以上は見ていられない」と、たまらず別の番組に変えてしまいます。

「感情はもううざいし要らない」

これは、つい最近、私が知ったBENNIE Kというユニット歌手の歌『モノクローム』の一説です。

びっくりするほど芸能情報にうとい私に、この歌のことを教えてくれたのは、「子どもの声を国連に届ける会」に参加している高校生でした。
「うちの妹が好きな歌」と紹介してくれたのです。

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image090814.jpg これは本当にすごいことです!

何度もこのブログでも書きましたが、「何でも自分でできる『自立した人間』」などというものは、今の社会が創り出したフィクションに過ぎません。

私たち人間は、みな「だれかとつながりたい」という欲求を持って生まれてきます。
赤ちゃんが、たとえお腹が空いていなくても「側にいて欲しい!」と、温もりを求めて泣くことを思い出してください。

特定のだれか、自分に安心感・安全間をくれるだれかと「つながっている」という感覚は、一人生まれ、死んでいく私たち人間が、人間存在として抱えている根源的な孤独や不安から解放されるためになくてはならないものです。

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そんな「安全基地が欲しい」というあたりまえのこと・・・たとえば、疲れたときに心と体を休め、傷ついたときに慰めてもらい、困ったときに助けてもらうが否定される社会の中で、私たちはいつも臨戦態勢で生きることを強いられています。

だから、とてもではないけれども自らの素顔を他人にさらすことなどできません。

競争によって利益を奪い合うことを強いられる世の中で、どうにかやっていくことに汲々としている私たちにとって、本当はちっぽけでしかない自分の姿を見せることは、かなり勇気のいることです。

生き延びるためになるべく多くのものを手に入れ、そんな自分を支えるだけでせいいっぱい。
だから、だれかに何かを「与える」ことも苦手です。

ちっぽけな自分をさらけ出し、「与える」ことによってこそ、他者とのつながりが生まれ、その相手が計り知れないほどの豊かなものを返してくれるということ。そうした関係性こそが、ひとりで生きていくことはできない私たちを孤独の淵から救い出してくれるのだということが、なかなか信じられません。

それどころか、「与える」対象のことを「ただの厄介者」のように思ってしまうこともよくあります。

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幼い子どもでさえ「子どもらしく」振る舞うことが否定されるのですから、大のおとなが甘えることを許されないのはまったくもって当然のことです。

今まで以上に、誰かに頼ったり、弱みを見せたりすることは「いけないこと」とされ、何でも自分ひとりでできるようになること、そのために努力することが「いいこと」と考えられるようになりました。

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そう、「ただ、そこにいる」ことで、ミーちゃんは商店街の人々に幸せを与えてくれていました。
そして、「人は一人では生きていけない」という大切なことを教えてくれたのです。

小さく、弱く、人に頼らなければ生きていけないミーちゃんに、大きく、強く、“自立して”いるかに見える人間たちが心の豊かさをもらっていたこと。
——それは、私にとって「目からウロコ」の大きな発見でした。

195.gif この相談室のブログに書いていた「地域猫」の話が、本日(7月8日)に出版されました。タイトルは『迷子のミーちゃんーー地域猫と商店街再生のものがたり』(扶桑社)です。

考えてもいなかった展開に、ただただ驚くばかりです。
ブログにミーちゃんの話を書いたとき、私が願っていこと。それは、「ミーちゃんが見つかりますように」ーーたったそれだけでした。

本にも書かせていただきましたが、そんな小さな“つぶやき”に過ぎない文章が、まさか本になるとは、想像だにしていなかったのです。

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孤独と絶望から犯罪者予備軍に

それによってようやく、「信じたあげくに捨てられるかもしれない」という恐怖から抜け出せます。しかし一方で、より孤独にさせ、絶望の淵へと追い込みます。

そして、恨みやねたみを増大させ、「自分などどうなってもいいんだ」と思い、新たな犯罪に手を染めていきます。

今回の裁判員制度は、本当であれば生き直すことができたかもしれない子どもたちから、その機会を奪い、孤独と絶望、そして恨みの中へと定着させ、犯罪者予備軍とも呼べる人間をつくってしまいます。

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しかも裁判員制度の導入によって犯罪が減ることはけしてないのです。
前々回に書いた調査官の方の言葉をもう一度紹介したいと思います。

「子どもは『理解された』という体験があってはじめて、罪を反省し、刑も受け入れることもできる。そこが省略されてしまえば『どうせ俺はワルだ』と開き直り、再び罪を犯す子どもが増えるだけだ」

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裁判員制度は、被害者の方々も救いません。

ある調査官は、大勢の被害者やその家族と接してきた経験から、その理由をこんなふうに話してくれました。

「被害者やその遺族が知りたいのは、『自分の大切な人が、なぜそんな目に遭わなければいけなかったのか』ということ。その疑問に応えるためには、被告人がどんなふうに育ったどんな人間なのか、なぜ犯行に及んだのか、などが明らかにされる必要があります」

ところが、裁判員制度にともなう公判前整理手続では、まさにそこの部分が削られることになるのです。

「そんなことになれば、被害者側の傷はもっと深くなってしまう」と、この調査官は心配します。