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こうした親に「母性がない」「母親失格」というレッテルを貼り、自己責任として切り捨てているのが今の社会です。

自己責任することで私たちは、「自分の親が、けして無条件に愛してくれたわけではない」という辛い事実から目を反らし、自らの親と同じように子どもを支配しながら、家族幻想の中で生きていくことができます。

また、社会全体で考えればどうでしょう。

子育てという大変な仕事を「母親の仕事」にし、社会が望む人材育成の担い手という役割を女性に押しつけることができます。
さらに言えば、「子育て優先」という、反論しにくい理由をつけて、安い労働力としての女性を確保し続けるというメリットがあるのではないでしょうか。

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ところが現実には、『感情はもううざいし要らない(5)』で紹介した少女のように、子どもが安心して欲求を出すことができないおとなとの関係性が少なくありません。

おとなの側が、「こうあるべき」「こう感じろ」「こんなふうに振るまえ」とさまざま子どもに要求し、子どもを混乱させ、子どもから安全感や感情を奪い、うまく成長発達できないようにしてしまっている例がめずらしくないのです。

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本来、子どもの思いや願い、欲求は「そのままで」おとなに受け止めてもらえるべきものです。

おとなから見れば、たとえその内容がどんなにばかばかしくても、社会的にはとうてい認められないことであっても、まず「そうだったんだ」と身近なおとなに受け止め、きちんと応答してもらうことで、子どもは自らの存在価値や安全感を確認できます。

そんな安心できるおとなとの人間関係があってはじめて、経済的にも能力的にもおとなには及ばない子どもが、自分の人生を自分らしく、豊かに生きていくことができます。

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話をもとに戻したいと思います。

本来、生まれたての「子ども」は動物と同様、欲求の塊のはずです。
子どもは幼ければ幼いほど、「ああして欲しい」「なぜこうしてくれない」「自分はこうしたいのに!」という、たくさんの欲求を持っていて、それをかなえてくれないおとなに対して、生の感情をぶつけてきます。

びっくりするほど利己的で、他者を顧みようとすることもなく、ただただ「生き延びる」ことに必死。そのあふれんばかりの「生きたい!」という子どもが持つパワーは、ときにおとなを圧倒させるほどです。

そんな動物にも通じるほどの生命力に満ちあふれた「子ども」という存在から、欲求を奪い、感情を奪い、期待感を奪ったもの・・・それはいったいなんなのでしょうか。

どうしたら欲求の塊として生まれてきた子どもを、「べつに」という回答を繰り返すしかしないほどにまであきらめの境地へと追い込むことができるのでしょうか。

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090930.jpg 動き出す電車の中で遠くなっていく盲導犬を見つめながら記憶のページをめくっていくと・・・と思い当たった顔がありました。
児童養護施設の子どもたちのインタビュー集(『子どもが語る施設の暮らし2』明石書店)をつくったときに出会ったある中学生の男の子でした。

「今の生活をどう思う?」
「何かおとなに言いたいことある?」
「不満に思っていることは?」

いろいろと尋ねても、その子はただ「べつに」という回答を繰り返すだけ。私と目を合わせようともしませんでした。
それでも質問を重ねていくと、その子はうんざりしたようにため息をつき、こう言ったのです。

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それからしばらくの間、私はその盲導犬の動きを観察していました。
なかなか電車が来なかったので、その間たっぷり15分はあったでしょうか。盲導犬は(当たり前のなのでしょうが)微動だにせず、ただジーッとユーザーさんの足下でうずくまっていました。

満杯の電車を見送り、次の電車に乗るつもりなのでしょう。ユーザーさんはようやく到着した電車には乗ろうとしませんでした。
そんな二人(一人と一頭?)の横をすり抜け、電車に乗り込むと、ちょうどホームで待っている盲導犬と窓ガラスを挟んで真っ正面に向き合うような格好になりました。

ホームに停車したままの電車から、盲導犬に「お疲れ様」とアイコンタクトでメッセージを送ろうとしたときのことです。うつむいて寝そべっていた盲導犬が、ふいに面を上げました。

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NEC_0002.jpg だって、あれだけ毎日毎日、たくさんの時間を共に過ごしてきた犬です。おしっこやうんちの世話をし、変な物を食べてお腹をこわしたときには添い寝をし、雨の日も風の日も散歩をして、一緒に歩んできた犬です。
何より、「ずーっとこの人と生きていくんだ」と信じて疑わない犬です。

そんなふうに思っている犬が、見知らぬ人たちに車に乗せられ、パピーウォーカーの家を離れるのです。
鼻を鳴らして必死で家族にしがみつく犬の姿が、私の愛犬(ゴールデン・レトリーバー)に重なります。

そこでもうギブアップ。「ああ、もうこれ以上は見ていられない」と、たまらず別の番組に変えてしまいます。

「感情はもううざいし要らない」

これは、つい最近、私が知ったBENNIE Kというユニット歌手の歌『モノクローム』の一説です。

びっくりするほど芸能情報にうとい私に、この歌のことを教えてくれたのは、「子どもの声を国連に届ける会」に参加している高校生でした。
「うちの妹が好きな歌」と紹介してくれたのです。

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image090814.jpg これは本当にすごいことです!

何度もこのブログでも書きましたが、「何でも自分でできる『自立した人間』」などというものは、今の社会が創り出したフィクションに過ぎません。

私たち人間は、みな「だれかとつながりたい」という欲求を持って生まれてきます。
赤ちゃんが、たとえお腹が空いていなくても「側にいて欲しい!」と、温もりを求めて泣くことを思い出してください。

特定のだれか、自分に安心感・安全間をくれるだれかと「つながっている」という感覚は、一人生まれ、死んでいく私たち人間が、人間存在として抱えている根源的な孤独や不安から解放されるためになくてはならないものです。

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そんな「安全基地が欲しい」というあたりまえのこと・・・たとえば、疲れたときに心と体を休め、傷ついたときに慰めてもらい、困ったときに助けてもらうが否定される社会の中で、私たちはいつも臨戦態勢で生きることを強いられています。

だから、とてもではないけれども自らの素顔を他人にさらすことなどできません。

競争によって利益を奪い合うことを強いられる世の中で、どうにかやっていくことに汲々としている私たちにとって、本当はちっぽけでしかない自分の姿を見せることは、かなり勇気のいることです。

生き延びるためになるべく多くのものを手に入れ、そんな自分を支えるだけでせいいっぱい。
だから、だれかに何かを「与える」ことも苦手です。

ちっぽけな自分をさらけ出し、「与える」ことによってこそ、他者とのつながりが生まれ、その相手が計り知れないほどの豊かなものを返してくれるということ。そうした関係性こそが、ひとりで生きていくことはできない私たちを孤独の淵から救い出してくれるのだということが、なかなか信じられません。

それどころか、「与える」対象のことを「ただの厄介者」のように思ってしまうこともよくあります。