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そもそも公判前整理手続では、「なぜ犯行に至ったか」という量刑手続に関する資料は簡略化される傾向にあります。
考えてみれば、当たり前です。「なるべく早く」判決を出そうとすれば、当然、注目されるのは「やったこと」(事実認定手続)ばかり。その理由までは、なかなか目がいかなくなります。

こうした裁判が行われるようになればどうなるか・・・。
事件の背景や全体像がなおざりにされ、犯行に至った被疑者(被告人)の生い立ちや犯行動機なども解明されなくなってしまいます。

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裁判員制度になれば、確かに審理期間は短くなります。集中審理が行われるため、3〜5日程度で結審することになるのです。

こうしたスピーディな裁判を実現するために行われるのが、公判前整理手続です。

公判前整理手続とは、初公判に先立って、裁判官、検察官、弁護人、必要な場合は被疑者が話し合い、あらかじめ証拠や争点を絞り込んで審理計画を立てる場です。ここで、法律の専門家ではない裁判員にもわかりやすいよう、証拠が厳選されます。

2005年から一部の刑事裁判で行われていて、その場は“慣例として”非公開です。
たとえ公判が始まった後に重要な証拠などが見つかっても、公判前整理手続で認められていなければ、原則として新たに証拠請求をすることはできません。

代用監獄は残したまま、こうした公判前整理手続を導入することは、弁護人を今まで以上に不利な立場に追い込みます。
前回も書いたように、弁護人には捜査権限が無く、被疑者との面会さえもままならないのです。

公判前整理手続が行われれば、その手続までに弁護人が情報を集められず、十分な準備ができないままに臨む可能性が高くなることは否定できません。しかも「証拠が厳選される」ため、検察官が握っている証拠をすべて見ることもできなくなります。

へたをすれば裁判方針も立てられないまま、公判前整理手続を終えることにもなりかねません。

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世界でもまれな、被疑者の人間性を無視した代用監獄の存在は、国連からも批判されています。
代用監獄で被疑者がどのように扱われるか、興味のある方は東京弁護士会のサイトをご覧ください。

ご一読いただければ、なぜ代用監獄が国連から批判されるのか、なぜ被疑者が嘘の自白までしてそこから出たいとまで思うのか、おわかりになるかと思います。

この5月から、殺人や傷害致死などの重大な事件を争う刑事裁判に裁判員制度が導入されます。導入を進めてきた人たちは、「裁判の迅速化を図る」「国民の意見を裁判に反映させる」「刑事司法を開かれたものにする」など、と言って宣伝していますが、本当にそうなのでしょうか?

導入が決まった後になって、各マスコミはようやく裁判員制度の問題点を指摘するようになりました。それによってようやく国民も、法律の専門家ではない一般人が司法判断を下すことの難しさや、裁判員となった場合の義務、義務に反したときの罰則等について現実的な問題としてとらえられるようになってきました。

昨年3月に日本世論調査会が実施した調査によれば、「裁判員を務めてもよい」と答えた人は26%。対して「裁判員を務めたくない」と答えた人は72%にもおよび、「務めてもよい」の3倍にも達しています。
また、最高裁判所の調査でも、「参加したくない」とする意見(38%)は、「参加してもよい」(11%)の3倍以上になっています。

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今の日本では、カルデロンのり子ちゃんのような、いわゆる外国人などの「マイノリティー」とよばれる子どもだけでなく、マジョリティーである多くの子どもたちも「自分は“世界でたったひとつの宝”である」という、実感を持って、育つことができない現実があります。

それは、わたしもかかわっている「第3回子どもの権利条約 市民・NGO報告書をつくる会」がこの3月に完成させた国連「子どもの権利委員会」に提出するための基礎報告書(CD)にも顕著です。
全国各地の、さまざまな立場、領域の人たちが寄せてくれた約400本もの報告からなるCDには、貧困、疲弊、情緒的剥奪などがおおっているおとなたちの現実。そうした日々に追われ、子どもと向き合うことができなおとなたちの苦しみが山のように載っています。その結果として成長発達がゆがめられていく子どもたちの現状が、リアルに描かれています。

ご興味のある方は、ぜひ読んでいただきたいと思います(基礎報告書CD-ROM発売のお知らせ)。

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こうした国の態度の背景には、やはり「“子ども”という存在をどんなふうに考えているか」という根本的な問題があると思います。

かつて、このブログの「『教育の原点』を取り戻すために」ほかでも書いたように、日本という国は、常々、子どもを「国の発展に役立つ人材」ととらえてきました。
その考えがオブラートに包まれていた時期もありましたが、2006年末の教育基本法「改正」では、真意が鮮明になりました。

以後、子どもが“世界でたったひとつの宝”として成長発達する機会は次々と潰され、国に役立つ人材づくりのための施策が堂々と行われるようになりました。

それは教育だけの話ではなく、保育や養育などさまざまな分野で、同様のことが行われています。

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冒頭で述べた通り、日本は親子(家族)の分離を禁止した9条について解釈宣言をしています。そうしたこの国において、日本国籍を持たない子どもについて「憲法や入管法をどう解釈するのか」は、難しい部分があります。

しかしだからと言って、子どもが、すくすくと幸せに育つ機会を国が奪っていいはずがありません。子どもは、親も、祖国も、産まれる場所も、自ら選ぶことはできないのです。
もし、従来の法律(やその解釈)で子どもの成長発達を保障できないのであれば、法律の方が変わらなければならないはずです。

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結局、カルデロンさん一家はのり子さんだけを残し、来月13日にフィリピンへ帰国することを決めました。3月13日のことです。

東京入管が3月9日にのり子さんの父親・アランさんが身柄を強制収容し、「のり子さんだけを残すかどうか決めなければ、家族三人を強制送還する」と迫ったため、苦渋の選択をせざるを得なかったのです。

今後、のり子さんは現在の住居である蕨市に引っ越してくる母親・サラさんの妹夫婦と共に暮らし、中学校に通う予定です。

3月13日の記者会見で、のり子さんは「日本は私にとって母国。培ってきたいろいろなことを生かすために一生懸命がんばります」と話す一方、「私ひとり残れてもうれしくありません」とも言いました(『朝日新聞』3月14日)。

今回は、子どもの権利条約から見た家族の問題を書きたいと思います。

1994年に日本が批准した子どもの権利条約は、虐待や親の病気など、特別な事情があって親が面倒を見られないということがない限り、子どもと親の分離を禁じています(第9条)。

たとえ両親のどちらかが日本人でなかいとしてもまったく変わりません。どんな子どもも、すくすくと成長できるように、身の回りを整えてもらったり、愛情を注いでもらったりする権利を持っています。

もし、経済的な理由や国籍などの問題で、親がこうした愛情を注ぐことが難しい場合には、国が親を援助する義務もあります。

家族というハコモノよりも、そこに暮らす子ども一人ひとりの思いや願いを大切にする子どもの権利条約らしい条文です。

ところが、日本はこの9条を認めることを留保しています。
これもまた、子どもよりも家族を重んじ、前回のブログで書いたような“偽りの家族”が増殖する土壌を築いてきた日本らしい話です。

国連「子どもの権利委員会」は、2度に渡る子どもの権利条約に基づく政府審査で、こうした日本政府の態度に懸念を表明しています。

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でも、残念ながら「家族になるためには努力が必要」と思っている人は、日本ではそう多くはありません。

大多数は「夫婦・親子を中心とする近親者によって構成された家族は情緒的なつながりを持っているはず」と思い込み、下手をすると「血が繋がっているのだから何でも分かかり合えるはずだ」とまで思っていたりします。
戸籍を同じくする家族でさえあれば、思いを口になどしなくても、日々の暮らしという積み重ねなどなくても、すべて通じ合うと、本当に信じていたりします。

養子縁組ではない養育家庭里親が増えない理由も、そんな幻想を抱く人が多いことに由来しているように思えます。
「家族になろう」と、端から見て頭が下がるほど頑張っている養育家庭の里親さんの中にも、「実の親ではない」ことに引け目を感じているように見える人もいらっしゃいました。