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image100823.jpgそして「周りにバカと言われる学校に通っている劣等感を持っていた」というDさんは、「このまま(劣等生)でいい」という思いと「競争に戻ってみんなに勝たなければ」という矛盾した思いを紛らわせようと「明るいバカというキャラを演じて友達と合わせてきたけれど、それが高じて自分がどんどん希薄になっていき、自分が分からなくなった」と言い、本当の自分を見せられない毎日について語りました。

また、「家庭の経済事情で進学の幅が狭められているにも関わらず、受験競争に失敗すれば人生はやり直しが利かなくなる」と発言したEさんは、「一人ひとりが持っているさまざまな疑問や不安(略)を先生や子どもたち同士で、安心して話し合い、考え、活動する環境が欲しいのです。(略)私が望んでいること、それはどんな子どもでも一個人として認めて欲しいということです」と述べました。

さらにFさんは「自由に議論しなさい」と言いながら、先生の望むこと、すなわちおとなの都合に合わせて行くことを学ぶ場でしかなかった学校での体験を語り、そんな日常の中で自分の意見を持つことが出来なくなってしまった同級生の中から「共感してくれる友達を探すのにとても時間がかかった。生徒会として動こうとすればするほど、学校にいい顔をする『いい子』と決めつけられた。自分の意見を持つほど、学校では孤立する」と言いました。

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それからもうひとつ、委員の方々に大きなインパクトを与えたものがあります。
本審査前日の26日に行われた「子どもの声を国連に届けるプロジェクト」(「届ける会」)の8人の子どもたちが行ったプレゼンテーションです。

国連にインパクトを与えた子どもたちのプレゼン

100811.jpg 実は今回、子どものプレゼンテーションの日時や場所も、同席できるおとなの人数も、本審査同様、最後まで確定しませんでした。

しかし、傍聴ツアー出発直前になって「本当にプレゼンテーションができるのか?」というような情報がもれ聞こえる中、子どもたちはただ黙々と、プレゼンに向けての準備をしていました。

前回からの恒例である「恐怖の直前英語合宿」は、出発二日前から成田空港近く(ということは、周囲には何もないような場所)の素泊まり宿で夜を徹して行われました。聞こえるのは念仏のような仲間が発する英語だけ。ある子ども曰く「あまりにも英語ばっかり繰り返していたので日本語までろれつが回らなくなった」というほどです。

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image100722.jpg のっけから脱線してしまいましたが本筋にもどし、そろそろ国連の話をしましょう。

前回「国連側の事情で入場制限があった」と書きましたが、まずこれが大変でした。子どもの権利条約のための国連NGO・DCI日本の代表や事務局長が10日間も、ほとんど寝ずにやりとりを交わし、それでも頑なに「入場者数を制限する」と引かなかった国連側。

最終的には当日の朝、雨が降る中を最後の交渉をして、交代制で入ることになったのですが、こんなことは初めてです。
過去2回の傍聴のときはまったく問題にならないことでした。

事務局長いわく「子どもの権利条約についてだけでなく、あらゆる条約関連での国連事務局(委員会ではない)のNGOへの対応が変わってきている」とのことですが、平和の象徴である国連なのですから、あらゆる人に対してオープンであって欲しいものです。

100715_2.jpg 5月27、28日にスイスのジュネーブにある国連で開かれた子どもの権利条約に基づく第三回日本政府報告書審査の傍聴に行ってきました!
もちろん、「子どもの声を国連に届けるプロジェクト」(略称「届ける会」)の子どもたちも一緒です。

第二回目のときとは異なり、国連側の事情で入場制限が行われたため、ずーっと審査を傍聴するという「国連三昧」とは行きませんでした。
でも、フリーな時間が多かったため、ヨーロッパアルプスの最高峰・モンブラン(フランス)まで足を延ばしたり、ジュネーブ市街を散策して、宗教改革の旗手・ジャン・カルヴァンで有名なサンピール大聖堂で敬虔な雰囲気を味わったりすることができました。

国連審査が終わったあとは、オプショナルツアーにも参加。わずかな日程ではありましたが「食文化から豊かな暮らしを考えるトスカーナスローフードコース」で選んだイタリアも訪問。
めまぐるしいほど忙しいスケジュールではありましたが、ヨーロッパのゆったりした時間を体一杯に浴び、気分的にはかなりのんびり。命の洗濯ができました。

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進む学力低下、増える子どもの問題行動、ぬぐえない学校(教師)不信のスパイラルの中で、教育基本法はいとも簡単に「改正」されてしまいました。
憲法とも連動した国の基幹法でもあるとても大事な法律なのに、その理念や在り方については、ほとんど議論されないまま・・・。

子どもの成長発達を援助するための国家の責務を定めた国連の条約であり、歴史的、科学的、国際的な英知が詰まった子どもの権利条約も、まったく無視されました。

このときもまた、一人ひとりの子どもが生来持っている能力を最大限に伸ばす人間教育から、国際社会で勝ち残れるような企業(国家)利益をもたらすことができる人材教育へと理念の大転換を果たす法「改正」であることはいくつものオブラートに包まれ、隠さました。

「大競争時代を生き抜く力を持つ子どもを育てる」ーーそんな「改正」に向けたスローガンは、愛するわが子の行く末を案じる親心にかなり強く響いたことでしょう。

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「ゆとり教育」の見直しに拍車がかかったのは、教育「改革」に熱心な安倍晋三元首相が誕生した2006年です。

安倍元首相は教育再生会議(会議)という機関を設置し、「これからの教育の在り方」に熱心だった人です。

会議では「教師の質の確保」や「競争教育の必要性」「事業時間の増大」などが声高に叫ばれるようになり、2007年に開始された全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)や昨年始まった教員免許更新制への道筋がつくられました。

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教育熱心で、学校以外に勉強の場を確保できるような親がいる子どもの学力は上がり、そうでない子どもの学力は下がる・・・。
そんなことが当たり前のようになっていきました。

そして、学力格差を生み出すような「学ぶ子」と「学ばない子」が歴然とする学校は、学力以外にもさまざまな問題をもたらしました。

それまでは、たとえ勉強ができなくても、走るのが速いとか人前で話すのが得意とか、それぞれの得手不得手を活かして、行事で活躍できる子が大勢いました。
だから、テストでは上位になれなくても、自分のことを卑下したり、ストレスをため込むことは少なかったのです。

でも、ゆとりが無くなり、行事が減らされる一方の学校では、勉強以外の活躍の場はどんどん減っていきました。
勉強以外で活躍できない子どもたちの中には、荒れたり、暴力的になったり、弱い者いじめで鬱憤を晴らそうとする子が出て来ました。また、早いうちから「どうせ自分は頭が悪い」などと考え、諦めてしまう子も増えていきました。

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「ゆとり教育」になったことで、教師は「以前と同じ内容を短時間で、しかも子どもの実感がともなわない方法で教えなければならない」ようになりました。

当然、子どもの理解度は落ちていきます。そして、一度、分からなくなるともう二度と学校の授業には付いていけなくなることも増えました。

「基礎的な学力を何も身につけられないまま、小学校高学年、中学生へと進んでいく子どもが少なくない」
現場の教師はよくそんなふうに嘆いていました。

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教科内容の削減(いわゆる教科書の3割削減)も本当の「ゆとり」にはつながりませんでした。

なぜなら、国連「子どもの権利委員会」から二度にわたってその見直しを勧告されているほどに競争主義的な受験教育体制は、そのままだったからです。

教科書が薄くなっても

たとえ教科書が薄くなったとしても、受験を中心とした教育システムや社会の在り方が同じであれば、「教師が教えなければならない内容」が変わるはずがありません。
ほんのちょっと考えればだれでも気づくことです。

一方、「ゆとり教育」が始まったことで教科の授業時間は減っています。そのため、子どもがゆっくり考えをめぐらしたり、試行錯誤したり、体験をもとに何かを学んでいく機会はぐっと減ってしまいました。

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そもそも「ゆとり教育」は、子どもにゆとりある学びを保障するためにスタートしたものではありません。

その中身は、
「どんな家庭に生まれたどんな子でも、等しく教育を受けられる」
という平等教育を解体して、公教育費を削減させるために
「出来る子には手厚く、それ以外には最低限の教育」
へと、日本の教育を変えていくための装置として準備されたものです。

いったいどういうことなのか。
「ゆとり教育」の現実や、批判論議を振り返りながら、説明したいと思います。