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その理由は、2月〜4月にかけて、うまく福祉につながることができず、命を落とす事件がいくつも報道されたからです。

たとえば東京都立川心マンションで死後約二ヶ月がたった母親と息子の遺体が発見された事件がありました。
報道によると、母親がくも膜下出血で倒れ、後に障害のある息子が食事も取れずに衰弱したということでした。
2人の身元確認 東京・立川の母子死亡 警視庁

『「福祉」が人を殺すとき』(寺久保光良著・あけび書房)

まだバブルが弾ける前、多くの人が「景気は上り調子だ」と信じて疑わなかった1980年代。そんな時代に、各地で福祉につながれずに餓死や自殺が起きていることを綴ったルポルタージュのタイトルです。

同書に登場する北海道札幌市で、3人の子どもを残して餓死したとされる女性の事件については、福祉行政の責任とはまた違った問題があったことが、後になって分かってきましたが(詳しく知りたい方は『ニッポン貧困最前線 ケースワーカーと呼ばれる人々』久田恵著・文藝春秋社をご一読ください)、それを差し引いても日本の福祉行政の問題点がよく分かる一冊です。

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逆に、一見、正義のように見える加害者を死刑などの厳罰に処すこと。
すなわち、加害者だけに責任を負わせ、犯行の背景を一切語れぬように「口をぬぐう」こと。
加害者が「なぜ犯行に至ったか」を注視せず、「やったこと」のみに焦点を当てること。
加害者が犯行に至るまでの間、加害者を救う努力をしてこなかった社会の責任を放棄すること。

それは、加害者のような人間を生み出した社会・環境の問題を温存させるだけでなく、多くの人々を憎しみと恨みの中に定着させ、さらなる破壊的な社会へと人々を邁進させる暴力の連鎖を強めることになります。

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「加害者がどんなふうに育ったどんな人間なのか、なぜ犯行に及んだのか」

そういった被害者の方々が当然抱く疑問を明らかにすること。加害者の生育歴を丹念に調べ、人格形成との関係を検討すること。どのような環境が人を犯罪へと向かわせるかを考えること。・・・それは、被害者の方々を救うだけではありません。

安全な社会をつくっていくうえでも、とても重要です。

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本当に辛く、悲しく、残酷なことですが、奪われてしまった命や傷つけられた事実は何をしてももとには返りません。残念としか言いようがありませんが、たとえ加害者にその命を持って償ってもらったとしても、奪われた被害者の命が戻ってくることはないのです。

その事実を受け止めざるを得ないのであるとすれば、遺族や被害者にとって真に必要なことは、その現実を受け止め、存分に悲しみ、「もう一度幸せに生きて行いこう!」と思えるような手助けすること。遺族や被害者と共に泣き、怒り、「あなたはひとりではない」という実感を与えること。失ったものをちゃんと過去のものにして新たな一歩を歩み出せるように支えること。

そうしたことこそが、私たち周囲の人間にできる遺族や被害者への支援なのではないでしょうか。

少なくとも、遺族や被害者の被害感情をいたずらにあおり、憎しみに定着させ、恨みを糧とし、失った関係性をよすがにして過去の幸せだけを眺めながら生る人生の中に閉じ込めてしまう・・・そんな残酷なことをすべきではありません。

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私も、虐待や不適切な養育を受けてきた子どものセラピーをさせていただくことがあります。

セラピー開始当初は、子どもが発する不信感や巧みな嘘、すべてを飲み込もうとするかのような欠乏感に呆然とさせられます。
私という親の代理にぶつけてくるあまりにも激しい怒りに圧倒されてしまうこともたびたびあります。

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もちろん、犯した罪の責任は負わねばなりません。
「子どもだから」と、人を傷つけ、殺めることが許されないのは当然です。

しかし、前回述べたように「責任を取ることができるおとなへの発達途上にある子ども」に対して、おとなと同等の責任を負わせること。うまく成長発達することができなかった未成年者から「生き直す機会」を奪うことが、「正義」と呼べるのでしょうか。

もっと言えば、たとえおとなの場合であっても「命をもって償わせる」ことは果たして「正義」なのでしょうか。
「犯した罪の責任」と「そのような人格にしか成長発達できなかった責任」は分けて論じられるべきではないでしょうか。

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かつて「生育歴が無視される裁判員制度(5)」というブログを書いたときには、「裁判員制度が導入されれば少年法が骨抜きになる」と書きました。

しかし、今回の光市事件の元少年への死刑判決は、私に「少年法は死んだ」という現実を突きつけました。しかも「死亡被害者がふたりで死刑」という、成人同様の厳しい判決です。

最高裁判所という、国の最も権威有る、国の基準をはかる機関による少年への死刑判決は、とうとう日本という国が“おとな”とは違う“子ども”という存在を公然と否定してはばからなくなってしまったことを思い知らされました。

今年になってから、「少年による事件」について、また「暴力」というものについて、深く考えさせられるニュースがありました。

ひとつは、京都府福知山市の市動物園の猿山に大量の花火を投げ込んだとして、同市内の18歳の少年5人が書類送検されたというニュース。送検容疑は、「1月3日午前6時半ごろ、猿山(26匹飼育)に侵入し、見学通路から柵越しに点火したロケット花火などを投げ入れ、1匹の鼻をやけどさせたこと」でした。

もうひとつは、山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件の差し戻し後の上告審です。最高裁が上告を棄却し、犯行当時18歳1カ月の少年の広島高裁判決である死刑が確定したというニュースです。

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「傷ついても慰めてくれる存在がある」「恐い思いをしても戻ることができる場所がある」という確信は、子どもが外の世界を探索したり新しい物事にチャレンジする勇気をくれます。

こうした安全基地の感覚は、人間の成長度合いに応じて内在化され、そのうち母がいなくても自分を慰めたり、不安を沈めたり、勇気を奮い立たせたり、することができるようになります。

そして安全基地の内在化は、人間がだれかの言いなりになったり、従属したりすることなく、自分の人生を豊かにすることができる人間関係を選び取ること、自分を幸せにしてくれるひとときちんとつながりながら自分らしい人生を歩むことを可能にしてくれます。