暴力的な社会(4/7)
私も、虐待や不適切な養育を受けてきた子どものセラピーをさせていただくことがあります。
セラピー開始当初は、子どもが発する不信感や巧みな嘘、すべてを飲み込もうとするかのような欠乏感に呆然とさせられます。
私という親の代理にぶつけてくるあまりにも激しい怒りに圧倒されてしまうこともたびたびあります。
負のエネルギーは蓄積され恨みは肥大化
子どもが持つきちんと愛されなかったことによる負のエネルギーは年齢を重ねれば重ねるほど蓄積され、肉体的な発達を遂げれば遂げるほど破壊力は増していきます。
「私は壊れない(裏切らない)よ」「傷つけ合うのではない違う関係性があるんだよ」という実感を与えてくれるおとなに出会えず、受け止めてもらえなかった怒りは、いつしか恨みとなって肥大化し、噴出する機会を狙いはじめます。
もしあの猿山にロケット花火を打ち込んだ少年や、山口県光市で母子を殺害してしまった少年が、もっとずっと小さな子どもだった頃、彼らがありのままの気持ちを表現できるおとながいたら・・・。少年達の怒りや傷つきにきちんと応答して受け止めてくれるおとなと出会っていたら・・・。
「こんな事件は起きず、被害者を生むこともなかっただろうに」と残念に思えて仕方がありません。
少年側の責任?
・・・そこでちょっと考えて欲しいのです。
そのようなおとなに出会うことができず、うまく成長・発達できなかったのは、はたして少年側の責任なのでしょうか?
こう言うと、「被害者側の気持ちはどうなる?」「やられぞんではないか!」「子どもを甘やかすことになる」・・・などなどのお叱りの声が聞こえて来そうです。
なにひとつ落ち度が無いのに、大切な命を傷つけられたり、奪われたりした被害者の方々にすればまったくもって当然の感情です。被害者の方々が、そのような気持ちをありのままで表現することはとても大事なことですし、生き直すためには絶対に必要なことです。
しかし、こうした感情を周囲やマスコミが煽り、「少年でも厳罰を!」と叫ぶことはどうなのでしょう?(続く…)