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橋下流の強力なマネジメントなど導入しなくても、すでに教育現場には管理・統制が行き届いています。

管理・統制が、教師を追い込み、人と人との関係を分断し、人間らしい情緒的な営みを破壊し、子どもの成長・発達となる教師との関係を奪っています。その結果、子どもが人の痛みに共感したり、生命を尊重したりすることができるような人格に向け、成長・発達できる機会が奪われてしまったのです。

いじめは、このような非人間的な学校教育にむりやり適応を迫られたストレスや苦しさを訴える子どものメッセージです。

そこに産業界の望む人材育成しか頭にない橋下流教育マネジメントが持ち込まれれば、教員も子どもも、今よりもさらに追い詰められます。

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そんな橋下流教育マネジメントを知れば知るほど、「上からの管理・統制を強め、教育委員会を無くし、政治家主導の教育ができるようになれば本当にいじめが無くなるのか?」という疑問が大きくなります。

そもそもなぜ、子どもの世界にいじめが蔓延しているのでしょうか。学校が、教育委員会が保身に走り、いじめの事実を隠蔽することにやっきになっているのでしょうか。

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橋下大阪市長は、知事時代からずっと「教育委員会はいらない」「教育は政治家主導で行われるべき」と主張してきた人です。

それを実現するための手段も選びませんでした。

多くの問題をはらみつつ43年ぶりに復活した全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)も利用されました。この制度を使って、橋下氏がどんなふうに教育委員会を脅し、無力化したのかについては、『暴力の裏に隠された意味(2)』をご覧いただきたいと思うのですが、これを契機に教育委員会は、なし崩し的に橋下氏に従うようになっていきます。

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いえ、過去のいじめ事件のときよりもひどいかもしれません。

これは私の印象に過ぎないのですが、今回の事件が「教育委員会解体論」に吸収されていくように思えるのです。

今の教育委員会の在り方が良いとか、悪いとかの議論はまたの機会にして、「なぜ解体論に結びつきそうなのか」だけを述べたいと思います。

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このKくんの事件後、「いじめ撲滅キャンペーン」が再燃したのは「生まれかわったらディープインパクトの子どもで最強になりたい」との言葉を残して福岡県筑前町の中学2年生の男子生徒(13歳)が自殺した2006年でした。

今回と同様、そのときもこの男子生徒の自殺を受け、その前後に起きていたいじめ自殺についても大きく報道されました。

そして、こうした動きに触発されたように、いじめを苦にしての自殺を予告する手紙が東京都豊島区の消印で届くと、伊吹文明文部科学大臣(当時)や東京都教育委員会の中村正彦教育長(当時)も、アピール等を出し、「決して死なないように」と励ましました。
アピールの詳しい内容を知りたい方は、「いじめ自殺(1)~(3)」の回を読んでください。

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今まさに、私たちの忘れっぽさを象徴する事件が世の話題をさらっています。
「大津いじめ事件」です。

報道では、いじめた少年たちを厳罰に処せとの意見が日を追うごとに増え、さらには「いじめた側の少年への出席停止」の活用が「10年間に全国で23件しかなかった」と言い放つ記事も見られます(いじめた側出席停止、10年で23件)。

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「どんな障害が待っているのか?」と、気になる方はぜひ映画を観ていただけたら、と思います。
ここでは私がなぜ映画『少年と自転車』に興味を持ったかをお話します。

それは、脚本と監督を手がけたジャン・ピエール氏とリュック・ダルデンヌ氏の記者会見の模様を偶然、テレビで見たからです。

「歴史は心的外傷を繰り返し忘れてきた」・・・心的外傷(PTSD)の研究で有名なアメリカの精神科医であるジュディス・L・ハーマン氏の名著『心的外傷と回復』(みすず書房)第1章のタイトルです。

ハーマン氏は、抑圧した辛い記憶が不合理な身体症状や現実感の欠如または記憶の障害(ヒステリー症状)の研究、戦争体験による外傷、女性の性的外傷の研究が、活発に行われたかと思うと、あまりにも激しく忘却されてしまう時期があることを示し、「なぜ忘却されてしまうのか」をここで書いています。

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もちろん、「もらえるものはもらっておかなければ損」と、生活保護にあぐらをかいている人がいるのも分かっています。

「親と縁を切りたい」「配偶者に心を入れ替えて欲しい」などと訴えてくるクライアントさんの周辺に、そういった考えの持ち主がいることも、ままあります。
中には、ほんとうは働けるのに生活保護をもらったうえ、子どもや配偶者などからお金を吸い上げて遊び暮らしている人もいます。

こうした行為自体は、決して許されることではありませんし、きちんと是正されてしかるべきです。

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想像してみてください。

たとえば、幼い自分を置いて家を出て行き、その後、一度も会ったことのなかった母親を、ある日突然「扶養義務があるから引き取りなさい」と言われたら、あなたはできるでしょうか。

虐待され、逃げるように父親から逃れたあなたが「父親の面倒をみろ」と言われたら、すんなりと納得できるでしょうか。

その逆もあります。
離婚した配偶者と共に家を出て、長年音信不通だった我が子が「生活に困っているから」と連絡して来たら、あなたはいくつもの思い出を分かち合って来た子どもと同じように深い愛情を持って受け入れることができるでしょうか。