暴力的な社会(1/7)

2019年5月29日

今年になってから、「少年による事件」について、また「暴力」というものについて、深く考えさせられるニュースがありました。

ひとつは、京都府福知山市の市動物園の猿山に大量の花火を投げ込んだとして、同市内の18歳の少年5人が書類送検されたというニュース。送検容疑は、「1月3日午前6時半ごろ、猿山(26匹飼育)に侵入し、見学通路から柵越しに点火したロケット花火などを投げ入れ、1匹の鼻をやけどさせたこと」でした。

もうひとつは、山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件の差し戻し後の上告審です。最高裁が上告を棄却し、犯行当時18歳1カ月の少年の広島高裁判決である死刑が確定したというニュースです。

少年たちに対して

猿山に花火を打ち込んだ少年らの逮捕を知らせるニュースや情報番組では「命の重さを分かって欲しい」「おもしろ半分で動物を虐待するなど許せない」などという言葉が聞かれました。

また、光市の母子殺人事件では、最高裁は「刑事責任はあまりにも重大で、死刑を是認せざるを得ない」として「少年であることは死刑を回避すべき決定的事情ではない」と述べて無期懲役判決を破棄した高裁判決を踏襲するものとなりました。

これらの報道を見聞きし、「なんて暴力的な社会になってしまったのだろう」とつぶやかずにはいられませんでした。
いずれの場合も、少年らの抱える事情や思い、少年を取り巻く環境などがほとんど考慮されていないように思えてならなかったからです。

命の大切さを唱えても無駄

命を大切にできない、他者の痛みに共感できない最も大きな原因は「自らの存在を大切にされ、その痛みに共感してもらった経験の欠如」です。言い換えれば、自らの命に、自らの存在に価値を認めてもらえた人間は、命を粗末にするようなことなど絶対にしません。

もし、おもしろ半分に猿山に花火を打ち込んだのだとしたら、やはりその裏には「あなたはかけがえのない存在なんだよ」という実感をもらえなかった少年らの悲しみがあると推測してしかるべきです。

自分の命に価値を持たせてもらえなかった少年に対し、「命は大切だ」と100万回唱えても、なんら意味のないことです。(続く…

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Posted by 木附千晶