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宮城県でも同様の気持ちになりました。

私が訪問した地域は地震と津波の爪痕がくっきりと残る宮城県北部。
そこには原発の影響とはまた違う、震災の影響が色濃く見られまました。

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また、農産物の放射線量を測りもしないで県産のものを給食に出す郡山市教育委員会に対しても、多くの保護者が不信感を抱くのは当然のように感じました。

今、郡山市のほとんどの子どもは給食で出された県産牛乳を拒否しており、弁当を持参している子も多いと言います。

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ところで、この8月、今回の東京電力福島第一原子力発電所事故で放出されたセシウムの量が、広島に投下された原爆の168倍にもなることが報じられました。

これについて経済産業省原子力安全・保安院は、
「原爆は熱線、爆風、中性子線による影響があり、原発事故とは性質が大きく違う。影響を放出量で単純に比較するのは合理的でない」(『朝日新聞』8月27日)
と述べていますが、私のような素人にはその危険性がどの程度のものなのか分かりません。

確かに、ただ単純に「原爆より原発の方が影響が大きい」と言うのはうかつな気もします。

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こうした報道を目にするたびに、精神的ストレスの高い社会で、養育能力を育めないままに親になってしまった悲劇を感じます。

おそらく愛情あふれる養育を受けられないままにおとなになった彼・彼女たちは、おとはとは違う子どもという無力な存在の特性や特徴に思いをめぐらすことができず、思い通りにならないその存在をストレスに感じ、かわいがり方も分からずに、「おとなの都合に合わせること」がしつけだと疑わないまま、その幼い命を奪ってしまったのでしょう。

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日本は、13年連続で年間の自殺者数が3万人を超えるほど、生きていくことが大変な国です。
ここ13年間の自殺者数を合わせると約40万人にも上ります。これはなんと、第二次世界大戦で亡くなった民間人の半分もの数字です。

そして、特定非営利活動法人・自殺対策支援センター・ライフリンクによると、未遂者はその10倍。つまり、毎日1000人もの人が自殺を図っているのが日本の「自殺の現実」だと言います。

さらに同ホームページには、日本の自殺者数は交通事故死者数の5倍以上、自殺死亡率はアメリカの2倍でイギリスの3倍、イラク戦争で亡くなった米兵の10倍とも載っています。

果たして戦争がないからといって、今の日本が平和だと言っていいのでしょうか?

もうすぐ終戦記念日です。

毎年この時期になると、戦争や原爆に関するテレビの特番や新聞・雑誌の特集などを目にする機会が増え、自然と平和について考えさせられます。

そして目を覆うばかりの惨状や悲惨な戦争体験、戦後の過酷な環境を生き抜いてきた方々の苦労などに、本当に心が痛みます。

しかし、その一方で「二度とあの悲劇を繰り返さない」と、式典などで述べている政治家や、戦時中と比較して「今の日本は平和である」と言う人々の発言に腑に落ちないものを感じているのも事実です。
こうした意見を聞くたびに思います。

「戦争さえなければ平和なの?」と。

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考えてみれば、私たちカウンセラーは、たとえ震災がなくても、原発事故がなくても、「非常事態」の中でどうにかこうにか生きている人たちと常にお会いしています。

とくに子どもにいたっては、毎日が「緊急事態」という中で、がんばって、がんばって、かろうじて生き延びているケースが少なくありません。

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被災した方々の「現実の問題」の解決には、莫大なお金がかかります。

行方の分からなくなっている肉親を探したり、可能な限り今までと同じ生活を保てるようにしたり、無くした仕事や家、残ったローンの心配をしないようにしたり、将来につながる見通しのある生活を保障したりしなければならないのですから、当然です。

しかも一人ひとりまったく違うニーズを把握してからでないとなかなか前には進めません。
立ち直りまでの生活に膨大な時間がかかる方もおられるでしょう。
何重もの、金銭的、人的支えが必要な場合もあると思います。

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たとえば、「毎晩、津波にのみ込まれる夢を見て眠れない」とか「亡くなった母親のことが頭から離れず、涙が止まらない」というのであれば、それは「心の問題」と考えていいかもしれません。

しかし「いつ自宅に戻るか分からない、先の見えない生活が不安で眠れない」とか「放射能を逃れ、仕事のある夫を福島に残して母親と子どもだけで避難した。以来、気分が塞ぎがち」などというケースはどうでしょうか?

これも同じように「心の問題」と考え、カウンセリングを受けたり、投薬治療をすれば済む話なのでしょうか?

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今回の震災以後に限ったことではありませんが、「心のケア」が、まるで「すべての問題を解決できる魔法の手段」であるかのように喧伝されることに、とても違和感を覚えています。

かつて「スクールカウンセラーの配置」が決まったときにも、

「なぜ毎日多くの時間子どもと接する教員を増やすのではなく、月に数回、限られた時間内でしか子どもに関われないカウンセラーを派遣するのか?」

と疑問に思いました。

このブログの2回目で紹介した高校生が言うとおり、ごく普通に考えれば、ほとんどの子どもは「初対面のカウンセラーよりも、よく知っている先生に話を聞いてもらいたい」と思うはずだからです。