まるで「死の商人」です。
制御する術が確立していなかったことが露呈し、甚大な事故が起きれば損害賠償保険さえ打ち切られてしまう可能性がある原発(福島第一原発 1200億円保険打ち切り)。そんな危険なものを平気で他国へと売りつけることができる神経に、戦慄さえ覚えます。
まるで「死の商人」です。
制御する術が確立していなかったことが露呈し、甚大な事故が起きれば損害賠償保険さえ打ち切られてしまう可能性がある原発(福島第一原発 1200億円保険打ち切り)。そんな危険なものを平気で他国へと売りつけることができる神経に、戦慄さえ覚えます。
もはや、「原発は安全で低コスト、そして環境に優しい」とは、とうてい思えません。
震災から9ヶ月がたとうというのに、福島第一原発では「安全」からはほど遠い状況が続いています。
復旧や廃炉に向けては、少なくとも30年以上はかかるという見通しです(『朝日新聞』11月12日)。
また、フランスの政府関連機関である放射線防護原子力安全研究所(IRSN)は、流出した放射性物質の量は東京電力が試算し公表している量の20倍相当になるとの報告を発表しています(福島第一原発事故-海洋放射能汚染は東京電力試算の20倍相当)。
フロムがかつて『希望の革命』で書いたのと同様、まさに今、日本は分かれ道に立っています。
東日本大震災という大きな悲劇に見舞われ、多くの命が奪われ、建物や地域が崩壊しました。そしてつい最近、政府が「約7万人」としてきたこの震災の避難者が、実は33万にんだったという報告も出されました(東日本大震災:避難者33万人に…仮設入居者など合算)。
こうした現実を前にして、いったいこれから「何を大切にし、何を目指して、どんな社会をつくっていくのか」が問われています。
それは、被災地やその復旧に関してだけの話ではありません。日本全体として、「いったいどんな国をつくっていくのか」を考え直さなければなりません。
『愛するということ』(紀伊國屋書店)に出会って以来、邦訳されているフロムの本は、すべて読みました。
その後も、人生の節目、迷ったり、困難にぶつかったりしたとき、考えに自信が持てなくなったときなど、さまざまなときにフロムの本を手に取っては、指針にしたり、自分の気持ちを確かめたり、気持ちを慰めたりしてきました。
いずれの著書もとても興味深くて大好きです。
が、おもしろいことに、そのときの自分の状況や気分、社会情勢などによって、“しっくりくる”本は変わります。
最近、「しっくりくるなぁ」と思っているのは『希望の革命』(紀伊国屋書店)です。
私が敬愛する研究者の1人にエーリッヒ・フロムがいます。
ドイツの社会心理学者であり、哲学者であり、精神分析を修め、マルクス主義とジークムント・フロイトの精神分析を社会的性格論で結び付けたことで知られ、心理学の教科書では「新フロイト派」とか、「フロイト左派」と紹介されている人物です(ウィキペディア )。
だからと言って子どもに「本当のことを話してごらん」とか「抱えているものを全部はき出さしなさい」と促すことがいいわけではありません。
「『がんばらなくてもいい!』・・・そんな新しい社会へ(4)」でも書いた通り、日々の生活さえままならない避難所や、その延長線上にあるような生活の中で、物理的な支援が圧倒的に足りない中で、心にある感情を出していくことはとても危険です。
虐待などの治療においても、そのまっただ中にあるときには、心の中を探るような踏み込んだセラピーなどはできません。すべてはある程度安全な環境が確保でき、継続的なケアが可能になってから始まることです。
もちろん、津波や地震の被害は虐待(不適切な養育)とは違います。
しかし、それによって子どもが「安全な場を失ってしまう」ということは同じと言えるのではないでしょうか。
おとなを頼らなければ生きていけない子どもには、安心して自分の思いや願いを表現し、そのすべてを抱えてもらえる安全基地(受容的・応答的な関係)が必要です。
しかし、虐待も震災も、その土台を根幹から揺るがします。
生々しい恐怖体験にさいなまれながら、生活の再建に汲々とするおとなを前にした子どもは、すべての欲求を引っ込めるしかなくなってしまいます。
子どもはそうやって徐々に、恐怖や不安、寂しさなどのリアルな感情を封印する術を上手に身につけていきます。そして、だれかを頼ることをあきらめ「自分の面倒は自分で見よう」という決心を固めていきます。
「だれかを頼る」ということは、その相手に自分を預けるということです。それは、不測の事態がいつでも隣にあり、余裕のないおとなしかいない家庭で暮らす子どもにとっては、自分の身を危険にさらす行為とイコールです。
私は、「アルコール依存症家庭で育つ子どもに似ている」と思いました。
災害という子どもにはあらがえない暴力。それがもたらす、先行きの不透明感や構造性の欠如、不測の事態、おとな(親)の無力感・・・そんな日々は、「マクロ」と「ミクロ」の話という違いはありますが、アルコール依存症の家庭をはじめとする機能不全家族の様子と重なります。
アルコール依存の家庭は、暴力、そして非一貫性と予測できない事態で満ちています。
地震、そして津波からの避難。やっとたどり着いた避難先では、ホッとしたのもつかの間。水は瞬く間に建物の1階を飲み込み、大勢の人々が巻き込まれました。
それを目撃してしまった子もいます。押し寄せる濁流と共に、流れ込んで来た遺体に遭遇したという子もいます。水の難は逃れたものの、冷え切った体で低体温症を起こし、亡くなっていく方を見てしまった子もいます。
しかも停電です。灯りも食べ物も無い暗闇に降り積もる雪。体を寄せ合って暖を取る、親しい人の安否さえ分からない長い夜を子どもたちは過ごしました。
「もう3月だというのに、あの日は午後からものすごく冷え込んで、暗くなるのもものすごく早かった」と、現地の方々は口をそろえました。