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子どもが母(養育者)との間につくる情緒的な絆をアタッチメント(愛着)と呼びます。
子どもは、恐い思いをしたり、疲れたり、病気になったり、すなわち危機的状況が高まったとき、守ってくれるおとな(母)に近づくことで、その恐怖を鎮めようとします。

これは未熟な状態で生まれてくる子どもが、生存の可能性を高めるために行う、ごく自然な行為で、心理学用語ではアタッチメント行動と呼びます。

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それぞれの意味をちょっとネット辞書で調べてみました。

「しがらみ」の意味を調べると、

1)水流をせき止めるために、川の中にくいを打ち並べて、それに木の枝や竹などを横に結びつけたもの。
2)引き留め、まとわりつくもの。じゃまをするもの

とあります。

また、「支配」は

1)ある地域や組織に勢力・権力を及ぼして、自分の意のままに動かせる状態に置くこと。
2)ある要因が人や物事に影響を及ぼして、その考えや行動を束縛すること。
3)仕事を配分したり監督・指揮したりして、部下に仕事をさせること

と書かれています。

一方、「絆」はというと

1)人と人との断つことのできないつながり。離れがたい結びつき。
2)馬などの動物をつないでおく綱

となっています。
(いずれもgoo辞書やyahoo辞書等を参考にしたものです)

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本当の意味で自然を守る心を育て、環境破壊を止められる人間になるためには、実際に自然に触れ、その厳しさや大らかさを実感した上で、「なぜ、そしてだれが、この自然を破壊してきたのか」を知る必要があります。

平気で汚染物質を自然の中に垂れ流して利潤追求してきた(いる)人々が今もいること、国もそれを後押しする政策を取り続けてきた(いる)ことを学ばなければなりませんし、真に地球の環境を守りたいのなら、「環境に優しい」製品開発のためにどれだけの自然が壊されてきたのかを理解する必要があるのです。

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考えてみてください。

もし心に染みこむコミュニケーションがある、安心と自由に満ちた家族で育ったおとなが多くいるのだとしたら、『ミタ』に象徴される“現代版の絆”などを必要とする社会になっていたでしょうか。

「無縁社会」だの「孤独死」だのというものがめずらしくない世の中になっていたでしょうか。
親類縁者に囲まれた故郷を「窮屈だ」と感じ、干渉されない都会を目指す人間を生んだでしょうか。

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一方で、「家政婦のミタ」(日本テレビ)という、ほのぼのとした家族や従来からイメージされている絆の概念とは真逆をいくようなテレビドラマが高視聴率を得ました。
そのヒットの裏には、「かねてからある『絆』というものへのうさんくささを感じている層に訴えたのではないか?」との意見もあります。

たとえば、2011年12月23日付けの『東京新聞』では、同番組が描いたものを「家族崩壊後の現代的絆」と紹介し、「(略)ほのぼのとしたドラマだとうそっぽい。簡単には解決しない状況の中で、それでも希望を見いだしたいという視聴者の気持ちに沿う筋立てだったのでは」と、藤川大祐・千葉大教授のコメントを紹介しています。

また、稲増龍夫・法政大教授は同記事で「震災後、ある意味『絆』が求められたが、それは昔に戻ることなのか、と疑問に思う人もいる。昔の親子関係や絆が崩壊したといわれる今、心の中に染みこんでくる昭和のコミュニケーションとは違う、優しくないミタのオウム返しは極めて現代的」と語っています。

新年、明けましておめでとうございます。

このようにブログでご挨拶していただくのも、「新年のご挨拶も、もう何度目になったのか・・・」と考えてしまうくらい、IFFでブログを書かせていただくようになってから長い時間が経ちました。

ずっとおつきあいくださっているみなさん、また、最近になってご覧いただくようになったみなさん、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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想像力・創造力を失い、型にはまった考え方しかできない例は、たとえば「指示まちくん」などと揶揄される「ゆとり世代」に象徴されているかもしれません(「ゆとり世代」の若者を批判する論調には異論がありますが、今回は触れません)。

一方、健康上の問題は13年間も続いている年間3万人の自殺や、うつ病などの気分障害の患者数の増加などに見て取れることでしょう。
1996年には43.3万人だった総患者数が2008年には104.1万人となり、9年間で2.4倍にまで増加しています。さらに、2009年の20代〜30代の死因トップは自殺で5割を超えていますが(『平成23年版自殺対策白書』)、その実態は気分障害の増加がもっとも多いのは30代というデータとも重なります(『社会実情データ図録』)。

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そんな社会では、ひたすら個性を殺し、自ら進んで「長いものに巻かれる」ことで生き延びるしかありません。多様性のある価値観も、生き方もできようはずがないのです。
一昔前よりも多様化が進んだものといえば、働き方くらいなものでしょう。しかしそれも、ある労働組合の方は、こんなふうに断じていました。

「よく、派遣や契約、アルバイトなど、正社員だけでなくさまざまな選択ができるよう『働き方が多様化した』と言う人がいますが、それは違う。経営者の、大企業の都合に合わせて『働かされ方が多様化した』だけです」

今や、非正規で働く男性は539万人で労働者全体の19%、女性では1218万人で女性雇用者の54%を締めています(2011年12月9日『朝日新聞』)。日本の従業員約27%がパートタイム労働者になりました(2011年12月15日『東京新聞』)。年収200万円以下の所得者層が1000万人を超え、低所得者(07年調査では114万円)を示す相対的貧困率は16.0%にも達しています。

不安定雇用を強いられる人たちが就いている仕事の多くは、自分らしさや創造性を必要としないマニュアル化した仕事。流れ作業のように仕事を“こなし”、不平不満があってもおとなしく飲み込んで会社の歯車のような働き方を強いられる仕事。自分らしく意見を述べれば、すぐにクビを着られるような仕事。効率性や経済性だけを追求させられる仕事。

つまり、人として働く意欲や意義を持ちにくい非個性的で非人間的な仕事ばかりです。

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このフロムの言葉は、ともすると日本の状況を現すときに昨今よく使われる「多様化した社会」とか「個性化の時代」などとは真逆の言葉のようにも聞こえます。

多くの人が、今の日本社会は自由に人生を選び取り、さまざまな個性に応じて生きて行けると思わされ、私たちは自由で公平な社会に生きていると錯覚しているからです。

現実を見れば、今の社会がマニュアル主義になっていること、個人よりも組織の判断が優先されていること、ひとりひとり違う人間存在(個性)よりも効率性が重視されていることは、明らかです。

一見、自由に見えるけれども、そこにはいつも選ぶべき答えが用意されており、それ以外の選択をすれば、その組織の中枢からはじき出されます。
「何を言ってもいいんですよ」というタテマエを信じて本音を語れば「空気の読めない人」として排除されていくのです。
しかもそうして片隅に追いやられ、たとえば“負け組”に入ったとしても、それは「自己責任」として、その当人が引き受けることとされます。

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フロムは言います。

「現在のシステムの中で働いているすべての人間の努力や思考を導く原理はふたつあり、システムはその線にそって動いてゆく。

第一の原理は、何かをすることが技術的に可能であるから、それを行わなければならないという原理である。核兵器をつくることが可能なら、たとえ私たち皆が破滅することになっても、それは作られなければならない。月や惑星に旅行することが可能なら、たとえ地上の多くの必要を満たすことを犠牲にしてでも、それはなされなければならない。

この原理は、人間主義(ヒューマニズム)の伝統が育ててきたすべての価値の否定を意味する。この伝統においては、何かをしなければならないのは、それが人間にとって、また人間の成長、喜び、理性にとって必要だからであり、またそれが美であり、善であり、あるいは真であるからであった。

何かが技術的に可能だからしなければならないという原理がいったん受け入れられると、他のすべての価値は王位を奪われ、技術的発展が倫理の基礎になる」
(『希望の革命61ページ』)