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 私は常々、「私をはじめ、人間はみな完璧な“純金製”になれない金メッキ」と思っています。

 確かに理論上は、“純金製”の人間・・・あらゆる能力を備え持ち調和が取れたバランスのいい人格者を育てることはできるはずです。

「包まれているものを出現させる」という発達(Develop)の語源によれば、「人は“人として”豊かに生きるために必要なすべての能力を持って生まれてくる」わけですから、あとは「その包まれている能力をきちんと表出させてくれる環境(親)」があればいいだけです。

 これは子どもの成長・発達を保障するための世界的な約束ごとである「子どもの権利条約」の29条:教育の目的(子どもの人格・才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること)にも通じる考え方です。

このシリーズの最初の記事へ さてさて「日本礼賛」についてです。

自分が生まれ育った国、属する国に愛着を持つことは人間ならば当然です。母国ならではの良さもよく分かっています。そんな母国の文化に誇りをもつことも至極最もなことです。
でもそれはが「母国が一点の曇りもない、何一つ恥じることもない、素晴らしい国だから」なのだとしたら、これはけっこう危険な話です。

このシリーズの最初の記事へ それにしてもなぜ、こうした「白黒思考」になってしまうのでしょうか。身も蓋もない誤解を呼びそうな表現ですが、一言にまとめれば「そのほうが楽だから」でしょう。

私自身そうですが、人は易きに流れます。
「グレーゾーンに立つ」ということは、「宙ぶらりんのままでいる」ということです。これはなかなか居心地が悪い状態です。この世に存在するあらゆるものは安定を求めます。「どうにかして早く安定感のある場所に落ち着きたい」と思います。

そのうえ今の社会は人を急がせます。「少しでも早く」「できるだけ最短」で、「結果を出す」ことが求められます。
迷ったり、戻ったり、「間違えたかな」と立ち止まることは、「よし」とされません。

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このような振り幅の大きさは、柔軟性を欠いた窮屈な生きづらさにつながることがあります。
「こうでなければならない」という絶対思考やグレーゾーンや中間的な価値のあり方を許さない「0か100か」の思考、または現実検討能力を著しく低下させてしまう危険を呼び寄せてしまうことにもなりえます。

世の中には「完全な悪」もなければ、「完全な善」もありません。神様や仏様なら別でしょうが、あらゆる人間には善的な部分と悪的な部分があります。人間だけでなく、この世に存在するものすべては矛盾をはらんでいるものです。

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そんな日本の伝統や文化を愛する私ですが、年末にちょっと考えさせられる新聞記事を読みました。

「『日本スゴイ』ブームを切る」という、『東京新聞』(2016年12月23日)の記事です。
ネットなどでも話題になったようなので、ご覧になった方も多いかもしれませんが、今、改めて読もうとしても残念ながら『東京新聞』のウェブサイトでも全文は掲載されておりません。

新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。引き続き、このブログにおつきあいいただけると幸いです。

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同書を読んでいると「自己効力感」よりも、むしろ「自己肯定感」の高さが町民気質を左右しているように思えてなりません。

たとえば、「ありのままの自分に価値がある」と思えるからこそ、他者の価値観や支配に左右されず、きちんと自分を守りながら、自分の価値観に基づいて自律的に世の中を生きていくことができるようになります。

それは海部町の学歴や社会的地位に惑わされることなく、「その人物そのものを見る」という「自殺予防因子ーその二 人物本位主義をつらぬく」に通じるものを感じます。

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自己効力感の提唱者・バンデューラは、この「自分はできる!」という感覚を高める要素として次のようなものを挙げています。

(1)遂行行動の達成(実際に行動したことの成功体験)
(2)代理的体験(自分が行おうとしている行動をうまく行っている他者の観察)
(3)言語的説得(自己教示や行おうとしている行動を優れた他者から評価されること)
(4)情動的喚起(生理的な反応の変化を体験してみること)

なるほど、なるほど。ですが私にはもうひとつ、いちばん大切なものが足りないように思います。
それは「自己肯定感」です。

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そんな子どもたちの状況から察するに、今の日本はとても閉塞的で画一的な社会になってしまっているということなのでしょう。

そう考えると、今までにご紹介した海部町の「いろんな人がいた方がよい」や「『病』は市に出せ」という予防因子が、それも自然発生的に成立していることは驚くに値します。

どうしてそんなことができたのでしょうか?

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「韓国の子は『私はこう思う』とか『あなたはこうだよね』とか、はっきり言ってくれるから安心してつきあえる。日本の子たちは、表面上は楽しそうにつきあっている子のことを影では悪く言ったりするし、本音を見せないから何を考えているのか分からなくて怖かった。会話していても『本当はどう思っているんだろう?』っていつも探るような感じで疲れてしまった」

こうした日本の学校、友人関係における息苦しさは、学校に行くことが難しかったり、「人の目が気になる」という悩みで来室される10代のクライアントさんから、最近もよく聞きます。

いえ、もしかしたら最近の方がずっと多いかもしれません。