前に紹介した5つの自殺予防因子の中で、どういうことなのかよく分からないものに「その四 『病』は市に出せ」があります。
一言で言ってしまえば、「たいへんなことを一人で抱え込まない」ということのようです。
病気はもちろんのこと、家庭内のトラブルや事業の不振、あらゆる問題を「公開の場に出せ」ということだそう。
自分だけで抱え込まず「市に出せ」ば、「この薬が効くだの、あの医者が良いだのと、周囲が何かしら対処法を教えてくれる」(73ページ)というのです。
前に紹介した5つの自殺予防因子の中で、どういうことなのかよく分からないものに「その四 『病』は市に出せ」があります。
一言で言ってしまえば、「たいへんなことを一人で抱え込まない」ということのようです。
病気はもちろんのこと、家庭内のトラブルや事業の不振、あらゆる問題を「公開の場に出せ」ということだそう。
自分だけで抱え込まず「市に出せ」ば、「この薬が効くだの、あの医者が良いだのと、周囲が何かしら対処法を教えてくれる」(73ページ)というのです。
私の意見はさておき、本題に戻りましょう。
同書には、すべて紹介してしまいたいくらい、ユニークなエピソードがいっぱい詰まっていいます。
前回紹介した自殺予防因子「その一 いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい」という、いわゆる「多様性を重視する」傾向を伝える話としては、現在でいうところの中高を卒業した年頃の主に男子が入る江戸時代発祥の相互扶助組織についても書かれていました。
こうした相互扶助組織はかつてあちこちに見られました。でも、他の地域は状況は旧海部町とはかなり事情が異なっています。簡単に言うと、他の地域では先輩後輩の上下関係が厳しかったり、さまざまな規則があったりするかなり窮屈な組織でした。
さっそく本を購入してみました。
いずれの章も興味深く読んだのですが、とくに惹かれたのは「町で見つけた五つの自殺予防因子ーー現地調査と分析を重ねて」(第二章)でした。
著者は、第二章を
(1)自殺予防因子ーその一 いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい
(2)自殺予防因子ーその二 人物本位主義をつらぬく
(3)自殺予防因子ーその三 どうせ自分なんて、と考えない
(4)自殺予防因子ーその四 「病」は市に出せ
(5)自殺予防因子ーその五 ゆるやかにつながる
という自殺予防因子となる要因ごとに分けて書いているのですが、そこに出てくる町の人々のエピソードが、とってもユニークでした。
前回は、「命を破壊するほどまでに過酷な環境」について書きました。
そのような緊張にみちた環境にいると、生物はだれかの命を奪ったり、自らの生命を絶つというリスクを負いやすくなるのではないか? という疑問があったからです。
今回はまったく逆の環境。つまり、「生き心地のよい環境」について書いてみたいと思います。
でも、そこでまた疑問もわきます。
フロイトの理論によれば、生物(人間)には、「いきいきと生きたい」という「生の本能」もあります。通常、私たちはそのふたつの本能のバランスをとって生きているわけです。
・・・だとすると、前回までのブログで書いたさまざまな事件の容疑者とされる人々は、そのバランスが崩れてしまったのだと考えられます。「人と一緒にするな!」と怒られそうですが、水族館のマグロもそうかもしれません。
ではなぜバランスが崩れてしまったのでしょうか? 何がそのバランスに影響を与え、「生の本能」よりも「死の本能」を優勢にしてしまったのでしょうか?
前回挙げた秋葉原事件だけでなく、2001年に大阪教育大学付属池田小学校で起きた小学生連続殺傷事件や2008年の土浦8人殺傷事件について、IFF CIAP相談室の斎藤学顧問は次のようなコメントもしています。
「あの事件は、一人では死に切れなかった男が『被害者たちという道連れを手入れてようやく果たした自殺』だったように思う。彼のように無条件に愛され、尊重された経験のない子ども時代を過ごし、今も歯止めになるような他者がいない環境は人を犯罪に向かわせやすい。昨年3月に土浦で起きた八人殺傷事件や6月の秋葉原事件などの被疑者・被告人にも共通している」(『週刊金曜日』2009年5月15日号)
「祭りがうるさい」と感じる人は、少なからずいるでしょう。
でも多くの場合、そうは思っても火炎瓶など投げつけません。その行為がいったいどんな代償を自分にもたらすのか、十分に予測がつきます。
だからどうしても耐えられないならば、その時間を別な場所で過ごすなど、不快感を回避する行動を取るはずです。
それなのになぜ、この男性はそうすることができなかったのか。火炎瓶らしきものを人々に投げつけた後に、自殺という最悪の幕引きを自ら選んだのか。
「死人に口なし」で、その本当の理由は推測するしかありません。でも私には、「死ぬための最後のきっかけ」を探していたのではないかという気がしてならないのです。
その生物に適した環境、生きるのに必要とするものから離れた下での適応を迫られると、異常行動を起こすことはよく知られています。
動物園や水族館の生き物だけでなく、ペットにも同様のことが起きます。自ら毛をむしってしまったり、尾をかんだり、自己破壊に走ったり、攻撃的になって飼い主に危害を加えるなどの話は珍しくありません。
「猫の次はマグロ」・・・。
なんだか動物シリーズのようになっていて恐縮ですが、やれ「オリンピックだ」、「甲子園だ」と、華々しい話題が多い昨今、とってもやるせない気持ちになった記事があったので、ちょっと書かせてください。
「葛西臨海水族園で2014年11月以降に発生した謎の大量死を乗り越え、ただ一匹生き残ったマグロが死んだ」 という2015年8月3日付の『朝日新聞』に載っていた、わずか25行程度の小さな記事です。
謎の大量死というアクシデントを乗り越え、「奇跡のマグロ」と呼ばれたそのマグロの死因は、水槽への衝突だったそうです。
同記事には「目の前を横切った別の個体につられるように突然速く泳ぎ出し、水槽に衝突」と書かれ、「7月中旬から2週間ほどえさを食べない異変が見られた」とも記されていました。
それからもう一つ考えられるのは、「犬に比べると猫の方が手がかからないから」ということではないでしょうか。
もちろん猫も、遊んであげたり、ゴハンをあげたり、体を清潔に保ってあげたりと世話が必要です。
しかしどちらとも一緒に暮らしてきた私の経験上、犬に比べるとずーっと楽です。犬は健康を維持してあげるため散歩に行かなければならないし、大型犬の場合、トイレを外でしたがる傾向にあるので、決まった時間に外に連れ出してあげなければなりません。
猫のように自分でグルーミングしませんから、シャンプーは欠かせないし、ブラッシングもしてあげなければなりません。
何より、猫よりも感情表現がストレートなので「あれして!」「これして!」という要求もストレートです。それに応えてあげるのは、けっこうなエネルギーがかかります。