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1998年に行われた子どもの権利条約に基づく第一回目の国連「子どもの権利委員会」による日本政府報告審査のとき、すでに「過度に競争的な教育制度が子どもの発達を歪めている」という衝撃的な勧告を受けた日本。
残念ながら、この国連からの指摘を真摯に受け止め、根本的に改められることはありませんでした。

いえ、それどころか前回のブログに書いた教育改革国民会議(2000年)以降、「国際競争に打ち勝つ人材育成」を全面に押し出した教育制度、あらゆる領域を金儲けの対象とする聖域無き構造改革が子どもと、子どもの周りにいるおとなたちを襲いました。
グローバル化する世界経済のなかで格差社会が到来し、だれもが競争のレースに乗せられる時代が幕を開け、それに合わせた教育が始まったのです。

表面上はあいかわらず「ゆとり教育」という名前を冠し、競争とは相容れない教育を行っているという顔を装いながら・・・。

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いったいいつから、日本の子どもはこんなにも忙しくなってしまったのでしょうか。

もちろん、教育基本法の「改正」(2006年)や全国学力・学習状況調査の再開(2007年)など、第一次安倍政が果たした役割は大きなものでした。だけど振り返ってみれば、道筋を決定づけたのは「郵政事業の民営化」で有名な小泉構造改革(2001~2006年)だった気がします。

同改革は「聖域無き構造改革」とも呼ばれたように、それまでは「人が人らしく生きるために不可欠」として守られていた教育や福祉などについても「官から民へ」、「市場にできることは市場で」と、市場開放を進め、市場原理に基づく制度改革を本格化させました。

誤解を恐れずに乱暴に言うのであれば、「すべては金で買うもの」の社会へと大きく舵を切ったのです。

企業は国の「規制緩和」を追い風に「社会貢献」を理由にしながら、子どもの成長・発達にかかわる保育や公教育などの分野に入り込み、お金儲けができるようになりました。

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子どもたちが急がされているのは、毎日の生活の中だけではありません。

私が子どもの頃、受験と言えば高校受験からが一般的でした。もちろん、当時も中学校や小学校に入るために受験しようという人はいましたし、私立の有名大学には幼稚舎から付属になっているところがありました。
でも、多くの人は「中学までは公立で」という考え方だったのではないでしょうか。

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私が子どもたちの異常な忙しさを感じるようになったのは、震災後です。

次回、子どもの権利条約に基づいて行われる国連「子どもの権利委員会」での日本政府報告審査で意見表明をしたいと思っている小中高生の子どもたちと接するようになったことがきっかけでした。

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「新学習指導要領をいち早く先取りした」(静岡県吉田町の浅井啓言教育長)とはどういうことなのでしょうか。

『朝日新聞』(2017年7月27日)によると、2020年に実施される新指導要領では、小学校中学年で「外国語活動」、高学年で「英語」が導入されることもあり、授業時間数が今と比べて年35時間増えるそうです。各自治体は、その時間を捻出しなければなりません。

今回の吉田町が行った「夏休み16日間に短縮」はその選択のひとつでした。

同記事によると、吉田町の夏休みは08年度までは全国でも標準的な39日間だったのに、今の指導要領で授業時間数が増えたため、10年度には30日前後まで短縮となったそうです。
今年度はさらに短くなって小学校は23~24日間、中学校は29日間まで短縮。そして来年度にはお盆前後に10日間程度を休みにし、そこに週末の休みを加えて「16連休」とする予定だということです。

8月に入っていよいよ夏本番。夏休みムードも高まってきました。みなさんは、「夏休み」と聞くと、どんなことを思い出されますか。

私が思い出すのは、自由研究や日記、感想文や絵画などの宿題。それからラジオ体操でしょうか。

もう時効なので、正直に書いてしまいますが、夏休みの宿題が出されると「どうやって楽して仕上げるか」を考えたものです。
とくに毎日継続してやらなければならない日記やお天気記録は大の苦手だったので、日記は「1週間分まとめて書いてしまえ」と適当に書きちらし、天気のほうはまじめに毎日付けていそうな子にあらかじめお願いしておき、夏休み終了間近に写させてもらっていました。

ラジオ体操は、出席した日に判子をもらうという仕組みだったので、「昨日、もらい忘れちゃった」などと嘘をつき、ちょっとだけズルをしたりしながら、とにかく夏休みは「朝寝坊してめいいっぱい遊ぶ!」ということに意欲を燃やしていたような記憶があります。

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そもそも子どもに何かを教え込もうとか、しつけようとか、指導しようということ自体がナンセンスなのです。

「develop(発達する)」の語源は、de(取り除く)+velop(包む:ラテン語のvolvoから派生)。つまり、人間として生きるためのあらゆる能力を秘めてこの世に生まれてくる子どもが、その内に秘めた能力を表出させることを「発達する」と言います。

それは「education(教育)」の意味ともリンクします。educationはラテン語のeducare(大きくする)とeducere(引き出す)の二つから成っています。ここからも分かるように教育というのは、子どもが生まれながらに持っている能力の発現を待ちながら、その能力が活かせるよう引き出してあげること。それが教育の本来あるべき姿です。

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近年の愛着(アタッチメント)理論を中心とする研究結果や子どもの権利条約の内容を含めてよく考えれば、「カーリングペアレントがなぜダメなのか」も、ちょっと意味合いが変わってくるように思えます。

世の中一般で言われているように、「子どもは厳しく育てるべき」で「苦労は買ってでもさせた方が良く」て、「子どもの意見など聴いていたら親の言うことを聞かなくなる」から、カーリングペアレントが問題なわけではないでしょう。

そうではなく「先回りして障害物を取り除こうとする」ことで、「子どもの欲求をつぶしてしまって」、結果的に「子どもへの応答性を忘れて親の思い通りに子育てしようとする」から、問題なのです。

続く…

そしてこの12条は、心理学的に考えれば「子ども自らが安定した愛着関係を築くことを可能にする」という点で、画期的な権利です。

子どもは、自分の欲求に応えながら世話をしてくれる親との間に、愛着関係を築いていきます。この関係性は子どもに安心感をもたらし、自己肯定感と呼ばれるものと同時に、「困ったときには世の中は自分を助けてくれる」という基本的信頼感も育てていきます。

こうした安全感をもたらしてくれる関係性は、安全基地として子どもの心のなかに取り込まれていき、やがては目の前に親がいなくても、不安やおそれを感じずにやっていけるようになります。多少のトラブルがあっても、心のなかにある安全基地でエネルギーを充填し、困難に立ち向かって行くことができるようになっていきます。

子どもの欲求を受け止め、応えるという関係性は、子どもの権利条約が前文でうたい「調和の取れた人格の形成」に不可欠なものなのです。

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でも、それはおかしな話ですよね。そもそもなぜ子どもの権利条約という、「子どものための権利」、「子どもの成長・発達を支えるための国際的な約束事」ができたのかと言えば、まだおとなのようには自分を守ることができない、いろいろな意味で力(能力)が未熟な子どもという存在に対して、特別な力を与える必要があると考えたからです。

しかも子どもは、幼ければ幼ないほど非力ですから、より権利(特別な力)が必要になります。つまり、条約が言う未成年(18歳未満)のなかで、最も権利を必要とするのは生まれたての赤ん坊のはずです。それなのに、乳幼児が蚊帳の外に置かれてしまうような解釈ではまったく意味をなしません。