昨年末、このブログで国際的な「子どもの成長・発達のための約束ごと」である子どもの権利条約にもとづいた日本政府報告審査に向け、「自分たちの現状を訴えよう」と8人の子どもが国連「子どもの権利委員会」に『子ども報告書』を提出したということを書きました。
そのときに引用した「多様性を認めない学校には行きたくない」とのタイトルの『子ども報告書』を書いた男の子は、「扱いづらかったり、自分の意見を持って発言したり、授業がつまらないから勉強に身が入らないでいたりすると、すぐに『発達障害』にされる」と、昨今の学校現場の風潮を述べていましたが、異質なものを排除しようという傾向は今にはじまったものではありません。
日本の学校教育では、昔からずーっと差別というものが、歴然と存在し続けてきました。

「『どのくらいの量を食べたいか』とか『トッピングに何がのってるところが欲しい?』など、一人ひとりの子どもに聞いていくのです。たとえば『どうしてもいちごが食べたい』という子には、『じゃあ、その分、スポンジは他の子が多くてもいいかな』と尋ねたり、『デコレーションされている人形のチョコレートが食べたい』と言った子には、『今回はあげるから、次回はお友達に譲ってね』などと言いながら、『一人ひとりの子どもが望むように、なるべくみんなが納得するようにケーキをカットして配ることこそが平等である』と、その保育園では教えていました」(園長先生)
そんなふうに平等について考えていて、ふと、子どもの権利条約の講演でご一緒した、ある保育園の園長先生にうかがった話を思いだしました。
東京では桜が満開を迎え春本番。卒業式が終わり、入学式も間近になってきました。
そんなふうに親も子も・・・とくに子どもは生まれたときから「みんなと同じ」に過ごすようにとされて行くわけですから、知らず知らずのうちに同調バイアスに縛られてしまうこともうなずけます。
子どもたちを縛る同調バイアスがいかに苦しいものか。・・・2010年の第3回日本政府報告審査時に国連「子どもの権利委員会」でプレゼンテーションをした子どもが語ったことからも明らかです。
津波が来ると聞きながらも、おとなしく渋滞の列に並んでいた人々。
311直後には、こうした日本人のきまじめさ、規範意識の高さが、たびたび海外メディアにも取り上げられました。
東京が「4年ぶりの大雪に見舞われる」と天気予報が告げた日、最寄りの駅に行くと「緊急のお知らせ」という立て看板が置かれていました。通常は、人身事故で周囲の関係各線が止まったときなどに出るものです。