・・・まぁ、そうは言っても「歌詞には、夢や希望、頑張りや前向きさを盛り込むのが一般的なのかもしれない」とも思い、またまたネットで調べてみました。するとちゃんと歌謡曲の歌詞を分析する研究をしている研究者の方がおられ、いくつかの論文を見つけました。

 たとえば「流行歌から見る歌詞の年代別変化」(PDFファイル)(大出彩/立命館大学文学部、松本文子/神戸大学自然科学系先端融合研究環、金子貴昭/立命館大学衣笠総合研究機構という論文は「1997年を境にして、年代を追うごとに明るい(ポジティブな)内容の楽曲が増えた」といいます。

 今年もまた新年の挨拶もすまないうちに松の内が終わってしまいました。関西地方では15日までをお正月と考える地域も多いそうなので、なにとぞご容赦ください。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 今年はいったいどんな年になるのか。いえ、これから日本は、世界はどんな時代になっていくのか・・・。年末年始のニュースや、番組等を見ていても考えさせられることが多々ありました。

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投薬の対象とされることが増えているのは、不登校の子どもに限りません。学校、つまり日本の教育制度に合わない子どもたちへの投薬治療は全体としても増加しています。

前回、引用した「多様性を認めない学校には行きたくない」という男の子の『子ども報告書』にも「扱いづらかったり、自分の意見を持って発言したり、授業がつまらないから勉強に身が入らないでいたりすると、すぐに『発達障害』にされる」との記述がありましたが、埼玉県在住の専門学校3年生の女の子もまた、虐待の疑いで母親と引き離された後、精神的に不安定になって「家に戻りたいと暴れたら薬を飲まされた」と『子ども報告書』に記しています。

大好きなお母さんと引き離され、暴れずにいられるほうがどうかしています!!

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 日本の学校が「多様性を認めるもの」になっているかどうかも、はなはだ疑問です。東京在住の中学2年生の男の子は、国連に提出した『子ども報告書』に「多様性を認めない学校には行きたくない」とのタイトルで、次のような主旨の文章を書きました。

日本の学校では、苦手だったり、恥ずかしかったり、やりたくないことを無理やりやらされます。いいところは褒めてくれず、悪いところばかりが取り上げられます。先生に何か意見を言うと「態度が悪い」と言われます。扱いづらかったり、自分の意見を持って発言したり、授業がつまらないから勉強に身が入らないでいたりすると、すぐに「発達障害」「特別支援学級に行け」と言うのです。そんな日本の学校はおかしいと思います。

 上記は男の子が書いたダイジェスト版です。その全文および『子ども報告書』全体を読みたい方は、ぜひ子どもたちをジュネーブ派遣するためのファンドレイジングにご参加ください。リターンのひとつとして『子ども報告書』が届きます。

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日本の子どものことを憂い、前回、紹介した通り「競争と管理、暴力にあふれたなかで、子どもが自分の思いや願いを出せる人間関係を持てず、子どもの発達に深刻な影響が出ている」との『最終所見』を示してくれている国連に対し、日本政府はずっと真摯に向き合うということをしてきませんでした。

たとえば過去の報告書では、「前回、国連に提出した報告書を参照」と記述することがよくありました。本来であれば、「前回の報告審査で国連が指摘した内容にどう取り組んだか、もしくは取り組めなかったかをきちんと検証する」べきなのに、「前にも書いたことだから省略する」というような対応を平気でしてきたのです。

そうした前科がありますから、第4・5回日本政府報告書でも同様のことくらいはあるだろうと予想していましたが、今回はもっと挑戦的でした。

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 この子どもの権利条約に基づく日本政府審査に際して、私が運営委員を務めるNGOでは今回を含めて4回のカウンターレポートを国連に作成・提出してきました。
 以下にそのタイトルを並べてみます。

『“豊かな国”日本社会における“子ども期”の喪失』(第1回)
『子ども期を奪われた日本の子どもたち』(第2回)
『新自由主義社会における子ども期の剥奪』(第3回)
『新自由主義体制の中で自分らしさと他人への思いを奪われる子どもたち』(第4回)

 こうしてカウンターレポートのタイトルを概観するだけでも、日本の子どもたちが、子どもらしく生きる時間や機会を持てず、機能不全の家庭(家族)・社会で育っていることが分かります。

 それは、この日本という国がおとなとは違う、「子ども」という存在を無視した、子ども不在の国であるということではないでしょうか。

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今の日本の状況を見てみると、親というよりもこの社会・・・つまり国そのものが機能不全に陥っているように見えてなりません。

子どもが子どもらしく甘えたり、のんびりしたり、つまずいたりしながら時間をかけて成長・発達するような国になっていないどころか、より積極的に「おとなになる途上にいる存在である」という子どもの特性を無視し、子どもの思いや願いを潰し、成長・発達できないようにしている気がしてなりません。

それは2017年6月に子どもの権利条約に基づいて日本政府が国連「子どもの権利委員会」に提出した第4・5回政府報告書を読んでも明確な感じがします。

もう10年も前の話になりますが、ある週刊誌で『子どもはもういない』という帯タイトルで連載をしていたことがあります。

おとなに見守られながら、子どもが「子どもらしく」のんびりしたり、わがままを言ったり、失敗したり、つまずいたりしながら、時間をかけて大きくなっていくことができない日本社会の実態をさまざまな側面から切り取った連載でした。

たとえば、前回までの「急がされる子どもたち」でも書いたように、①幼いうちから「賢い消費者たれ」と、お金の使い方や増やし方、働き方を習わされる現状(市民化教育)が行われていることや、②親や支え手のいない子どもがとにかく自分で稼いで「自立」するよう強いられていること、③お金のかかる障害児教育や養育への公共投資がどんどん減っていることなどなどを取り上げていました。

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一方で、市場での自由競争を信奉し、経済活動を最優先とする市民(消費者)づくりのための仕組みづくりも整えられていきました。
「総合的な学習の時間」などを窓口に、企業はキャリア教育や社会貢献(CSR)と称して堂々と学校の正門から出入りできるようになったのです。

そうして、大手金融機関による株式投資などの金融教育、子どもが大好きなジャンクフード会社が行う食育、電話会社による携帯電話の安全な使い方教室・・・挙げればキリがないほど、「市民教育」という名のさまざまな消費者教育が行われるようになりました。

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「夜スペシャル」を導入した民間人校長は、当時、学校のホームページで「100万円単位のお金をかけられない家庭では、上位の高校にチャレンジすらできなかった。(略)和田中では月1万円出せば、3年生までに上位校を受験するチカラがつく。これこそ、完全ではないが『公平』な教育機会の提供だ」と語っていました。
「お金がある者と無い者が存在する格差社会は当然である」という考えがあるからこその発言です。

そんな元校長に同意し、東京都杉並区立和田中学校が学習塾・サピックスと提携してはじめた有料の「夜スペシャル」を肯定することは、「格差社会を是認する」ことになります。

お金が「ある」「なし」で、受けられる教育が変わってしまう。・・・それは教育格差が当たり前になるということです。それは必ず、世代間を連鎖して経済格差につながり、極端なお金持ちと、生活ぎりぎりの人が暮らす社会をつくっていきます。

それにもかかわらず、多くの日本人がこの状況を歓迎したのです。その状況に、私はとてつもなく大きな衝撃を受けました。