日本礼賛と金メッキ(3/7)
このような振り幅の大きさは、柔軟性を欠いた窮屈な生きづらさにつながることがあります。
「こうでなければならない」という絶対思考やグレーゾーンや中間的な価値のあり方を許さない「0か100か」の思考、または現実検討能力を著しく低下させてしまう危険を呼び寄せてしまうことにもなりえます。
世の中には「完全な悪」もなければ、「完全な善」もありません。神様や仏様なら別でしょうが、あらゆる人間には善的な部分と悪的な部分があります。人間だけでなく、この世に存在するものすべては矛盾をはらんでいるものです。
たとえば子育て中の親は
たとえば子育てまっただなかの親のことを考えてみてください。
多くの親にとって、子どもは目に入れても痛くないほどかわいいものですし、「この子の幸せのためなら何でもしてあげたい」と、自分のエネルギーをせっせと子どもに差し出したいと思う気持ちに偽りはないでしょう。
けれどもその一方で、親の都合や状況もわきまえずに泣きわめいたり、出勤直前におむつを濡らしたり、寝る時間も、食べる時間もうばって好き勝手に振る舞ったりする子どもの面倒をみていれば、「この子さえいなければ」とか「本当に憎たらしい」と思う瞬間があるのも現実です。
だからこそ、虐待防止には親のケアが有効ですし、子育ての愚痴や悩みを吐露できる場所が必要だと言われているのです。
不都合な現実を見ない傾向
ところが人は、道徳心や「あるべき」論から。もしくは不安や恐怖を抑えるためや都合よくものごとを解釈するために、不都合な現実を見ようとしないことがあります。
無意識のうちに、ひとつの考えにしばられて「こうでなければならない」と柔軟性を欠いてしまったり、ある特定の人物を「絶対に間違えることはない」と信じて盲信しようとしたり、逆に「あいつは理解不能のモンスターだ」と断じて、切り捨ててしまったりするのです。
社会問題にも同じ構図が
こうした現実逃避の影響は、日常生活だけにとどまりません。
たびたび外交問題となる歴史認識についてや原発政策。昨年7月に起きた相模原障害者施設殺傷事件のようないわゆる“凶悪犯罪”と呼ばれる事件の被疑者・被告人へのバッシングから、はては芸能人のスキャンダルまで、同じような構図が見て取れます。(続く…)