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なぜそんなことになっているのか? もちろん、理由はひと言で言えるほど単純ではないでしょう。

乱暴な物言いをする方の中には「最近の人間は弱くなった」とか「どんな社会でもがんばればチャンスはある」などとおっしゃる方もおられます。

「今の若者は甘えている」とか「苦労をしないからひ弱になった」などという声も聞こえます。

もし、百歩譲ってそれが当たっているとしても、次にはまた新たな疑問がわいてきます。

「なぜ最近の人間は弱くなったのか」「どうして甘えた若者が増えたのか」「チャンスをつかめむようなチャレンジ精神が希薄なのか」ということです。

猫とはまったく関係なさそうな話ではじまってすみません。少しだけおつきあいください。

ここ10年くらい、よく耳にするようになった言葉に「自立」があります。
とくに福祉や教育、医療など、本来、何よりも「支援」や「助け」が必要な方が多くいる分野ほど、よく聞くようになりました。

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私が学生だった頃は、女友達とふたりだけで、北アフリカや中東をバックパックを担いだ貧乏旅行もできました。スリや置き引き、突然抱きつかれるなどの危険にはたびたびあいましたが、総じて人々は親切で、命の危険を感じたことなどほとんどありませんでした。

今やどうでしょう。海外旅行、とくにアフリカや中東を女性だけの少人数で旅するなんてとても怖くてできません。

時間がたっぷりあった学生時代、なけなしのお金で世界を見ることは私の視野を広げ、今の仕事にとっても役立っています。でも、今の学生はそういう経験をする機会がうんと減ってしまったのではないでしょうか。

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だれとでも楽しくコミュニケーションをと取って、過ぎたことはくよくよせず、問題があっても深くは考えずに、嫌なことがあっても笑って流す・・・。

一見、ポジティブで良さそうに感じますが、それは人として健康なことなのかと首をかしげてしまいます。

だいたいだれとでも楽しくコミュニケーションを取るなんて、できるはずがありません。「十人十色」という言葉があるように、ひとりひとり違った個性を持っています。それならば気が合う人、気が合わない人、なんとなく好感を持てる人、持てない人がいて当たり前です。

「だれとでも気が合う」ということは「どこにも特別な人がいない」ということとイコールです。どれでは人はいつまでたっても淋しさから抜け出せません。これでは依存症が増えるわけです。

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場を盛り上げられない、空気が読めない、みんなと同じように振る舞えない、つまり、他者と望ましいコミュニケーションが取れない・・・そんなことが「あってはいけないこと」であるかのように語られ、こうした人が「発達障害」と呼ばれることが増えたのはいつの頃からでしょう。

大きな流れを作った要因のひとつは2004年に成立した発達障害者支援法のような気がします。
その前年に長崎で起きた男児誘拐殺人事件や同年の佐世保小学生殺傷事件の犯人として捕まった10代前半の子どもたちが「発達障害ではないか」と言われたことも発達障害を印象付け、支援法に則ったやり方が学校現場に広まることに一役買ったことでしょう。

「発達障害は早めに手を打たなければ取り返しの付かない事態を招く」という危機感に、この法律が上乗せされ、発達障害のある子どもを早期発見することが、重要であるかのような印象を学校現場をはじめ、世間に与えたように思えるのです。

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学生さんたちに臨床心理のお話をする機会を持っているのですが、症例を紹介すると「自分も精神疾患なのではないか。治療機関に通うべきか」という相談を持ちかけてくる方が、必ずと言っていいほどいます。

たとえば躁うつ病の症例を見て「自分も気持ちの浮き沈みがあるんです」と言ってこられたり、うつ病の症例では「気持ちが落ち込むことがあるのはうつ病なのでしょうか」とおっしゃられたりするのです。

個別の相談に乗れる状況ではないので細かいことはわかりませんが、聞ける範囲で「なぜそう思うのか?」を尋ねると、躁うつ病の方は「仲間といるときにはハイテンションなのに家にいるとそうではない」という話だったり、うつ病の方は「バイトが忙しくて眠る時間が取れず疲れている」など、気分が落ち込む原因がちゃんとあったりします。

新年、明けましておめでとうございます。

すでに年が明けてから半月が過ぎてしまいました。ご挨拶が遅れましたことをお詫びいたします。

「大切なもの」を考えせられた去年

昨年はみなさまにとってどのような年だったでしょうか。そして、今年はどのような年にしていきたいとお考えでしょうか。

私にとっての2015年は、いろいろなものを失った年でした。
私にとって大事な存在を失うこと、関係性を失うこと、若さや健康を失うこと・・・いろいろなものを実感いたしました。

でも逆に言うと、「大切なものは何か」を改めて考えさせられた年でもありました。
まだまだ悲しみに沈むときが多い、今日この頃ですが、大切なものを失ったのですから、当たり前ですよね。

今年は、じっくり、ゆっくりと自分の気持ちと向き合い、悲しみを整理する年にしたいと思っています。

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あれから10年が経ちました。

今や、固く門戸を閉ざした地域の学校、警察官による安全パトロールや、登下校時に保護者や地域ボランティアが付きそう光景が当たり前になりました。

おそらく若い世代には、開かれた学校の姿やパトロールや付き添いがまったくない子どもの登下校風景など、想像もつかないことでしょう。

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以前、このブログでご紹介した「周囲の人からのサポート感が高い子どもほど、危機回避能力が高い」との調査結果も思い出してください(大阪教育大学学校危機メンタルサポートセンターの藤田大輔教授が05年に実施した「健康と安全に関する意識調査」)。

思い起こせば、この調査の存在を知り、調査結果についての取材をしたのは寝屋川事件がきっかけでした。

・・・と言ってももちろん、今回の事件ではありません。

2005年2月に大阪府寝屋川市で起きた小学校教職員3人がその学校に恨みを抱いた卒業生に殺傷された事件のことです。

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もちろん、一部の作家の方々などのように「鍵をかけて子どもを外に出さないようにする」とか「親の監視を行き届かせるべき」などというのも論外です。

経済的に苦しかったり、精神的に行き詰まっていたりして、とても子どもことを最優先に考えて生活できる状況ではない親だって、世の中にはたくさんいます。

子どもを家に残して夜通し働いてようやく生計を立てている親、子どもに注ぐエネルギーが無くだれか(何か)に充電してもらわなければとても生きられない親だっているでしょう。

子どものことが最大の関心事である親でいられることは確かに理想かもしれませんが、それをただ親に強要し、できない親を責めたら何かが解決するのでしょうか。