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だれとでも楽しくコミュニケーションをと取って、過ぎたことはくよくよせず、問題があっても深くは考えずに、嫌なことがあっても笑って流す・・・。

一見、ポジティブで良さそうに感じますが、それは人として健康なことなのかと首をかしげてしまいます。

だいたいだれとでも楽しくコミュニケーションを取るなんて、できるはずがありません。「十人十色」という言葉があるように、ひとりひとり違った個性を持っています。それならば気が合う人、気が合わない人、なんとなく好感を持てる人、持てない人がいて当たり前です。

「だれとでも気が合う」ということは「どこにも特別な人がいない」ということとイコールです。どれでは人はいつまでたっても淋しさから抜け出せません。これでは依存症が増えるわけです。

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場を盛り上げられない、空気が読めない、みんなと同じように振る舞えない、つまり、他者と望ましいコミュニケーションが取れない・・・そんなことが「あってはいけないこと」であるかのように語られ、こうした人が「発達障害」と呼ばれることが増えたのはいつの頃からでしょう。

大きな流れを作った要因のひとつは2004年に成立した発達障害者支援法のような気がします。
その前年に長崎で起きた男児誘拐殺人事件や同年の佐世保小学生殺傷事件の犯人として捕まった10代前半の子どもたちが「発達障害ではないか」と言われたことも発達障害を印象付け、支援法に則ったやり方が学校現場に広まることに一役買ったことでしょう。

「発達障害は早めに手を打たなければ取り返しの付かない事態を招く」という危機感に、この法律が上乗せされ、発達障害のある子どもを早期発見することが、重要であるかのような印象を学校現場をはじめ、世間に与えたように思えるのです。

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学生さんたちに臨床心理のお話をする機会を持っているのですが、症例を紹介すると「自分も精神疾患なのではないか。治療機関に通うべきか」という相談を持ちかけてくる方が、必ずと言っていいほどいます。

たとえば躁うつ病の症例を見て「自分も気持ちの浮き沈みがあるんです」と言ってこられたり、うつ病の症例では「気持ちが落ち込むことがあるのはうつ病なのでしょうか」とおっしゃられたりするのです。

個別の相談に乗れる状況ではないので細かいことはわかりませんが、聞ける範囲で「なぜそう思うのか?」を尋ねると、躁うつ病の方は「仲間といるときにはハイテンションなのに家にいるとそうではない」という話だったり、うつ病の方は「バイトが忙しくて眠る時間が取れず疲れている」など、気分が落ち込む原因がちゃんとあったりします。

新年、明けましておめでとうございます。

すでに年が明けてから半月が過ぎてしまいました。ご挨拶が遅れましたことをお詫びいたします。

「大切なもの」を考えせられた去年

昨年はみなさまにとってどのような年だったでしょうか。そして、今年はどのような年にしていきたいとお考えでしょうか。

私にとっての2015年は、いろいろなものを失った年でした。
私にとって大事な存在を失うこと、関係性を失うこと、若さや健康を失うこと・・・いろいろなものを実感いたしました。

でも逆に言うと、「大切なものは何か」を改めて考えさせられた年でもありました。
まだまだ悲しみに沈むときが多い、今日この頃ですが、大切なものを失ったのですから、当たり前ですよね。

今年は、じっくり、ゆっくりと自分の気持ちと向き合い、悲しみを整理する年にしたいと思っています。

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あれから10年が経ちました。

今や、固く門戸を閉ざした地域の学校、警察官による安全パトロールや、登下校時に保護者や地域ボランティアが付きそう光景が当たり前になりました。

おそらく若い世代には、開かれた学校の姿やパトロールや付き添いがまったくない子どもの登下校風景など、想像もつかないことでしょう。

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以前、このブログでご紹介した「周囲の人からのサポート感が高い子どもほど、危機回避能力が高い」との調査結果も思い出してください(大阪教育大学学校危機メンタルサポートセンターの藤田大輔教授が05年に実施した「健康と安全に関する意識調査」)。

思い起こせば、この調査の存在を知り、調査結果についての取材をしたのは寝屋川事件がきっかけでした。

・・・と言ってももちろん、今回の事件ではありません。

2005年2月に大阪府寝屋川市で起きた小学校教職員3人がその学校に恨みを抱いた卒業生に殺傷された事件のことです。

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もちろん、一部の作家の方々などのように「鍵をかけて子どもを外に出さないようにする」とか「親の監視を行き届かせるべき」などというのも論外です。

経済的に苦しかったり、精神的に行き詰まっていたりして、とても子どもことを最優先に考えて生活できる状況ではない親だって、世の中にはたくさんいます。

子どもを家に残して夜通し働いてようやく生計を立てている親、子どもに注ぐエネルギーが無くだれか(何か)に充電してもらわなければとても生きられない親だっているでしょう。

子どものことが最大の関心事である親でいられることは確かに理想かもしれませんが、それをただ親に強要し、できない親を責めたら何かが解決するのでしょうか。

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話が飛ぶようで恐縮ですが、「子どもを守る」というキーワードで思い出すのは、今年の夏、大阪府寝屋川市の中学1年の男女が遺体で見つかったいわゆる寝屋川事件です。

ふたりが京阪電鉄寝屋川市駅前の商店街の防犯カメラに映っていたのを最後に行方不明になったことが分かり、「子どもの深夜の出歩き」や「夜中も携帯電話(スマートフォン)でつながるこどもたち」の問題が、マスコミ等で指摘されました。

10月29日の『朝日新聞』に学校での動物飼育についての記事がありました。

「命の大切さを実感する機会として力をいれる学校がある一方、飼育経験が豊富な教員の減少や感染症の不安から、飼育をとりやめる学校も増えている」そうで、全国的には動物を飼育する学校は減少傾向だそうです。

広島県動物愛護センターが県内4市の小学校や幼稚園、保育所等に対して行ったアンケート(12年)によると、とくに減っているのが鳥類で、鳥インフルエンザの人への感染が確認されたことが影響しているとみられるとか。

その他、「動物の病気・けがが心配」「世話する人がいない」「人手不足」などで廃止にしたところがあり、動物アレルギーを持つ子どもへの配慮もあるそうです。

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なぜならそもそも少年法は、生育環境などの問題でうまく成長・発達することができなかったため、反社会的な行為をしてしまった未成年者が生き直せるよう、健全育成と環境調整を行うための法律です。
だから、少年法では教育・保護し更正することに力点が置かれています。

男性は、こうした少年法に基づいて医療少年院で約7年の治療を受け、社会へと復帰しました。

被害者や被害者遺族を誹謗中傷するような、もしくは犯した罪を肯定したりするような本なら批判されてもしかるべきでしょう。しかし、ただ「自分の気持ちを語りたい」と手記を著すことがなぜいけないのでしょうか。

少年法の考えに則れば、匿名での執筆も当たり前の話です。死刑が確定していた永山死刑囚とは違い、男性はこれからもこの社会の中で生きていかなければならないのです。本を出版しただけで、これだけの騒ぎが起きる日本社会ですから、顔と名前が周知されればどんなことになってしまうか・・・。火を見るよりも明らかです。