その「個体差」をつくる要因としては環境も影響しているように思います。
たとえばここ半年くらいのうち、家族に加わった猫(写真)は、現れた当初、まったく鳴きませんでした。
こちらから声をかけても、無言。近寄ろうとすると逃げてしまう。
ただ、ただ、じーっと、何も言わずに窓から家の中をのぞいているだけ。それこそ一言も声を発しようとはしないので、家人と「声が出ない猫なのではないか」と心配したほどです。
その「個体差」をつくる要因としては環境も影響しているように思います。
たとえばここ半年くらいのうち、家族に加わった猫(写真)は、現れた当初、まったく鳴きませんでした。
こちらから声をかけても、無言。近寄ろうとすると逃げてしまう。
ただ、ただ、じーっと、何も言わずに窓から家の中をのぞいているだけ。それこそ一言も声を発しようとはしないので、家人と「声が出ない猫なのではないか」と心配したほどです。
確かに私の愛犬(写真)は、空気を読みます。
たとえば何人かの人間で食卓を囲むとき。 愛犬は、決して私の側には寄ってきません。「食べ物をくれそうな人」の側に行って、目をきらきらさせながらお座りをしてじーっと見つめます。
そしてそれは多くの場合、私の席から対角線上に座っている人であったりします。私からいちばん遠いので、愛犬に食べ物をあげようとすることを私が阻止しにくいと分かっているのです。
また、「そろそろ食事が終わる」という雰囲気になると「残っているものないの? なんかちょうだい」と、テーブルの下から顔を出したり、椅子の周囲を回っては主張します。
いずれも立派に「空気を読んで」います。だけど、「縦型社会の住人(犬)」という窮屈さは感じません。また、人間に同調しているというよりは、「どうしたら自分の意見が通るのか」を考えたうえで賢く自己主張しているように思えます。
また、『東京新聞』(2016年5月8日)では、『ヒトラーはなぜ猫が嫌いだったのか』(コア新書)の著者で、愛猫家・著述家の古谷経衡さんの次のような分析を載せています。
「猫に『自由』『放任』『個人主義』といった性質を見て、それを尊ぶのが『猫性の社会』と定義する。逆に『忠誠』『従順』『上意下達の縦型構造』といった犬的な性質を尊ぶのは『犬性の社会』。日本は江戸時代は『猫性』だったが、戦時期からバブル期までは『犬性』が続き、その後は『猫性』となって今に至る」
その結論は、「それだけ今の社会の同調圧力が厳しいのだ」というもの。
前回紹介した、猫ブームを「日本人が犬化、つまり『空気を読む』化しており、常の上司や友人などに気を使う“動物”と化しつつあるからである」(『生活と自治』2016年5月号「日々の一滴」/生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)と考える藤原さんに通じるものがあります。
ちなみに同書は、犬を偏愛したヒトラーの物語から始まっているとか。
またまた猫の話題で恐縮です。
犬よりも猫と暮らす人が増え、日本は空前の猫ブームだそうです。「ネコノミクス」などと言い、猫が経済を押し上げているとまで言われています。
そんななか、自他共に認める猫好きで写真家・作家の藤原新也さんは雑誌(『生活と自治』2016年5月号「日々の一滴」/生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)の連載コラムでこう問いかけます。
「猫ブームとはなんぞや」
このような感覚が得られるような関係性が母親(養育者)との間に形成されることで、
私たちは見知らぬ他者と出会ったり、外界へと出て行く不安を和らげます。
さらにはそんな関係性を保障してくれる母親が安全基地(情緒的エネルギーの補給場所)として機能しはじめ、「戻ればいつでも自分を守り、慰めてくれる存在がある」という確信を得て、何かにチャレンジしたり、外界を探索したり、自分の足で立つ自身や勇気を持つことができるのです。
でも、このアカゲザルの実験は、明らかに違う結論を示しました。
子ザルはおなかが空いたときにのみ、針金のお母さんのところに行ってミルクを飲みますが、空腹を満たすとすぐに布でできたお母さんのところへ戻ってしまいます。
音の出る、子ザルが驚くようなおもちゃを投げ入れたときも、子ザルは怖がって布のお母さんにしがみついたそうです。
この実験からハーローは、「愛着は生理的欲求(空腹や睡眠や苦痛など)を取り除いてくれるから母親を愛着対象とするのではない」とし、「接触(スキンシップ)による快適さこそが大切である」という考えを示しました。
弱くて、甘えていて、勇気がない・・・その原因をひとことで言ってしまえば「安全基地となる居場所がないから」に尽きると思います。
私たちほ乳類は、たいへんなことがあったとき、傷ついたとき、怖い思いをしたとき、病気になったとき・・・つまり何かしら危機的な状況に陥ったとき、「ここに戻れば守ってもらえる」とか「そこに帰れば慰めてもらいえる」とか「エネルギーを充填できる」などと思える、安心できる関係性を必要とします。
そうした関係性(安全基地)は精神(こころ)だけでなく、体の健康を維持するためにも不可欠なものです。
なぜそんなことになっているのか? もちろん、理由はひと言で言えるほど単純ではないでしょう。
乱暴な物言いをする方の中には「最近の人間は弱くなった」とか「どんな社会でもがんばればチャンスはある」などとおっしゃる方もおられます。
「今の若者は甘えている」とか「苦労をしないからひ弱になった」などという声も聞こえます。
もし、百歩譲ってそれが当たっているとしても、次にはまた新たな疑問がわいてきます。
「なぜ最近の人間は弱くなったのか」「どうして甘えた若者が増えたのか」「チャンスをつかめむようなチャレンジ精神が希薄なのか」ということです。
猫とはまったく関係なさそうな話ではじまってすみません。少しだけおつきあいください。
ここ10年くらい、よく耳にするようになった言葉に「自立」があります。
とくに福祉や教育、医療など、本来、何よりも「支援」や「助け」が必要な方が多くいる分野ほど、よく聞くようになりました。
私が学生だった頃は、女友達とふたりだけで、北アフリカや中東をバックパックを担いだ貧乏旅行もできました。スリや置き引き、突然抱きつかれるなどの危険にはたびたびあいましたが、総じて人々は親切で、命の危険を感じたことなどほとんどありませんでした。
今やどうでしょう。海外旅行、とくにアフリカや中東を女性だけの少人数で旅するなんてとても怖くてできません。
時間がたっぷりあった学生時代、なけなしのお金で世界を見ることは私の視野を広げ、今の仕事にとっても役立っています。でも、今の学生はそういう経験をする機会がうんと減ってしまったのではないでしょうか。