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大川小問題では、震災が起きた直後、大川小を管轄している宮城県石巻市が(1)遺族説明会を開かない、(2)ただ一人生き残った教師を「病気求職中」として隠す、(3)最初の頃に徴収した都合の悪い子どもの証言を改ざん・隠蔽してメモを捨てる、などの不誠実な対応を重ねました。

でもこれは「震災直後」だけの話ではありません。残念なことに市教委が「証拠や話合いのベースになる文書を隠すことで、起きた問題や責任の所在をあいまいにしてしまおう」とする行為は、つい最近もありました。

東京電力福島第一原発事故で福島県から横浜市に避難した男子中学生へのいじめ問題で、いじめを見逃した原因や改善策を話し合う市教育委員会の内部組織「再発防止検討委員会」が、会議の議事録を作成せず、録音データも消去していたことが明らかになったのです。

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しかし残念なことに、今の日本の状況を見る限り「人々の言葉を真摯に受け止め」て「過去の過ちと向き合う」なんてことは、難しそうです。この6年を振り返って思うのは、「この国の体制は犠牲になった命の重さを受け止める気持ちなどなく、反省する気もない」ということです。

そんな政府の本音をうっかり吐露してしまったのが、あの今村雅弘復興相の「自主避難は本人の責任」という発言でしょう。

・・・とはいえ、今さら驚く話ではありません。政府の本性は、2012年にできた子ども・被災者支援法をめぐる今までをなぞってみれば、簡単に分かります。

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たとえばご遺族のなかには、この6年の間に「語ることに疲れた」と、すっかり口を閉ざしてしまった方がいます。
語り部などをされ、「大川小で何があったのか」を必死にお伝えされている方々もおられますが、日本という国がかかえる教育の問題点については口が重くなっておられるように感じられました。

もちろん、「裁判の最中だから」と発言を控えておられるということもあるのでしょう。ちょうどこの3月29日に仙台高裁で、犠牲になった子ども23人のご遺族が市と県に約23億円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審(第1回口頭弁論)がありました。

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東京でのオリンピック開催が決定したとき、世の大半は東日本大震災と原発事故の払拭を願い、「あれはすでに過去のこと」と忘れ去ろうとするお祭り騒ぎにわきました。すくなくとも、メディアはそうした状況をたくさん報道していました。

でも私には、オリンピック決定を受けた後、福島の浜通りに住む知人が送ってきた一通のメールが忘れられません。そこには「オリンピックに向けた復興にわく日本のなかで、このまま福島は取り残され、忘れられていくのだろう」という痛切な言葉が書かれておりました。

未曾有の犠牲者を出した東日本大震災から6年がたちました。

2011年3月11日2時46分。私は東京のとある福祉施設におりましたが、あのとき目にした揺れる町の光景や自分が着ていた服、寒々しかった天候まで今もありありと思い出すことができます。

その後、テレビを通して目にした川津波の映像、そして福島第一原発事故の様子。福祉施設の子どもたちが泣き叫ぶ姿などは、今、思い出しても胸がしめつけられるようです。

直接的な被害をこうむっていない私でさえこんな状態なのですから、ご自身や家族が被害に遭い、愛する命や土地を奪われた方たちの思いはどれほどのものかとお察しします。その爪痕は、まだまだ生々しく残っていることでしょう。

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傘をさしたり軒下を借りたりして雨風をよけながら。過酷な環境下ではメッキははがれやすくなってしまいます。

孤独な子育てや余裕のない生活が虐待のリスクを上げることでも明白なように、取り巻く状況が悪ければ人格を保ったり、人とつながったり、生まれ持った能力を発揮することは難しくなります。
だから金メッキの私たちは、できるだけダメージを与える人間関係を離れ、危険なものを遠ざけ、傷つく機会を減らして、メッキがはげないようにしなければなりません。

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 私は常々、「私をはじめ、人間はみな完璧な“純金製”になれない金メッキ」と思っています。

 確かに理論上は、“純金製”の人間・・・あらゆる能力を備え持ち調和が取れたバランスのいい人格者を育てることはできるはずです。

「包まれているものを出現させる」という発達(Develop)の語源によれば、「人は“人として”豊かに生きるために必要なすべての能力を持って生まれてくる」わけですから、あとは「その包まれている能力をきちんと表出させてくれる環境(親)」があればいいだけです。

 これは子どもの成長・発達を保障するための世界的な約束ごとである「子どもの権利条約」の29条:教育の目的(子どもの人格・才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること)にも通じる考え方です。

このシリーズの最初の記事へ さてさて「日本礼賛」についてです。

自分が生まれ育った国、属する国に愛着を持つことは人間ならば当然です。母国ならではの良さもよく分かっています。そんな母国の文化に誇りをもつことも至極最もなことです。
でもそれはが「母国が一点の曇りもない、何一つ恥じることもない、素晴らしい国だから」なのだとしたら、これはけっこう危険な話です。

このシリーズの最初の記事へ それにしてもなぜ、こうした「白黒思考」になってしまうのでしょうか。身も蓋もない誤解を呼びそうな表現ですが、一言にまとめれば「そのほうが楽だから」でしょう。

私自身そうですが、人は易きに流れます。
「グレーゾーンに立つ」ということは、「宙ぶらりんのままでいる」ということです。これはなかなか居心地が悪い状態です。この世に存在するあらゆるものは安定を求めます。「どうにかして早く安定感のある場所に落ち着きたい」と思います。

そのうえ今の社会は人を急がせます。「少しでも早く」「できるだけ最短」で、「結果を出す」ことが求められます。
迷ったり、戻ったり、「間違えたかな」と立ち止まることは、「よし」とされません。

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このような振り幅の大きさは、柔軟性を欠いた窮屈な生きづらさにつながることがあります。
「こうでなければならない」という絶対思考やグレーゾーンや中間的な価値のあり方を許さない「0か100か」の思考、または現実検討能力を著しく低下させてしまう危険を呼び寄せてしまうことにもなりえます。

世の中には「完全な悪」もなければ、「完全な善」もありません。神様や仏様なら別でしょうが、あらゆる人間には善的な部分と悪的な部分があります。人間だけでなく、この世に存在するものすべては矛盾をはらんでいるものです。