感情はもううざいし要いらない(5/8)
話をもとに戻したいと思います。
本来、生まれたての「子ども」は動物と同様、欲求の塊のはずです。
子どもは幼ければ幼いほど、「ああして欲しい」「なぜこうしてくれない」「自分はこうしたいのに!」という、たくさんの欲求を持っていて、それをかなえてくれないおとなに対して、生の感情をぶつけてきます。
びっくりするほど利己的で、他者を顧みようとすることもなく、ただただ「生き延びる」ことに必死。そのあふれんばかりの「生きたい!」という子どもが持つパワーは、ときにおとなを圧倒させるほどです。
そんな動物にも通じるほどの生命力に満ちあふれた「子ども」という存在から、欲求を奪い、感情を奪い、期待感を奪ったもの・・・それはいったいなんなのでしょうか。
どうしたら欲求の塊として生まれてきた子どもを、「べつに」という回答を繰り返すしかしないほどにまであきらめの境地へと追い込むことができるのでしょうか。
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バラバラになった自分を抱えて
このブログの冒頭で書いたBENNIE Kの『モノクローム』を教えてくれた高校生は、「感情なんてもううざいし要らない」というフレーズが好きな妹のことをよく話します。
プライベートなことが多いので詳しくは書けませんが、その高校生は「妹は学校でも、家庭でも『もっと頑張れ!』『お前はもっとやれるはず』『今の状態はしんどくない。甘えているだけだ』と“励まされて”きた」と言います。
そんな状態を続けているうちに、妹は「周囲が言う自分」と「自分で感じている自分」のどちらが「本当の自分」なのか分からなくなり、混乱していきます。
おそらく「周囲の期待に応えたい」という思いと、「そう思っても出来ない」自分へのやるせなさやいらだちもあったのでしょう。
妹は、本当の自分はどんな自分なのか、自分が感じている感情は本物なのか、自分はどんな人間なのかも分からなくなり、次第に外に出ることも難しくなっていってしまったのです。
そして、バラバラになった自分を抱えてうずくまる妹が口にしたのが「感情なんてもういざいし要らない」という言葉でした。(続く…)