子ども時代と人生(1/5)
火薬の袋貼りは容易の仕事じゃないらしいね。さぞ肩も張るだろう。ほんとうにお察しする。しかしあまり無理しないがいいでしょう。無理するとやはりからだに障るよ。
(昭和19年10月10日付)
冬になって水が冷たくヒビ、あかぎれが切れるようになったとの事、本当に痛わしく同情します。水を使った度に手をよく拭き、熱くなる程こすって置くとよいでしょう。又燃料節約で風呂が十日に1遍とは、昨年の今頃と比べてほんとうに可愛そうに思います。
(昭和19年12月11日付)
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これらは、硫黄島で戦死した栗林忠道陸軍中将(死後、大将となる)が戦地から妻に宛てた手紙です(『栗林忠道硫黄島からの手紙』/文藝春秋より引用)。栗林は、太平洋戦争中最も激しい戦闘が行われた硫黄島に赴任した後も、10日と空けないまめさで家族に手紙を書きました。
しかもその内容は、妻をいたわり、子を心配し、留守宅を案じる、生活の細部にわたるものばかりでした。
手紙はみな、自身の無事を伝える文章ではじまり、家人の身を思いやる文章で終わっています。
『散るぞ 悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社)を著した梯久美子氏は、「留守宅に宛てた栗林の手紙で、私が直接手にとって読んだものは41通あるが、その中に天皇、皇国、国体、聖戦、大義といった、大所高所に立ったいわば“大きな言葉”はただの一度も出てこない」と書いています。
妻だけでなく、3人いた子どもたちにもよく手紙を書きました。
とくに気にかけていたのは、まだ幼く、ひとり長野に疎開していた末っ子のたか子のこと。歯磨きはしているか、寒くはないか、こたつでうたた寝などしていないか、みんなと仲良く暮らしているか、などと問いかけ、たか子の手紙が「よく書けていた」とほめ、字に間違いがあると添削までしてあげています。
そして、ときには育てているヒヨコのかわいらしさを伝えたり、絵まで描いて送ったりしていました。
たこちゃん! お元気ですか? お父さんは元気ではたらいています。
(省略)
たこちゃんの注文のお父さんの画はかきましたよ。今度又ヒマの時に書いて送ります。
たこちゃん! お父さんのところの一羽のお母さんどりは今日ヒヨ子を四羽生ませましたよ。
(昭和19年11月26日付)(続く…)