子ども時代と人生(3/5)
絵手紙には、新聞配達をしている子どもと向き合って座り、お菓子をごちそうしているところや、街頭で出会ったメキシコ人の子どもにお金をあげているところもあります。
階級社会である軍にいながら栗林は、目下の者にも絶えず心をかけ、小さき者と同じ視線に立ち、だれとも気さくに接していた人でもあったようです。
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『栗林忠道硫黄島からの手紙』には、逃げまどう硫黄島の一般人に心を痛めるくだりがあり、『散るぞ 悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』には、水が極端に無い硫黄島で「馬を歩かせると水をたくさん飲むから」と丸腰に地下足袋で歩き、下級兵士と同じ一日一本の水筒で暮らし、同じ物を食べる姿や本土から自分宛に送られてきた野菜を切り刻んでで将兵に分け与え、自らは一片も口にしなかったという話が書かれています。
また、硫黄島に慰安所が設けられなかったのは、栗林の一存によるものだという話もあります。
どれも、安全な父島から指揮をとることはせず、最期まで先頭に立って戦い、部下と共に戦死した栗林らしいエピソードです。
こうした人だからこそ、「多くを語らず、皇国のために命を捧げることこそ喜び」とされた時代にあって、その訣別電報に
国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
と謳ったのでしょう。
戦時中の日本においては、中将たる者が、戦死することを「悲しい」と表現するなどとは、絶対に伝えてはならないタブーだったはずです。それでも栗林は「悲しき」と書かずにはいられなかったのでしょう。
大本営から見捨てられ、弾も尽き果て、圧倒的な戦闘能力の差の前に死んでゆく兵士とその家族の悲しさ。それを知りながら「戦い続けよ」と命じるしかない自分の無力さ。そうした戦争の愚かさを知っていたから・・・。
しかも相手は、かつて自分が暮らし、親しんだアメリカです。日本とは段違いのアメリカの国力を知っていた栗林は、「アメリカはけして戦ってはならぬ相手」とたびたび周囲に話していたと言います。(続く…)