子ども時代と人生(4/5)

2019年5月29日

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この訣別電報は、「そうした現実を見極めることもせず、いたずらに戦争しかけ、迷走し、最後には現場の兵士を切って捨てる・・・そんな軍の上層部へのぎりぎりの抗議だったに違いない」と、梯氏は著書で書いています。
そして「おそらくその意図を感じたからこそ、当時の硫黄島玉砕を伝えるニュースでは、この句の最後が『悲しき』ではなく『口惜し』と改変される必要があったのだ」とも言っています。

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激しさを増す米軍の空襲の下でしたためた「私も米国の為にこんな処で一生涯の幕を閉じるのは残念ですが、一刻でも長くここを守り東京が少しでも長く空襲されない様に祈っている次第です」(昭和19年9月12日付)、「此の様な大戦争も起こらず普通だったら、今頃はお前達も勿論私もずいぶん幸福に愉快に暮らして居れたろうに、今は此の始末でなんと思ったって仕方がない」(昭和19年11月26日付)という、最高指揮官でなければまず検閲を通らなかっただろう手紙からは、愛する者を残して死んでいかなければならない無念さがひしひしと伝わってきます。

栗林に関する本を読んでいると、いわゆる「お国のために戦った」名将ではなく、「愛する人々の盾となろうとした」ひとりの人間の姿が浮かび上がってきます。
「文句は言わずに黙って散っていくことこそ軍人の美学」とされ、「お国(天皇)のために死ぬことこそ尊い」という、当時の常識を覆し、愛する人を守るために闘い、銃弾が降り注ぐなかでも愛する人に寄り添い続けた栗林忠道という人物が見えるような気がするのです。

このように人を愛した栗林は、いったいどんな愛を受けて育った人なのでしょうか? 持てる力のすべてをかけて身近な人々を救おうとした彼は、どんなふうに支えられた記憶を持っていた人だったのでしょうか?

残念ながら、そうしたことが分かる資料はほとんどありません。栗林の幼い頃を記した文献も多少はありますが、「決められたことをきちんとこなし」「目上の人の言うことを尊重し」「人の嫌がることも率先して行い」「強い意志を持って努力した」など、昔の道徳教本に出てくるような内容ばかりです。

栗林の母については「厳しい中にも慈愛の心が深い人だった」などの記述があり、甘やかすことなくしつけたというエピソードは載っています。しかし母がどのようなまなざしで栗林と向き合い、栗林がどのような感情で母に対していたのかは分かりません。また、どのような家族関係のなかで、どのような子ども時代を生きたのかも分かりません。とりわけ栗林の父親像は見えないままです。(続く…

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Posted by 木附千晶