今日から「子どもの声を国連に届ける会(「届ける会」)」の子どもたちと合宿です。
集合時間は昼の12時。「みんなが起きられる時間」ということで、この時間に決まりました。細かい合宿の内容も不明。話し合わなければいけないことは山ほどありますが、スケジュールも何もかも、いきあたりばったり。唯一決まっているのは、泊まる宿だけです。

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image060728.jpg 離島など沖縄の地方には、まだまだそうした「なんでも受け入れてくれる」雰囲気が残されているように思います。名前も知らない他人でも、目が合えば席を共にし、話が弾めば泡盛を勧め、盛り上がれば一緒に歌う。そう、「いちゃりばちょーでぇー(会えば兄弟)!」なのです。

どこのだれかも問いません。今、時間と場所を共有しているというだけで、受け止めてもらえるような空気を感じます。
そんな優しさ包まれると、体の奥から深呼吸できるようになって、コチコチになった心までがほぐされていきます。思い詰めていたことがあっても「てーげー(アバウト)に考えられるようになる」と言ったらいいでしょうか。

こうした空気の“もと”になっているのは、やはり「何でも受け入れ合っている」沖縄の人々の関係性ではないでしょうか。

image060726.jpg 重たい話題が続いていましたので、今回はちょっと一息。

先日、一足早い夏休みをいただいて沖縄の離島に行ってきました。日本列島のほとんどの地域では冷たい雨が降っていましたが、沖縄地方は台風一過の晴天続き。「気もちがいい」を通り越して「痛い」ほどの太陽が照りつけていました。

旅のテーマは「何にもしないこと」。朝起きてひと泳ぎしたら、お昼を食べてしばし昼寝。日差しが弱まった頃、また海に出る。夜は泡盛片手に海の見えるテラスで食事・・・。それをただ繰り返し、頭も心もカラッポにして数日間を過ごしました。

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image060721.jpg どうして重光さんの会社の社員たちは、自殺寸前まで追い込まれている同僚に気づかなかったのでしょう。唯一、窮状を知っていた上司は部下を助けるどころか、部下を追い込むような言動を続けたのでしょう。そして何より、重光さん以外の方々は「自分はこれ以上やれない」とSOSを出すことができなかったのでしょうか?

AC(アダルト・チルドレン)という言葉は、今では広く一般にも知られています。ACの特徴は、自己評価が低く、周囲からの評価が気になり、周囲の反応に一喜一憂し、頼まれたものを何でも引き受けてしまうなど。アルコール依存症の家族など、機能不全家族で育った子どもがなると言われています。
では、そのような機能不全家族はどうして生まれるのでしょうか?

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image060718.jpg 重光さんは何度か復職を試みますが、そのたびにショックを受けることが続きました。

たとえば早い時間に出勤すると、上司が「もう治ったのか」と声をかけてきたことがありました。「早朝覚醒で眠れないんです」と答えると「オレだって忙しくて3時間しか寝ていない」と言われたそうです。
また、半日出勤や責任の少ない仕事などで少しずつ体を慣らしていきたいと告げると、上司は「何もしないでただ席に座っている気か?!」と詰め寄りました。

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image060713.jpg 本来は労働契約によって、労働の質、条件、時間などが定められています。労働者はそれを超えて働く必要はないのです。
ところが、リストラや左遷、出世、冷たい視線や上司の叱責と引き替えに、暗黙のうちに強制が課され、過剰労働に追いやられる現実があります。

重光さんの場合もそうでした。
「これ以上、立ち上げ業務を早めることはできない」
と上司に報告したところ、上司はすべての部課長宛に
「重光がリーダーを務める業務が最重要課題」
というメールを送信。他の部課長からも「しっかりしろ」と怒られたそうです。

image060710.jpg 先月15日に自殺対策基本法が成立しました。自殺の防止はもちろんのこと、自殺してしまった人の遺族へのケアやだれもが生き甲斐を持って暮らせる社会の実現を目的とし、年内に施行されることになっています。
この法律のいちばんの特徴は、自殺を「社会の問題」と位置づけたことです。今まで自殺は「当人が弱いから」など「個人の問題」とされてきましたが、「自殺の背景には様々な社会的要因がある」(基本理念)として、社会的な取り組みを行うことを明言したのです。

ところで先日、「過酷な業務からうつ病を発症し、働けなくけなくなったのに解雇されたのはおかしい」と会社を訴えている重光由美さん(本人の希望により本名にしています)とお会いしました。

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image060703.jpg 今の教育基本法に規定されているとおり、教育とは人格の完成(精神的にも肉体的にも調和の取れた創造的な生き方のできる人間)を目指すものです。
「人間教育」を目的とした教育基本法の理念は、子どもの全人的な発達を保障するためにつくられた子どもの権利条約にも通じます。

ところが教育基本法「改正」案は違います。すべての子どもの人間としての成長発達を目指す人間教育ではなく、「国に役立つ人材育成」、すなわち国策教育を目指すものです。
平たく言えば、子どもたちは、ときの政府に都合のよい価値観や道徳を教え込まれる一方、国の発展に役立つエリートだけが優遇される教育へと変わります。ますますエリートへの階段は狭き門になるばかりです。

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中1の頃は母親に反抗したこともあったけれど、中3になってからの母子関係は悪くなかったとの報道も気になります。
思春期の反抗は、おとなになるために必要なものです。そうやって親や社会の価値を壊し、自分らしさを確立していきます。おとな側からみれば許し難い反乱である反抗も、子どもにとっては成長のステップです。

何を言っても聞こうとしない両親、怒っても、暴れても、自分の気持ちに気づこうとせず、力で押さえ込もうとする両親に反抗することさえ「諦め」たとき、長男の心にはどんな思いが渦巻いていたのでしょうか。

image060627.jpg 児童虐待がクローズアップされるなかで、虐待(不適切な養育)を受けた子どものトラウマや虐待の世代間連鎖などの研究が進み、アタッチメント(愛着)という概念が再び注目されています。

健全なアタッチメントが形成されることにより、子どもは「自分は愛され、保護されている」と感じ「外界は安全なもの」ととらえることができます。こうした健全なアタッチメントの形成には、いつでも自分に目を配り、自分の気持ちに寄り添ってくれ、自分の欲求に応えてくれる養育者の存在が不可欠です。