この訣別電報は、「そうした現実を見極めることもせず、いたずらに戦争しかけ、迷走し、最後には現場の兵士を切って捨てる・・・そんな軍の上層部へのぎりぎりの抗議だったに違いない」と、梯氏は著書で書いています。
そして「おそらくその意図を感じたからこそ、当時の硫黄島玉砕を伝えるニュースでは、この句の最後が『悲しき』ではなく『口惜し』と改変される必要があったのだ」とも言っています。
子ども時代と人生(4/5)
子ども時代と人生(3/5)
絵手紙には、新聞配達をしている子どもと向き合って座り、お菓子をごちそうしているところや、街頭で出会ったメキシコ人の子どもにお金をあげているところもあります。
階級社会である軍にいながら栗林は、目下の者にも絶えず心をかけ、小さき者と同じ視線に立ち、だれとも気さくに接していた人でもあったようです。
子ども時代と人生(2/5)
栗林は、太平洋戦争で戦局がアメリカ優位となったあと、米軍の損害が日本軍のそれを上回った唯一の戦場である硫黄島で2万もの兵士を束ねた最高指揮官です。
圧倒的な戦闘能力を持つ米軍を相手に各地で敗退を続ける日本軍。そうした戦況にあって、最終的には敗北したものの、栗林は“寄せ集め”の兵士だけで米軍上陸から1ヵ月もの持久戦を行ない、米軍側の死傷者数2万8686名に対し、日本軍側2万1152名という戦いを繰り広げたのです。
子ども時代と人生(1/5)
火薬の袋貼りは容易の仕事じゃないらしいね。さぞ肩も張るだろう。ほんとうにお察しする。しかしあまり無理しないがいいでしょう。無理するとやはりからだに障るよ。
(昭和19年10月10日付)
冬になって水が冷たくヒビ、あかぎれが切れるようになったとの事、本当に痛わしく同情します。水を使った度に手をよく拭き、熱くなる程こすって置くとよいでしょう。又燃料節約で風呂が十日に1遍とは、昨年の今頃と比べてほんとうに可愛そうに思います。
(昭和19年12月11日付)
「子どもの声を国連に届ける会」(9/9)
こうした8人の意見は国連「子どもの権利委員会」が審査を終えて日本政府に改善点などを勧告した最終所見にすべて盛り込まれました。
プレゼンテーションを終えて、いえ、プレゼンテーションの間にも、涙で声を詰まらせながら子どもを励まし、暖かく見つめ、抱きしめてくれた委員の方々は、「あなたたちの貴重な意見をけして無駄にはしない」という約束をきちんと守ってくました。
「子どもの声を国連に届ける会」(8/9)
次のMさんは、機械的に暗記し、記憶するだけの授業、与えられたものをこなすことがすべての受験勉強のなかで「ひとつひとつ考えていたら置いていかれる。見放される。疑問をもつことは許されなかった」(Mさん)中学時代についてこう話しました。
「高校に入ることがすべて、先生の評価がすべて、それ以外のものに価値がない。そんな世界に子どもたちは閉じ込められている。その狭い狭い世界の中で、子どもたちは常に誰かと競争し、誰かを蹴落とし見下すことでしか、自分の価値を見出せなくなってしまった。その世界に適応できなかった子どもは簡単に排除され、一度排除されたら元には戻れないと言われてしまう。だから私は考えることをやめた。そうしないとおとなにも先生にも認めてもらえないと思ったから。『自分を消さなきゃ、自分を殺しながらじゃなきゃ、きっと楽には生きていけないんだろう』と思ったから」
「子どもの声を国連に届ける会」(7/9)
続いては高校生が政治的な活動を禁じられている現状を語ったTさんです。
Tさんは、「新聞への投書でさえ、政治活動にあたるとして指導対象にしている学校もある」と話しました。また、ある高校生がイラク反戦運動の際に経験した「ポスターをはがされた」「生徒会宛の手紙を学校が勝手に処分した」などの例を紹介し、こう訴えました。
「そのため生徒は『社会に関心を持ち行動するのはいけないこと』と思うようになっていきます。私たちは社会の一人として政治に関心を持ち、考えを訴えたい。それを禁じる通知(1969年に文部省が出したもの)は即撤回して欲しい」
「子どもの声を国連に届ける会」(6/9)
Hさんは、学校や社会で傷つき問題を抱えた子どもたちの最後の受け皿になっている定時制高校が、東京都の進める統廃合によって無くなろうとしていることを訴えました。
自身も小学校でいじめを受け、12歳から4年間を不登校で過ごしたHさんは言います。
「その事を誰にも相談出来ませんでした。学校の中では、他人に自分の弱みを見せては生きていけないからです」
「子どもの声を国連に届ける会」(5/9)
続くTさんが話したのは中学校で「日常茶飯事の体罰」。Tさんは、入学直後に体罰を目撃し、恐怖で「この人達には何も言えない」と思ったそうです。
友人の多くが体罰のある環境に慣れて疑問を感じなくなっていきました。そして、真夏でも化学繊維を3枚も重ねて着なければならない制服にも、文句ひとつ言わない生徒ばかりのなかで、私服登校を決意した当時を振り返り、こう語りました。
「子どもの声を国連に届ける会」(4/9)
2004年1月に国連「子どもの権利委員会」(At Palais Wilson in Geneva)でプレゼンテーションをした「子どもの声を国連に届ける会(「届ける会」)」のメンバーは8人。会の発足から3年あまりがたち、半分が大学生になっていました。
本当は8人のプレゼンテーションの全文を掲載したいところですが、かなり長くなってしまうので、エッセンスのみをご紹介させていただきます。