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image061228.jpg「改正」の明確な理由もなく

しかし、そこまで急いで「改正」しなければならない明確な理由は何も示されていません。参議院・教育基本法改正特別委員会で参考人に立った知人に聞いても、「公の理由は『国際社会の変化に合わせるため』だけ」とのことでした。

「国際社会の変化に合わせるため」に何を行うつもりでいるのかについては前回までの「教育基本法『改正』で子どもは育つか?」で述べました。端的に言えば、「分に応じて国や社会に役立つ人間の人材育成」です。
このような意図は「改正」法の中に明記はされていません。でも、それは教育改革国民会議(2000年)から続く、「21世紀教育新生プラン」(2001年)、「人間力戦略ビジョン」(2002年)、「中央教育審議会答申」(2003年)など、「大競争時代を打ち勝つ」として次々と出された提言などを見れば一目瞭然です。

そして、その先に競争の激化と規律・統制によるストレスの増大、子どもの序列化、そして人間関係の崩壊が待っていることも、「改正」先取りの教育改革を行っている自治体の現状から疑念の余地がありません。

image061225.jpg 2006年12月15日、私たちは「教育の原点」を失いました。「改正」教育基本法が成立したのです。

「教育の原点」は人格の完成を目指す人間教育です。そのために、子どもの成長発達を援助するための締約国の責務を定めた子どもの権利条約は「一人ひとりの子どもが、その持てる能力を最大限に発揮できるよう援助すること」(教育の目的/29条)を定めています。

その子どもの権利条約の理念は、人格の完成を教育の目的とし(1条)、時の権力による介入を排除した(10条)教育基本法にも通じます。多くの命を奪った戦争の反省に立ち、当時の日本人は世界に半世紀も先んじた「教育の原点」を確立していたのです。

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「改正」されれば子ども問題は深刻化する

image061212.jpg そんな教育現場にはびこるのは、自己決定と自己責任に基づく競争原理と上意下達の命令や道徳規範、規律です。子どもたちを“調教”しようというのです。まるで競走馬のようです。
生まれつきハンディを負っていたり、“調教”の過程で反抗したり、故障したりすれば、容赦なくはじかれてしまいます。
子どもが成長発達するために必要な人間関係など保障する余裕はありません。

それでなくとも国は「構造改革」や「自由競争」という名で、保護者や教職員の労働条件を悪化し、教育や福祉分野の予算を削減させ、企業優遇の措置を取り続けることで、子どもがすくすくと育つための人間関係を破壊し続けてきました。

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image061211.jpg このような科学的事実から、昨年は国連「子どもの権利委員会」もアタッチメント理論を取り入れた乳幼児の権利に関する見解を出しました。

現代社会では、子どもの人格的・肉体的な発達に欠かせない健全なアタッチメントを育む関係性をつくれなくなっていることから、国連「子どもの権利委員会」は、条約の中核に「自ら身近なおとなとの間に『ありのままで認めてもらえる人間関係』を形成し、自らの成長発達に主体的に参加する権利」である意見表明権(12条)をすえました。そして、それによって子どもたち一人ひとりの持てる力を最大限に引き出し、子どもたちが心身ともにバランスの取れた人間へと成長発達することを保障しようと考えたのです。

ちなみに、子どもの権利条約は子どもの成長発達を保障するための国際的なとりきめですが、日本も1994年に批准し、国内でも大きな拘束力を持っています。

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子どもはおとなに気に入られる“よい子”のふりをすることなく欲求(意見)を表し、それを受け止めてもらうことーーありのままの自分を認めてもらうことーーで、
「自分は愛されている」
「世の中は自分を受け入れてくれている」
という、自己肯定感や基本的信頼感を育みます。そのような感覚を得てはじめて、生来持っている共感能力や自律性、道徳性や好奇心が生まれ、人生を生き抜いていく力を獲得します。

子どもが、人格的にも肉体的にもバランスの取れた人間へと成長発達するためには、子どもをそのままで抱えてくれる人間関係、自分は守られていると感じられる安全基地が不可欠です。

image061207.jpg 今回は、子どもたちが本音を語ることができない現実について書く予定でしたが、急遽変更。緊急事態である教育基本法「改正」について取り上げさせていただきました。

今、教育基本法「改正」案(「改正」案)が参議院で審議されています。
最も「改正」の影響を大きく受ける子ども、そして保護者や現場の教師の多くが、いったい何が論議されているのか、「改正」されれば何がどう変わるのか想像もつかないまま、早ければ今月8日、延びても来週には可決される見通しが強まっています(教育基本法「改正」情報センター)。

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心は現実世界の体験の結果として出来上がるものです。たとえどんなに「正しい」ことであっても、その体験がないことを教え込むことはできません。「命を絶ってはいけない」と倫理を説かれても、「命の素晴らしさ」が実感できなければ、自殺を思いとどまることは出来ないのです。

同じように、子どもの声を聞く余裕などまったくない現実を顧みようともせず、「子どもの声を聞き、子どもが相談できるようにしてください」と保護者に説いたり、「子どもたちを見つめてください」と教員に諭すことが、どれほどの意味を持つでしょう。

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image061127.jpg こうした現実を放置、いえ助長してきた官庁の最高責任者でありながら、「世の中は君を放っているわけじゃない」「必ずだれかが受け止めてくれることを信じてください」「素晴らしい人生を送ってください」と、まるで他人事のような口調で言う彼らは、いったいどういう感覚を持った人たちなのでしょうか。

そもそも、今、死のうとしている子どもに対して、「どんなことがあっても、自らの命を絶ってはいけません」と説くこと自体、理解に苦しみます。
自らの命を絶ってはいけないことくらい、子どもは百も承知です。命を絶とうとしている子どもだって、できることなら友達と遊び、両親にかわいがられ、将来を夢見たいと望んでいます。1日1日を楽しく、生きていきたいと望んでいます。

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『当面の方策』は、「だれよりもいじめる側が悪い」という認識に立って出来上がっており、「弱い者をいじめることは人間として許されない」と強調しました。

当時の文部省職員は、緊急対策のみとなった理由を
「受験競争の弊害など、諸説がいわれているが、原因を追及していたら、中教審で3回の論議は必要。教育の基本論に立ち返るのはやめて、取り急ぎどう防ぐかをまとめた」(『教育新聞』95年3月16日付)
と話しています。

伊吹文部科学大臣や中村教育長の“励まし”を読んで、私が最初に感じたのは

「この人たちは、子どもが置かれている辛い現実を見ようとしたことがあるのか?」

という疑問でした。
1994年11月、愛知県西尾市で当時中学2年生だった大河内清輝君が自殺するという事件が起きました。遺書には、同級生から金銭を要求されたり暴力を受けていたこと、その苦しさを両親にも伝えられず死を選ぶしかなかったこと、などが書かれていました。