心は現実世界の体験の結果として出来上がるものです。たとえどんなに「正しい」ことであっても、その体験がないことを教え込むことはできません。「命を絶ってはいけない」と倫理を説かれても、「命の素晴らしさ」が実感できなければ、自殺を思いとどまることは出来ないのです。
同じように、子どもの声を聞く余裕などまったくない現実を顧みようともせず、「子どもの声を聞き、子どもが相談できるようにしてください」と保護者に説いたり、「子どもたちを見つめてください」と教員に諭すことが、どれほどの意味を持つでしょう。
心は現実世界の体験の結果として出来上がるものです。たとえどんなに「正しい」ことであっても、その体験がないことを教え込むことはできません。「命を絶ってはいけない」と倫理を説かれても、「命の素晴らしさ」が実感できなければ、自殺を思いとどまることは出来ないのです。
同じように、子どもの声を聞く余裕などまったくない現実を顧みようともせず、「子どもの声を聞き、子どもが相談できるようにしてください」と保護者に説いたり、「子どもたちを見つめてください」と教員に諭すことが、どれほどの意味を持つでしょう。
こうした現実を放置、いえ助長してきた官庁の最高責任者でありながら、「世の中は君を放っているわけじゃない」「必ずだれかが受け止めてくれることを信じてください」「素晴らしい人生を送ってください」と、まるで他人事のような口調で言う彼らは、いったいどういう感覚を持った人たちなのでしょうか。
そもそも、今、死のうとしている子どもに対して、「どんなことがあっても、自らの命を絶ってはいけません」と説くこと自体、理解に苦しみます。
自らの命を絶ってはいけないことくらい、子どもは百も承知です。命を絶とうとしている子どもだって、できることなら友達と遊び、両親にかわいがられ、将来を夢見たいと望んでいます。1日1日を楽しく、生きていきたいと望んでいます。
『当面の方策』は、「だれよりもいじめる側が悪い」という認識に立って出来上がっており、「弱い者をいじめることは人間として許されない」と強調しました。
当時の文部省職員は、緊急対策のみとなった理由を
「受験競争の弊害など、諸説がいわれているが、原因を追及していたら、中教審で3回の論議は必要。教育の基本論に立ち返るのはやめて、取り急ぎどう防ぐかをまとめた」(『教育新聞』95年3月16日付)
と話しています。
伊吹文部科学大臣や中村教育長の“励まし”を読んで、私が最初に感じたのは
「この人たちは、子どもが置かれている辛い現実を見ようとしたことがあるのか?」
という疑問でした。
1994年11月、愛知県西尾市で当時中学2年生だった大河内清輝君が自殺するという事件が起きました。遺書には、同級生から金銭を要求されたり暴力を受けていたこと、その苦しさを両親にも伝えられず死を選ぶしかなかったこと、などが書かれていました。
こうした“励まし”のアピールを読んで、みなさんはどう思いますか。
アピールに書かれているようなことができるならば、自殺する子どもなどいるでしょうか。もし「自分を受け止めてくれる」と信じられる人がいれば、子どもは自然に悩みを打ち明けるはずです。「自分は支えられている」と思えるならば、支えてくれている人に、当然、相談するでしょう。
手紙の調査・分析が進み、豊島区(東京都)で投函された可能性が高いとされると、東京都教育委員会の中村正彦教育長も、今月8日に「いじめを許さず、尊い命を守るために」という緊急アピールを行いました。
アピールでは、手紙の差出人である子どもに向けて
「どんなことがあっても自らの命を絶ってはいけません。相談する勇気を持ってください。必ず誰かが受け止めてくれることを信じてください」
と呼びかけています。
「生まれかわったらディープインパクトの子どもで最強になりたい」
そんな言葉を残して福岡県筑前町の中学2年生の男子生徒(13歳)が自殺したのは先月11日。
以来、北海道滝川市や岐阜県瑞浪市などでも、いじめを物語る遺書を残して小中学生が自殺していたことが分かり、子どもたちのいじめ自殺が大きく取り上げられています。
子どもは、おとなと違って白昼夢を見ます。たとえばスーパーマンに変身し「父に殴られる母」を守ったり、守護神をつくって「怒ってばかりいる母」から自分を守るなど、自分だけの安全な場所で空想にひたることで現実の恐怖を乗り越え、辛い出来事を慰めたりするのです。
そうやって「だれにも侵されない自分の世界」を積み重ね、自分らしい価値観をつくることは、やがて自分の足で立ち、世の中に流されずに生きる土台をつくります。
次にはじまるのは異質な者の排除です。いつの時代でも、不安が増大すると地域にとけ込めない“弱者”やみんなと同じように振る舞えない“変わり者”が排除されてきました。たとえば外国人やホームレス、精神障害者などと呼ばれる人たちです。今なら、引きこもりの少年などもその対象になるでしょう。
そうした疎外感が新たな加害者を生むことは、昔から言われてきました。今年2月に滋賀県で起きた、付き添いの保護者に二人の園児が殺された事件からも明らかです。
いったん相互監視と疑心暗鬼の悪循環に陥ってしまうと、そこから抜け出すのは容易ではありません。「安全な共同体の復活」を掲げた防犯活動が疑心暗鬼の増幅に一役買ってしまうこともあります。
過剰な「家の外」での安全対策の裏には、国際競争時代に向けた社会への転換に異論を唱える者を排除しようと目論む国と、セキュリティ産業の活性化を図りたい企業との一致した思惑があります。
このような安全対策は「テロとの戦い」などという名で呼ばれることもあり、9.11以降、全世界に広がり、私たちの日常に少しずつ浸透してきています。