先日の参議院選挙の応援演説中に銃撃され亡くなった安倍晋三元総理大臣の葬儀を「国葬」として執り行うそうです。

異例の早さで、岸田文雄首相が決定しました。

おごった政権

「安倍一強」のなかで、財務省による公文書の改ざん、防衛省による日報の隠蔽、森友・加計の両学園疑惑や桜を見る会の尻切れトンボの幕引き、集団的自衛権の一部行使を容認する「安全保障関連法」の強行採決等々、挙げればキリがありません。

今回、改めて調べてみたら、あまりにも安倍政権時代の疑惑や不正が多すぎて、すっかり忘れていたこともありました。

ちょっと振り返っただけでも、まさに思うままに国政を牛耳り、したい放題、傍若無人なおごった政権だった痕跡がわんさか出てきました。

「島国根性」と表される排他的で、特異なものや異質なものを敬遠する性質は、いったい何に起因するのでしょう。

その一つと考えられるのが、極端に強い同調圧力ではないでしょうか。
同調圧力とは、「集団において、少数意見を持つ人に対して、周囲の多くの人と同じように考え行動するよう、暗黙のうちに強制すること」(コトバンク)。

同調圧力

日本社会では、「多様性」だの「自分らしさ」だのという建前の裏に、「こうするべき」という同調圧力がしっかりと隠れています。

立場が上の人が言っていることや、マジョリティーに対し「自分はそうは思わない」ということはとっても勇気がいります。かく言う私も、日々、なかなか自分の意見を言えない場面に出くわします。

それが忖度や無責任につながっていると分かっていながら、なかなか抜け出せません。

それを象徴するのが、入管行政・入管法の問題です。21年3月には名古屋出入国在留管理局の収容施設でスリランカ人女性が衰弱死しました。

入管庁はこの事件について21年8月に調査報告書を出しました。女性は、1月中旬から急速に健康状態が悪化。食事が満足にできない状態になり、2月15日の検査は「飢餓状態」を示し、会話をまともに交わすこともできなくなっていたといいます。

自国の人口の16%にあたる約41万人のウクライナ人を受け入れたモルドバの面積は九州よりやや小さいくらいの、文字通り小国です。
欧州で最も経済的に厳しい国情であるうえ、個人で避難民を迎える家庭では費用がかさんでいるそうです(『東京新聞』(22年4月13日)。

こうした話を聞くと、世界的に見れば、まだまだ経済大国に入るはずの日本が、たった400人(4月19日時点では661人)程度の受け入れで胸を張っている場合なのでしょうか。

そのほかウクライナに隣接するポーランドには265万人、ルーマニア70万人、ハンガリー43万人、スロバキア32万人、ベラルーシ2万人、ロシア43万人が避難しているとか。人数ではポーランドが圧倒的に多いけれど、人口比だとモルドバが圧倒的に高い割合になるのだそう(同記事)。

日本が大好きです。

たとえば四季折々に違う表情を見せる自然の美しさが好きです。豊かな水田が織りなす風景、たなびく雲を携えた緑の山、深く青く光る夏の海、錦織のように艶やかな紅葉、雪をまとった里山・・・。どれもこれも、私が愛して止まない祖国の姿です。

日本の伝統芸能も大好きです。能や神楽、地唄舞に三味線、和太鼓。とくに地域に伝わる、その土地にしかない、お祭りや音楽には心躍らされます。

何より大好きなのが食べ物です。いわゆる和食だけでなく、世界のどの国の料理もおいしく提供できる日本の職人技にはいつも感激します。

それはきっと、豊かな自然に恵まれた国の豊富な食材のおかげもあるますが、あらゆる命あるものを大事に“いただく”という日本人らしい感性や細やかさの賜ではないかと思います。

「そうは言っても、今さら子ども時代をやり直すことなどできない」
「本人が変わる努力をしなければ」

そんな声が聞こえてきそうです。

脳は変化する

デニクロ

ところで、これも最近、さかんに言われていることですが、虐待を受けると脳が変化します。

たとえば、体罰を長期かつ継続的に受けた人たちの脳は、前頭前野の一部である右前頭前野内側部の容積が平均19.1パーセントも小さくなります。
また暴言にさらされてきた人たちの脳では、スピーチや言語、コミュニケーションに重要な役割を果たす大脳皮質の側頭葉にある「聴覚野」の一部の容積が増加すると言われています(公益社団法人日本心理学会HP「体罰や言葉での虐待が脳の発達に与える影響」)。

こうした虐待が脳に与えるダメージが強調されがちですが、最近の虐待と脳に関する研究では、脳に可逆性、回復力があることも証明されてきています(『児童青年精神医学とその近接領域』57(5)「子ども虐待とケア」)。

デニクロ

植物を見ればよく分かります。ひまわりは、ひまわりの花を付ける、バラはバラとして咲く、サボテンはサボテンとして生きるための“もと”を全部、種の中に持ってこの世に誕生します。

ただし、ひまわりがひまわりとして、バラがバラとして、サボテンがサボテンとして立派に成長するためには、それぞれが必要とする、それぞれが持っているニーズを満たされる必要があります。

サボテンにじゃぶじゃぶと水をやったら、枯れてしまいます。虫の多い環境ではバラは大輪の花を付けませんし、日陰でひまわりは育ちません。

それぞれの植物が持っている特性に合わせた環境や土壌が必要です。植物の特性を無視しして、人間の都合に合わせて育てようとしたら、植物は美しい花を見せてはくれないでしょう。

デニクロ

ここのところ、虐待についての講座や研修をさせていただくことが続いています。
児童相談所の虐待対応件数が20万件を超えているせいなのでしょうか。それとも、おとなになってからも虐待が大きな傷跡を残すことが、理解されてきたせいなのでしょうか。
いずれにせよ、多くの人が虐待に関心をっているような気がします。

しかし、それでも、「何が虐待にあたるのか」についての理解はなかなか深まっていません。
殴る、蹴る、というような明らかな身体暴力や、ご飯を食べさせない、不衛生な衣服のままにさせるという典型的なネグレクトでないと、それが虐待であるとは思いにくいようです。

研修の中でも、「はっきりした虐待歴は無いのに、どうしてここまでの生きづらさを抱えているのか」とか、「被虐体験があればもっと共感的に寄り添えるのだが、そうでないと“わがまま”と感じてしまう」といった類いの意見がありました。

果たして特殊な子どもか?

この高校生は果たして特殊な子どもでしょうか。何か極端な思想や発達の問題を抱えていたのでしょうか。
私にはそうは思えません。

ここまでとは言わなくても、多かれ少なかれ、同様の思いを抱いている子どもはかなりの数になるのではないでしょうか。

今の社会ではこうした「上昇志向」や「競争精神」を小さな頃から植え付けられて育っています。

たとえ言葉で言われなくても、いくつもの習い事に通わされ、そのなかで優劣を付けられることが当たり前になり、学齢期が近づけば受験という“ふるい”が待っています。
「人生はやり直しがきかない。“ふるい”にしがみついて結果を出さなければ、ろくな将来は望めない」
と脅されます。

私たちは、自分の生命が脅かされたとき、防衛のための手段を取ります。最もポピュラーな方法は、「逃走」(逃げる)です。

草原でオオカミに出会った羊は、あらゆる神経を集中させて逃げます。そうして生き延びる道を探すのです。

「窮鼠猫を噛む」

しかし、逃げることに絶望し、逃げる道が完全に絶たれたときは違います。
本来は勝てるはずもない相手に対し、攻撃をしかけます。文字通り、命を賭けた大ばくちに出るのです。

「窮鼠猫を噛む」です。

殺人未遂容疑で逮捕された高校2年生は、まさにそんな状況まで追い詰められていたのではないかと思えて仕方がありません。彼には、「受験をしない」という選択肢などあり得なかったのではないでしょうか。