裏切られたショック以前に、「どうにか丸く収める」ことを考えてしまいそうです。それまで公私に分かって共に歩んできた友人が自分の対応ひとつで窮地に陥るのですから、先のことは考えられず、肩代わりを承諾してしまうかもしれません。
大谷選手の元通訳の事件に思う(2)
大谷選手の元通訳の事件に思う(1)
やはり、だれもが知る大谷翔平選手の元通訳・水原一平さんによるスポーツ賭博事件の影響が大きいのでしょう。水原さんが大谷選手の銀行口座から無断で1600万ドル(約24億円)以上を送金していたことが発覚し、解雇されたニュースはかなりの衝撃でした。
スーパースターである大谷選手とタッグを組み、公私にわたって支えてきた水原さん。事件が発覚する前は、マスコミをはじめ、世論は水原さんにも非常に好意的でした。
大谷選手とまるで“セット”であるかのように、その仲の良さに感心し、大谷選手同様、水原さんの人柄の良さやを並べ立て、ことあるごとに賞賛していました。
小さなうずらの卵が投げかける大きな問題(2)
一定度の刺激(危険なものを含む)を受けることも、実はとても重要なのです。そうした刺激によって、身を守る術や対処方法を知っていくというだけでなく、「安全」な関係や環境、領域などが分かるようになります。
先回りして危険を除去し、守られているばかりでは、「いざ」というときに自分を守ることもできなくなります。
安全基地とは
安全基地の役割は、子どもが求めているとき(必要なときに)にはきちんと助け、それ以外のときには「どーんと構えて待つ」こと。子どもが冒険したり、傷ついたりして帰ってきたときに、そこでエネルギーを充填できるような場所になることです。
だから間違っても、「子どもが心配」と、くっついて動き回ったりしてはいけません。先回りしてシールドになったり、おろおろとしているのもダメです。
「うずらの卵排除」に象徴される、「あらゆる危険因子を子どもから遠ざけよう」というおとなは、逆に子どもの成長発達を妨げる有害なおとなになってしまいます。
それなのに、なんでもかんでも排除しようという様子に、違和感を感じたのだと思います。
だれも責任を取らない国
それからもう一つ。
「子どもを守る」という、だれもが反論しづらい正論を隠れ蓑に、「面倒ごとは御免被る」という態度が透けて見えたからでしょうか。
子どもは冒険をするものです。・・・というより、冒険することで成長していきます。でも、冒険には危険がつきものです。細心の注意を払っても事故を100%防ぐことはできません。事故が起これば、その責任はおとなが引き受けねばなりません。
そんな手間や労力、責任を引き受けたくないなら、「危険なものはすべて排除」が一番楽です。
小さなうずらの卵が、不正や汚職、裏金にどっぷり浸かった政治家たちが跋扈する「だれも責任を取らないこの国の姿をありありと浮かび上がらせた気がします。
小さなうずらの卵が投げかける大きな問題(1)
このニュースがネットで拡散すると、「かわいそう」といったコメントが相次ぎました。
ところが翌日、文部科学省が注意喚起を通知し、大分県佐伯市ほかの自治体が、「当面、給食にうずらの卵を使わない」とする通知を出したあたりから、様子は変わっていきす。
「危険要素を排除すればいいのか」「そのうち食べられる物がなくなる」など意見が増えていったのです。
日本の若者は褒められて育っているのか?(3)
最近、保育や教育、さらには人材育成などの分野でも注目されているレジリエンス(resilience)を高めるのです。
レジリエンスとは、「回復力」「弾性(しなやかさ)」を意味する英単語です。
心理学的には、「心の(精神的)回復力」とか「過酷な環境にも対応する力」などと考えられています。
つまり、逆境やトラブル、ストレスフルな状況に置かれても、「心折れずにいられる力」ということになるでしょうか。
そうした心の持ち主をレジリエント(resilient)な人と呼びます。
日本の若者は褒められて育っているのか?(2)
当たり前です。
同情とは、「他者の痛みを『その人のもの』として外側から眺めて感じる辛さや悲しみ」などのこと。 誤解を恐れずに言うなら、「他人事」としてと眺めることです。
「他者の痛みを 『自分のこと』として感じて(もしくは感じようとして) 共にあろうとする」共感とは全く違います。
また、善意は、それを行う側の視点で「良いと思うこと」ですから、同情して(他人事として)いる限り、 相手の望みとズレてしまうことは、往々にして起こります。
「善意の押し付け」が、独りよがりで迷惑なものになりがちだということは、みなさんも経験があるのではないでしょうか。
日本の若者は褒められて育っているのか?
能登半島地震で被災した方々に、心よりお悔やみ申し上げます。いまだインフラも復旧せず、悪天候のなか大変な生活を強いられていることに思いを馳せると心が苦しくなります。
被災地には私のクライアントさんもおられ、どうされていることか日々、案じております。
そんなある日、「褒められて育った子が災害ボランティアをすぐにやめる理由」 (『文春オンライン』 2024年1月17日) というタイトルのネットニュースが目に留まりました。
褒められて育った子は「打たれ強く、自身の感情や気持ちに正直」 であることが多いので、
ボランティアを始めても「『無理をしない』という選択肢を容易に選べるということなのか?」と、読んでみたところ、 ちょっと違うようでした。
数日で心折れて戻る学生
その縁で、40名ほどの学生を能登半島地震の被災地へと送り出す機会があったとのこと。
記事によると、そんな学生さんのうち、数日で心が折れ、戻って来てしまう学生が複数いたというのです。
確かに、被災地の状況は過酷です。
場所によっては、インフラは破壊され、食料も水もトイレもない。燃料も底をつく中で悪天候に見舞われるということもあったでしょう。記事によると、当たり前ではありますが、被災された方々や現地に派遣された職員の方々は言葉少なで、いら立っていることもあったようです。
「底の薄いスニーカーで出向いて、釘を踏み抜いて帰ってきた」 というケースなども報告されていて、「役に立ちたい」という学生さんたちの思いと「甘くない現実」の大きなギャップを感じました。
同情と善意だけでは無理
そして、「同情と善意だけでは、被災地の理不尽な環境を乗り越えられるだけの覚悟も準備もできていなかった」と述べています。
推し活依存症(4)
もちろん、依存症はだれでもなりえる病です。 が、少なくとも「依存症にはならないほうがよい」と思われてきたし、依存症に対しての一定の警戒感がありました。
物質への依存であるアルコールや薬などは、直接的な身体への影響があるため、比較的、気付きやすい依存症でした。また、行為への依存でも、ギャンブルなどにはまるのはやはり“一部の人”というイメージがあったでしょう。
推し活依存症(3)
ある人が「推し活」の魅力をこんなふうに話していました。
「『推し』を応援していると、自分が必要とされている感じがする。 私が応援してるから、『推し』の子が輝ける・ 私がいるから『推し』の子がやっていけている、と思える」
裏を返せば、日常のなかでは「自分が必要とされている」と思えていないということです。日々、生き生きとした感覚を持てず、生きている意味を感じられないということです。
『文春オンライン』 (23年7月29日) に登場した 「立ちんぼで 「1日15万円稼ぐ」ことが日課になった19歳」 は、立ちんぼをして稼いだ金をホストに使う理由をこう表現していました。
「暇なんで」
推し活依存症(2)
でっかく稼ぐつもりで家を後にし、気が付いたらすっからかん。「来年こそは」と思っているうちに年月が過ぎ、年を取り、いつしか家に戻ることもできなくなってしまったおじさんたち。
墨田川沿いにテントを張り、 山谷の段ボールハウスで寝転んでいたおじさんたちのことが、ありありと思い出されました。
声をかけると、怯えてテントの隅に身を寄せたおじさん。過去を洗い流すようにアルコールを流し込んでいたおじさん。配られたおにぎりをまるで宝物のようにそっと手に乗せていたおじさん・・・。
そんなおじさんたちから、たくさんの身の上話を聞きました。