最近、保育や教育、さらには人材育成などの分野でも注目されているレジリエンス(resilience)を高めるのです。
レジリエンスとは、「回復力」「弾性(しなやかさ)」を意味する英単語です。
心理学的には、「心の(精神的)回復力」とか「過酷な環境にも対応する力」などと考えられています。
つまり、逆境やトラブル、ストレスフルな状況に置かれても、「心折れずにいられる力」ということになるでしょうか。
そうした心の持ち主をレジリエント(resilient)な人と呼びます。
最近、保育や教育、さらには人材育成などの分野でも注目されているレジリエンス(resilience)を高めるのです。
レジリエンスとは、「回復力」「弾性(しなやかさ)」を意味する英単語です。
心理学的には、「心の(精神的)回復力」とか「過酷な環境にも対応する力」などと考えられています。
つまり、逆境やトラブル、ストレスフルな状況に置かれても、「心折れずにいられる力」ということになるでしょうか。
そうした心の持ち主をレジリエント(resilient)な人と呼びます。
当たり前です。
同情とは、「他者の痛みを『その人のもの』として外側から眺めて感じる辛さや悲しみ」などのこと。 誤解を恐れずに言うなら、「他人事」としてと眺めることです。
「他者の痛みを 『自分のこと』として感じて(もしくは感じようとして) 共にあろうとする」共感とは全く違います。
また、善意は、それを行う側の視点で「良いと思うこと」ですから、同情して(他人事として)いる限り、 相手の望みとズレてしまうことは、往々にして起こります。
「善意の押し付け」が、独りよがりで迷惑なものになりがちだということは、みなさんも経験があるのではないでしょうか。
能登半島地震で被災した方々に、心よりお悔やみ申し上げます。いまだインフラも復旧せず、悪天候のなか大変な生活を強いられていることに思いを馳せると心が苦しくなります。
被災地には私のクライアントさんもおられ、どうされていることか日々、案じております。
そんなある日、「褒められて育った子が災害ボランティアをすぐにやめる理由」 (『文春オンライン』 2024年1月17日) というタイトルのネットニュースが目に留まりました。
褒められて育った子は「打たれ強く、自身の感情や気持ちに正直」 であることが多いので、
ボランティアを始めても「『無理をしない』という選択肢を容易に選べるということなのか?」と、読んでみたところ、 ちょっと違うようでした。
数日で心折れて戻る学生
その縁で、40名ほどの学生を能登半島地震の被災地へと送り出す機会があったとのこと。
記事によると、そんな学生さんのうち、数日で心が折れ、戻って来てしまう学生が複数いたというのです。
確かに、被災地の状況は過酷です。
場所によっては、インフラは破壊され、食料も水もトイレもない。燃料も底をつく中で悪天候に見舞われるということもあったでしょう。記事によると、当たり前ではありますが、被災された方々や現地に派遣された職員の方々は言葉少なで、いら立っていることもあったようです。
「底の薄いスニーカーで出向いて、釘を踏み抜いて帰ってきた」 というケースなども報告されていて、「役に立ちたい」という学生さんたちの思いと「甘くない現実」の大きなギャップを感じました。
同情と善意だけでは無理
そして、「同情と善意だけでは、被災地の理不尽な環境を乗り越えられるだけの覚悟も準備もできていなかった」と述べています。
もちろん、依存症はだれでもなりえる病です。 が、少なくとも「依存症にはならないほうがよい」と思われてきたし、依存症に対しての一定の警戒感がありました。
物質への依存であるアルコールや薬などは、直接的な身体への影響があるため、比較的、気付きやすい依存症でした。また、行為への依存でも、ギャンブルなどにはまるのはやはり“一部の人”というイメージがあったでしょう。
ある人が「推し活」の魅力をこんなふうに話していました。
「『推し』を応援していると、自分が必要とされている感じがする。 私が応援してるから、『推し』の子が輝ける・ 私がいるから『推し』の子がやっていけている、と思える」
裏を返せば、日常のなかでは「自分が必要とされている」と思えていないということです。日々、生き生きとした感覚を持てず、生きている意味を感じられないということです。
『文春オンライン』 (23年7月29日) に登場した 「立ちんぼで 「1日15万円稼ぐ」ことが日課になった19歳」 は、立ちんぼをして稼いだ金をホストに使う理由をこう表現していました。
「暇なんで」
でっかく稼ぐつもりで家を後にし、気が付いたらすっからかん。「来年こそは」と思っているうちに年月が過ぎ、年を取り、いつしか家に戻ることもできなくなってしまったおじさんたち。
墨田川沿いにテントを張り、 山谷の段ボールハウスで寝転んでいたおじさんたちのことが、ありありと思い出されました。
声をかけると、怯えてテントの隅に身を寄せたおじさん。過去を洗い流すようにアルコールを流し込んでいたおじさん。配られたおにぎりをまるで宝物のようにそっと手に乗せていたおじさん・・・。
そんなおじさんたちから、たくさんの身の上話を聞きました。
ここのところ一斉摘発やら、ホストクラブの取り締まり強化があり、通常よりかなり閑散としていると聞きましたが、私が行った日もちょっとしたバザー並みには人が集まっていました。
ぱっと見は高校生くらいな男女が数人ずつのかたまりで、あちこちに座り込んでは、飲んだり、食べたり、しゃべったり。そして、すぐ側にある都立大久保病院周辺にはいわゆる「たちんぼ」と思われる女子の姿も・・・。
しかし、「いじめそのものが不登校の原因」かと問われると、少し疑問もあります。
確かにいじめは、不登校のきっかけとなる原因のひとつです。でも、周囲のおとなが、その子どもの辛さをきちんと受け止め、共に悩み・考え、真摯に向き合いながら助けようと努力したなら・・・。子どもの気持ちはだいぶ変わってくる可能性があるのではないでしょうか。
旭川女子中学生いじめ凍死事件
女子中学生は、上級生の男子生徒から裸の画像を送るよう強制され、それを拡散されたりしていました。いじめはエスカレートし、深夜に呼び出されたり、目の前での自慰行為を強要されるなどしていたと言います。
女子中学生は、いじめを受けていた2019年6月学校に電話して「死にたい」と訴えて、自ら川に入ったりもしていました。学校は上級生らから聞き取りをする一方、女子生徒本人には事情を聞かないまま、「いじめではない」と判断しました。女子生徒の母親は、学校にたびたび相談したのに、じめを否定され続けたそうです(『読売新聞オンライン』22年4月16日)。
いじめの認定は訴えから3年後
その後、転校するも女子中学生は不登校となり、SNSで「いじめを受けてから1年たちそうなのに私は何もできません。何もかもが恐くてたまらない」などと発信していました。
警察が動く事態にもなっていましたが、学校や教育委員会の動きは鈍く、いじめが認定されたのは訴えから3年たってからでした。
何が不登校、自殺へと追い込んだか
はたして、彼女を不登校、そして自殺へと追い込んだのはいじめっこたちだったのか。私にはそうは思えません。そうではなく「こんな地獄に自分を置き去りにしたまま平然としているおとなたち」だったのではないでしょうか。
「自分がこんなに辛いのに、その状況を放置しておく世界」ーーそれが「怖くてたまらなかった」のではないか? と思ってしまうのです。
本当の責任はおとなと社会にある
なぜこんなことまでされながらも、自分を責め、おとなたちへの怒りさえも出そうとしなかったのか。彼女のそれまでの人生も気になりました。
もちろん、いじめはあってはならないことです。不登校のきっかけになることも十分に考えられます。しかし、子どもを本当に追い込んでいるのは、「事なかれ主義」で保身に走る、私たちおとなと社会そのものなのではないでしょうか。
全国の国公私立小中学校で30日以上欠席した不登校の数は10年連続の増加となり、29万9048人と過去最多を更新しています。『共同通信』(23年10月4日配信)によると、この2年間は前年度からの増加幅が2割を超え、計約10万人の大幅な増加となっているとか。
また、いじめ認知件数は10.8%(6万6597件)増の68万1948件で、身体的被害や長期欠席などが生じた「重大事態」は217件増の923件に上り、いずれも最多でした。
「いじめが理由」は0.3%
不登校といじめの関連性については、常々言われています。が、同調査では、学校が不登校の理由(3つまで選択可)と判断した「いじめ」はなんと954人(0.3%)という少なさでした。
文部科学省は、「必ずしも学校に行く必要はないとの認識が広まったことなどが不登校増加の要因」という認識で(同上)、専門家らから疑問の声が上がっています。
いじめへの認識が違う?
『東京新聞』(23年10月19日)は、他の文科省の各種調査と比較分析した東京電機大の鈴木翔准教授の下記のようなコメントを載せています。鈴木准教授によると、不登校を経験した児童生徒や保護者が直接回答した20年度「不登校児童生徒の実態調査」(20年度)から、不登校のきっかけが「友達のこと(いやがらせや、いじめがあった)」と回答したのは小学生25.2%、中学生25.5%だったそうです。
「(両調査はサンプル数が異なり『単純比較できない』とした上で)「いじめに対する子どもと学校の認識に大きな隔たりがあるのでは」
学校は子どもの世界のほぼすべて
子どもからすれば、学校から逃れることなど到底考えれません。
そんな「人生そのもの」の場所が、針のむしろになってしまったとしたら・・・。どれほどの苦痛を味わうことか。その絶望感たるや、想像を絶するほどではないでしょうか。
さらに言うと、乳幼児は、自分の泣き叫びを受け止め、応えてもらうことによって、「自分は大切なのだ」という自己肯定感や、 「助けを求めれば周囲は手を差し伸べてくれる」という基本的信頼感を育てて行きます。
コロナ禍で増える「~べき」
こうした感覚は、辛く困難が多い人生を生き延びていくために、不可欠なものです。
「怒り」を安心して表出し、受け止められる経験がなければ、自己否定感のほうが強くなり、他者を頼れない孤独で寂しい人間にならざるを得ません。
泣き叫びから、他者に伝わりやすい態度や言葉、やがては意見表明へと洗練されていくはずの「怒り」の表出方法も拙いままになります。それでは、タガが外れれば、制御不能のマグマとして噴出してしまって当然でしょう。
恐ろしいことに、適応的な 「良い子モード」の強要は、コロナ禍を経て、近年ますます加速しているように見えます。あらゆる場所で許容範囲が狭まり、「~べき」が増えているように感じます。
「良い子モード」のトレーニング
そうして知らず知らずのうちに、空気を呼んで、 同調し、その場に適応するよう、子どもに要求していくのです。それは「良い子モード」でいるよう、子どもをトレーニングしているようなものです。
そのなれの果ては、低い自己肯定感、強い孤独感、低い精神的幸福度を持ったおとなです。そんな不幸な人生を子どもに歩ませるかどうか。それは私たちおとなにかかっています。