最近、ある地域活動をしている方々の集まりで、都内のある小学校のこんな話を聞きました。

「8時15分から25分の10分間に教室に入れるよう登校しなければならいというルールがあるんです。もし、それより早く登校した場合は昇降口で学年ごとに、校帽をかぶったまま整然と並んで待つのが決まり。校庭で遊んでも、教室に入ってもダメ」

絶句する私をよそに、他の人から「家の近所の学校も!」という声がいくつも上がりました。

まるで軍事訓練です。いったいなぜ? ある保護者はこう推測します。

「たぶん、安全の問題だと思います。まだ先生たちも教室にいないし、目の行き届かないところで何かあれば困るから、『おとなしくじーっとしていて欲しい』ということなのではないでしょうか」

またもやおとなの都合優先! こうやって子どもの欲求を潰していくのです。

子どもらしさを削がれた子ども

カウンセリングの場でも、「登下校中の子どもの問題行動」として、「一列に並べない」とか「興味があるものがあると立ち止まる」とか、「友達と大声ではしゃぐ」などがあがることがあります。

そのいったい何がいけないのか? 首をかしげるばかりです。子どもは道草をくったり、興味のあるものに惹かれたり、はしゃいだりするものです。それが「子どもらしさ」です。興味関心が子どもの好奇心を育て、生きる力につながります。

うちの近所でも登校時の私語が禁じられているのか、無言で静々と並んで歩く小学生を見かけます。まるで葬式の参列のようで、いつも心配になります。

黙って従う国民づくりのリハーサル

もう数十年前になりますが、法律の専門家から「校則は馬鹿馬鹿しいほどいい。馬鹿馬鹿しいルールにも黙って従い、お上(上司や行政)の言うことには『はい』と言っておとなしく従う国民をつくるためのリハーサルだから」と聞き、膝を打ったことがあります。

実は校則の存在は、私にとって長い間、謎でした。

小中高を通して、「どうしてスカートの丈は膝下10センチでないといけないのか」「なぜ、肩についた髪は結わかないといけないのか」「鉛筆はよくてシャープペンシルはダメなのか」・・・。学校には謎のルールがたくさんありました。

教師に尋ねても「決まりだから」と言われるだけ。食い下がると、「面倒な子ども」という顔をされました。いつも判然としない、もやっとした思いを抱えながら、なんとなく過ごしていました。

でも、もしそれが「黙って従う国民(良民)づくりのリハーサル」だと言われれば、「なるほど、それは有効だ! と思えます。

『夢の国から修羅の国に』ディズニーランドが“ガチ勢”御用達のラーメン二郎系テーマパークへと変貌か…価格高騰・システム複雑化にファンからは悲しみの声も

最近、そんなネット記事を読みました。

どんな記事だったのか。ごく簡単に記事の内容をまとめると、「入念な下調べ(ができるスキル)と潤沢な資金を持った“ガチ勢”でないと、もはや楽しめない」ということらしいです。

記事には「家族で存分に楽しもうとすると、海外旅行並みの金額になってしまううえ、子どもには理解不能なシステムばかり」という嘆きの声も紹介されていました。

まさに、今の世の中を象徴する“夢の国”ではありませんか。

夢を持てない日本の子どもたち

ディズニーランドの記事を読み、思い出したのが、やはり最近読んだあるネット記事。「日本では『夢をみられない』子どもが4割。『ミスが許されない』ことが起こす弊害」です。

もとになっているのは、2022年5月に経済産業省が発表した「未来人材ビジョン」です。
これによると、18歳未満で「将来の夢を持っている」と答えた子どもが日本では60%に止まっています。

他の国は80~90%を超えているのに、です。

同調査は、夢を持っている18歳未満が少ない現状と、やはり他国に比べて低い「国や社会を変えられると思う」(18%)、「自分の国に解決したい社会課題がある」(46%)という結果を合わせ、「日本の18歳の社会への当事者意識は低い」と分析しています。

そして、学校教育が「目指してきた理想」と「今の現実」の解離をどう埋めるのか、と述べています。

未来人材ビジョン

私からすれば、「まさに日本が目指してきた教育の結果」という感じです。

何しろ、日本は、国連「子どもの権利委員会」から「過度に競争的でストレスの多い学校環境から子どもを解放せよ」と勧告(第4/5回日本政府報告審査に対する国連からの『総括所見』パラグラフ39)と言われてしまう国です。

「多様性」だの「個性の尊重」だのといいながら、実際には、「こうあるべき」が決まっていて、そこからはみ出すと「ああ、発達障害だからね」と片付けられてしまいます。「自主性を持つ」ことは推奨されますが、本当に自ら考え、主張したりしたら、「問題のある子」にされてしまいます。

その最たる場所が学校(教育の場)です。

信頼し、公私に渡って共に歩んできた親友が、自分のお金を使い込んでいた。その事実だけでも、もし私だったら頭が真っ白になりそうです。さらにその肩代わりを頼まれたら・・・。冷静な判断などできるでしょうか。

裏切られたショック以前に、「どうにか丸く収める」ことを考えてしまいそうです。それまで公私に分かって共に歩んできた友人が自分の対応ひとつで窮地に陥るのですから、先のことは考えられず、肩代わりを承諾してしまうかもしれません。

ここのところ「依存症」に関するニュースが目につきます。

やはり、だれもが知る大谷翔平選手の元通訳・水原一平さんによるスポーツ賭博事件の影響が大きいのでしょう。水原さんが大谷選手の銀行口座から無断で1600万ドル(約24億円)以上を送金していたことが発覚し、解雇されたニュースはかなりの衝撃でした。

スーパースターである大谷選手とタッグを組み、公私にわたって支えてきた水原さん。事件が発覚する前は、マスコミをはじめ、世論は水原さんにも非常に好意的でした。
大谷選手とまるで“セット”であるかのように、その仲の良さに感心し、大谷選手同様、水原さんの人柄の良さやを並べ立て、ことあるごとに賞賛していました。

何もかもおとなが手を出していれば、子どもは、間違ったり、工夫したりしながら、自分の力で達成するという機会を持てません。それでは自己効力感や自信も育ちません。

一定度の刺激(危険なものを含む)を受けることも、実はとても重要なのです。そうした刺激によって、身を守る術や対処方法を知っていくというだけでなく、「安全」な関係や環境、領域などが分かるようになります。
先回りして危険を除去し、守られているばかりでは、「いざ」というときに自分を守ることもできなくなります。

安全基地とは

もちろん、子どもが自らの力を伸ばすには、安心や安全を与えてくれる「安全基地」(慰め、守ってくれるおとな)は不可欠です。しかしそれは、「あらゆる困難の防波堤になってくれるおとな」のことではありません。

安全基地の役割は、子どもが求めているとき(必要なときに)にはきちんと助け、それ以外のときには「どーんと構えて待つ」こと。子どもが冒険したり、傷ついたりして帰ってきたときに、そこでエネルギーを充填できるような場所になることです。

だから間違っても、「子どもが心配」と、くっついて動き回ったりしてはいけません。先回りしてシールドになったり、おろおろとしているのもダメです。
「うずらの卵排除」に象徴される、「あらゆる危険因子を子どもから遠ざけよう」というおとなは、逆に子どもの成長発達を妨げる有害なおとなになってしまいます。
それなのに、なんでもかんでも排除しようという様子に、違和感を感じたのだと思います。

だれも責任を取らない国

それからもう一つ。
「子どもを守る」という、だれもが反論しづらい正論を隠れ蓑に、「面倒ごとは御免被る」という態度が透けて見えたからでしょうか。
子どもは冒険をするものです。・・・というより、冒険することで成長していきます。でも、冒険には危険がつきものです。細心の注意を払っても事故を100%防ぐことはできません。事故が起これば、その責任はおとなが引き受けねばなりません。

そんな手間や労力、責任を引き受けたくないなら、「危険なものはすべて排除」が一番楽です。
小さなうずらの卵が、不正や汚職、裏金にどっぷり浸かった政治家たちが跋扈する「だれも責任を取らないこの国の姿をありありと浮かび上がらせた気がします。

2024年2月、福岡県みやま市でうずらの卵をのどに詰まらせ小1男児が死亡するという痛ましい事件がありました。
このニュースがネットで拡散すると、「かわいそう」といったコメントが相次ぎました。

ところが翌日、文部科学省が注意喚起を通知し、大分県佐伯市ほかの自治体が、「当面、給食にうずらの卵を使わない」とする通知を出したあたりから、様子は変わっていきす。

「危険要素を排除すればいいのか」「そのうち食べられる物がなくなる」など意見が増えていったのです。

それからもう一つ、褒められ、愛された経験は重要な能力を育てます。

最近、保育や教育、さらには人材育成などの分野でも注目されているレジリエンス(resilience)を高めるのです。

レジリエンスとは、「回復力」「弾性(しなやかさ)」を意味する英単語です。
心理学的には、「心の(精神的)回復力」とか「過酷な環境にも対応する力」などと考えられています。

つまり、逆境やトラブル、ストレスフルな状況に置かれても、「心折れずにいられる力」ということになるでしょうか。
そうした心の持ち主をレジリエント(resilient)な人と呼びます。

「同情と善意だけではどうにもならない」

当たり前です。
同情とは、「他者の痛みを『その人のもの』として外側から眺めて感じる辛さや悲しみ」などのこと。 誤解を恐れずに言うなら、「他人事」としてと眺めることです。

「他者の痛みを 『自分のこと』として感じて(もしくは感じようとして) 共にあろうとする」共感とは全く違います。

また、善意は、それを行う側の視点で「良いと思うこと」ですから、同情して(他人事として)いる限り、 相手の望みとズレてしまうことは、往々にして起こります。

「善意の押し付け」が、独りよがりで迷惑なものになりがちだということは、みなさんも経験があるのではないでしょうか。

能登半島地震で被災した方々に、心よりお悔やみ申し上げます。いまだインフラも復旧せず、悪天候のなか大変な生活を強いられていることに思いを馳せると心が苦しくなります。
被災地には私のクライアントさんもおられ、どうされていることか日々、案じております。

そんなある日、「褒められて育った子が災害ボランティアをすぐにやめる理由」 (『文春オンライン』 2024年1月17日) というタイトルのネットニュースが目に留まりました。

褒められて育った子は「打たれ強く、自身の感情や気持ちに正直」 であることが多いので、
ボランティアを始めても「『無理をしない』という選択肢を容易に選べるということなのか?」と、読んでみたところ、 ちょっと違うようでした。

数日で心折れて戻る学生

筆者は山本一郎氏。プロフィールを見ると作家で投資家。介護や子ども、投資に関して研究していて、甲信越にある大学や施設と関係が深いそうです。

その縁で、40名ほどの学生を能登半島地震の被災地へと送り出す機会があったとのこと。
記事によると、そんな学生さんのうち、数日で心が折れ、戻って来てしまう学生が複数いたというのです。

確かに、被災地の状況は過酷です。

場所によっては、インフラは破壊され、食料も水もトイレもない。燃料も底をつく中で悪天候に見舞われるということもあったでしょう。記事によると、当たり前ではありますが、被災された方々や現地に派遣された職員の方々は言葉少なで、いら立っていることもあったようです。

「底の薄いスニーカーで出向いて、釘を踏み抜いて帰ってきた」 というケースなども報告されていて、「役に立ちたい」という学生さんたちの思いと「甘くない現実」の大きなギャップを感じました。

同情と善意だけでは無理

山本氏は「学びとはそういうところにあるのだ」、「公務員を目指す子もいるので住民のために指名を果たす体験ができるのは大事なこと」と肯定的にとらえてもいます。が、他方、「日頃、人格円満で、褒められて育った自信満々の子たちが、現地入りして割と早期からストレスを溜めた現地の人たちとのコミュニケーションに行き詰まり、帰ってきてしまう現象が今回、特に多い」との懸念を示しています。

そして、「同情と善意だけでは、被災地の理不尽な環境を乗り越えられるだけの覚悟も準備もできていなかった」と述べています。

恐ろしいのは、そんな「推し活」依存症が、今や市民権を得ているということです。

もちろん、依存症はだれでもなりえる病です。 が、少なくとも「依存症にはならないほうがよい」と思われてきたし、依存症に対しての一定の警戒感がありました。

物質への依存であるアルコールや薬などは、直接的な身体への影響があるため、比較的、気付きやすい依存症でした。また、行為への依存でも、ギャンブルなどにはまるのはやはり“一部の人”というイメージがあったでしょう。