能登半島地震で被災した方々に、心よりお悔やみ申し上げます。いまだインフラも復旧せず、悪天候のなか大変な生活を強いられていることに思いを馳せると心が苦しくなります。
被災地には私のクライアントさんもおられ、どうされていることか日々、案じております。

そんなある日、「褒められて育った子が災害ボランティアをすぐにやめる理由」 (『文春オンライン』 2024年1月17日) というタイトルのネットニュースが目に留まりました。

褒められて育った子は「打たれ強く、自身の感情や気持ちに正直」 であることが多いので、
ボランティアを始めても「『無理をしない』という選択肢を容易に選べるということなのか?」と、読んでみたところ、 ちょっと違うようでした。

数日で心折れて戻る学生

筆者は山本一郎氏。プロフィールを見ると作家で投資家。介護や子ども、投資に関して研究していて、甲信越にある大学や施設と関係が深いそうです。

その縁で、40名ほどの学生を能登半島地震の被災地へと送り出す機会があったとのこと。
記事によると、そんな学生さんのうち、数日で心が折れ、戻って来てしまう学生が複数いたというのです。

確かに、被災地の状況は過酷です。

場所によっては、インフラは破壊され、食料も水もトイレもない。燃料も底をつく中で悪天候に見舞われるということもあったでしょう。記事によると、当たり前ではありますが、被災された方々や現地に派遣された職員の方々は言葉少なで、いら立っていることもあったようです。

「底の薄いスニーカーで出向いて、釘を踏み抜いて帰ってきた」 というケースなども報告されていて、「役に立ちたい」という学生さんたちの思いと「甘くない現実」の大きなギャップを感じました。

同情と善意だけでは無理

山本氏は「学びとはそういうところにあるのだ」、「公務員を目指す子もいるので住民のために指名を果たす体験ができるのは大事なこと」と肯定的にとらえてもいます。が、他方、「日頃、人格円満で、褒められて育った自信満々の子たちが、現地入りして割と早期からストレスを溜めた現地の人たちとのコミュニケーションに行き詰まり、帰ってきてしまう現象が今回、特に多い」との懸念を示しています。

そして、「同情と善意だけでは、被災地の理不尽な環境を乗り越えられるだけの覚悟も準備もできていなかった」と述べています。

恐ろしいのは、そんな「推し活」依存症が、今や市民権を得ているということです。

もちろん、依存症はだれでもなりえる病です。 が、少なくとも「依存症にはならないほうがよい」と思われてきたし、依存症に対しての一定の警戒感がありました。

物質への依存であるアルコールや薬などは、直接的な身体への影響があるため、比較的、気付きやすい依存症でした。また、行為への依存でも、ギャンブルなどにはまるのはやはり“一部の人”というイメージがあったでしょう。

ある人が「推し活」の魅力をこんなふうに話していました。

「『推し』を応援していると、自分が必要とされている感じがする。 私が応援してるから、『推し』の子が輝ける・ 私がいるから『推し』の子がやっていけている、と思える」

裏を返せば、日常のなかでは「自分が必要とされている」と思えていないということです。日々、生き生きとした感覚を持てず、生きている意味を感じられないということです。

文春オンライン』 (23年7月29日) に登場した 「立ちんぼで 「1日15万円稼ぐ」ことが日課になった19歳」 は、立ちんぼをして稼いだ金をホストに使う理由をこう表現していました。

「暇なんで」

話を聞いて思い出したのは、私がまだ記者をしてた20年以上前に取材したホームレスのおじさんたちです。

でっかく稼ぐつもりで家を後にし、気が付いたらすっからかん。「来年こそは」と思っているうちに年月が過ぎ、年を取り、いつしか家に戻ることもできなくなってしまったおじさんたち。
墨田川沿いにテントを張り、 山谷の段ボールハウスで寝転んでいたおじさんたちのことが、ありありと思い出されました。

声をかけると、怯えてテントの隅に身を寄せたおじさん。過去を洗い流すようにアルコールを流し込んでいたおじさん。配られたおにぎりをまるで宝物のようにそっと手に乗せていたおじさん・・・。

そんなおじさんたちから、たくさんの身の上話を聞きました。

最近、トー横に行く機会がありました。
新宿歌舞伎町にあるTOHOシネマズ横の通路、そこに集まる若者たちのコミュニティというかエリアである、あのトー横です。

ここのところ一斉摘発やら、ホストクラブの取り締まり強化があり、通常よりかなり閑散としていると聞きましたが、私が行った日もちょっとしたバザー並みには人が集まっていました。
ぱっと見は高校生くらいな男女が数人ずつのかたまりで、あちこちに座り込んでは、飲んだり、食べたり、しゃべったり。そして、すぐ側にある都立大久保病院周辺にはいわゆる「たちんぼ」と思われる女子の姿も・・・。

しかし、「いじめそのものが不登校の原因」かと問われると、少し疑問もあります。

確かにいじめは、不登校のきっかけとなる原因のひとつです。でも、周囲のおとなが、その子どもの辛さをきちんと受け止め、共に悩み・考え、真摯に向き合いながら助けようと努力したなら・・・。子どもの気持ちはだいぶ変わってくる可能性があるのではないでしょうか。

旭川女子中学生いじめ凍死事件

忘れられないいじめ事件があります。21年におきた旭川女子中学生いじめ凍死事件です。

女子中学生は、上級生の男子生徒から裸の画像を送るよう強制され、それを拡散されたりしていました。いじめはエスカレートし、深夜に呼び出されたり、目の前での自慰行為を強要されるなどしていたと言います。

女子中学生は、いじめを受けていた2019年6月学校に電話して「死にたい」と訴えて、自ら川に入ったりもしていました。学校は上級生らから聞き取りをする一方、女子生徒本人には事情を聞かないまま、「いじめではない」と判断しました。女子生徒の母親は、学校にたびたび相談したのに、じめを否定され続けたそうです(『読売新聞オンライン』22年4月16日)。

いじめの認定は訴えから3年後

その後、転校するも女子中学生は不登校となり、SNSで「いじめを受けてから1年たちそうなのに私は何もできません。何もかもが恐くてたまらない」などと発信していました。

警察が動く事態にもなっていましたが、学校や教育委員会の動きは鈍く、いじめが認定されたのは訴えから3年たってからでした。

何が不登校、自殺へと追い込んだか

はたして、彼女を不登校、そして自殺へと追い込んだのはいじめっこたちだったのか。私にはそうは思えません。そうではなく「こんな地獄に自分を置き去りにしたまま平然としているおとなたち」だったのではないでしょうか。

「自分がこんなに辛いのに、その状況を放置しておく世界」ーーそれが「怖くてたまらなかった」のではないか? と思ってしまうのです。

本当の責任はおとなと社会にある

また、女子中学生のSNSなどからは、「自分が悪い」「自分でどうにかしなくては」といった思いも読み取れました。

なぜこんなことまでされながらも、自分を責め、おとなたちへの怒りさえも出そうとしなかったのか。彼女のそれまでの人生も気になりました。

もちろん、いじめはあってはならないことです。不登校のきっかけになることも十分に考えられます。しかし、子どもを本当に追い込んでいるのは、「事なかれ主義」で保身に走る、私たちおとなと社会そのものなのではないでしょうか。

10月4日、文部科学省が2022年度の「問題行動・不登校調査」の結果を公表しました。

全国の国公私立小中学校で30日以上欠席した不登校の数は10年連続の増加となり、29万9048人と過去最多を更新しています。『共同通信』(23年10月4日配信)によると、この2年間は前年度からの増加幅が2割を超え、計約10万人の大幅な増加となっているとか。

また、いじめ認知件数は10.8%(6万6597件)増の68万1948件で、身体的被害や長期欠席などが生じた「重大事態」は217件増の923件に上り、いずれも最多でした。

「いじめが理由」は0.3%

不登校といじめの関連性については、常々言われています。が、同調査では、学校が不登校の理由(3つまで選択可)と判断した「いじめ」はなんと954人(0.3%)という少なさでした。

文部科学省は、「必ずしも学校に行く必要はないとの認識が広まったことなどが不登校増加の要因」という認識で(同上)、専門家らから疑問の声が上がっています。

いじめへの認識が違う?

『東京新聞』(23年10月19日)は、他の文科省の各種調査と比較分析した東京電機大の鈴木翔准教授の下記のようなコメントを載せています。鈴木准教授によると、不登校を経験した児童生徒や保護者が直接回答した20年度「不登校児童生徒の実態調査」(20年度)から、不登校のきっかけが「友達のこと(いやがらせや、いじめがあった)」と回答したのは小学生25.2%、中学生25.5%だったそうです。

「(両調査はサンプル数が異なり『単純比較できない』とした上で)「いじめに対する子どもと学校の認識に大きな隔たりがあるのでは」

学校は子どもの世界のほぼすべて

学校は、子どもたちにとって「世界のほぼすべて」です。「1日の大半を過ごす」という物理的な理由だけではありません。友人、知識、価値観、コミュニケーション、所属意識未来など、あらゆるものが学校とつながっています。

子どもからすれば、学校から逃れることなど到底考えれません。

そんな「人生そのもの」の場所が、針のむしろになってしまったとしたら・・・。どれほどの苦痛を味わうことか。その絶望感たるや、想像を絶するほどではないでしょうか。

「怒り」は生き延びるために必要な、最も原始的な意見表明の方法です。
乳児が泣くのは、そこにそのまま捨て置かれたら死んでしまうという恐怖があるからです。だから「こんなところにほおっておくな!」と泣き叫び、助け (関係性)を求めるのです。

さらに言うと、乳幼児は、自分の泣き叫びを受け止め、応えてもらうことによって、「自分は大切なのだ」という自己肯定感や、 「助けを求めれば周囲は手を差し伸べてくれる」という基本的信頼感を育てて行きます。

コロナ禍で増える「~べき」

こうした感覚は、辛く困難が多い人生を生き延びていくために、不可欠なものです。
「怒り」を安心して表出し、受け止められる経験がなければ、自己否定感のほうが強くなり、他者を頼れない孤独で寂しい人間にならざるを得ません。

泣き叫びから、他者に伝わりやすい態度や言葉、やがては意見表明へと洗練されていくはずの「怒り」の表出方法も拙いままになります。それでは、タガが外れれば、制御不能のマグマとして噴出してしまって当然でしょう。
恐ろしいことに、適応的な 「良い子モード」の強要は、コロナ禍を経て、近年ますます加速しているように見えます。あらゆる場所で許容範囲が狭まり、「~べき」が増えているように感じます。

「良い子モード」のトレーニング

たとえば電車の中。「リュックは前に」「会話は控えめに」「席は詰めて」・・・と、 たくさんの「~べき」 のシャワーを浴びせられます。
そんな日本社会では、公共の場所で子どもが駄々をこねたり、大泣きしたりしていたら、鋭い視線が注がれます。親たちは「他者の目」を気にし、子どものコントロールを強めます。

そうして知らず知らずのうちに、空気を呼んで、 同調し、その場に適応するよう、子どもに要求していくのです。それは「良い子モード」でいるよう、子どもをトレーニングしているようなものです。
そのなれの果ては、低い自己肯定感、強い孤独感、低い精神的幸福度を持ったおとなです。そんな不幸な人生を子どもに歩ませるかどうか。それは私たちおとなにかかっています。

私たちは、「PTSDの原因となるトラウマ体験」というと、 生死にかかわるような大きな危機を想像します。

しかし、
「ネガティブな感情表出をよしとしない文化のなかで生きる日本人の場合は、小さな危機だけでも十分に複雑性トラウマの様相を呈する」
という大河原氏の指摘通りだとしたら、通常、虐待とは思わないような行為――たとえば親の別居・離婚、それに伴う片方の親との別離、幼い頃からの受験勉強、親の期待に向けての叱咤激励などーーも、十分に複雑性PTSD の発症リスクとなりえるということです。

日本社会の「べき信仰」

ここからは私見ですが、親との関係を超えて、ネガティブな感情を表出しにくい、 日本社会の特徴があるような気がしています。いわゆる 「べき信仰」 です。

「子どもは無邪気で素直であるべき」
「親は子どもを愛して何よりも優先すべき」
「家族は両親がそろっていて子どもを持つべき」・・・。

そんなたくさんの「べき」 が暗黙の了解として、日本社会には存在します。
そんな「べき」からはみ出したり、違う形をしていると、「それは他言するのがはばかられる、隠すべきこと」ととらえられがちです。

たとえば離婚をめぐって

たとえば、昨今の日本では、三分の一は離婚するという現実があるのに、未だに離婚は「極力避けるべきこと」と考えられ、シングルマザーは「気の毒」で、離婚家庭の子どもは「かわいそう」と思われがちです。

そうした空気を敏感に感じる子どもたちから、こんなセリフを聞いたことがあります。

「友達から 『お父さん (お母さん)はいないの?』 と言われた」
「うちは(離婚しているから) 普通の家ではない」
「お母さんと苗字が違うのは変だと指摘された」

「怒る」ことも許されない

このように日本社会にはネガティブな感情を抱えやすい場面がたくさん存在するのに、そこで感じた気持ちをありのまま出すことが許されないわけです。

「友達にそんなことを言われれる筋合いは無い」
「親のせいでこんな思いをしている」
「どうして自分の悔しさ・悲しさをおとなは分かってくれないのか」

と、怒ってしかるべきなのに、そうした感情・思いは封じられていきます。

もうひとつは『子育てに苦しむ母との心理臨床 EMDR療法による複雑性トラウマからの解放』(日本評論社)です。とくに、第2章「子育て困難と複雑性トラウマの理解」と第3章「EMDR療法による支援」を興味深く読みました。

「よい子モード」だけで生きてきたがゆえに

第2章で筆者の大河原美以氏は、「日本人の場合、一次解離の防衛が機能することで、『(怒りを表出しない)よい子』の自我状態を実現することが『適応』にほかならない側面があるのです。そのため、『スモールt(trauma)だけの体験であっても複雑性トラウマ状態に陥りますし、無意識のうちに複数の自我状態を抱えます。しかし、そのまま症状化はしていない『ふつうの人』がたくさん存在します」(103頁)と述べています。

そして、その理由を「親に愛されるために必要な自我状態だけが『よい子モード』となり、親に愛されるという目的のために邪魔な自我状態は遠ざけられる」(101頁)とし、「出産したあと子育て困難に陥る方たちのほとんどが、この状態にあります。出産前は、『よい子モード』だけで安定して生きることが出来ていたのに、出産したら、これまで封印していたモードが無意識のうちに登場して、混乱が生じてしまう状態です」(103頁)。

日本特有の文化が関係

この記述を読み、私は思わず膝を打つ思いでした。何人ものクライアントさんが、頭に浮かびました。

第3章では、その要因として、日本特有の次のような文化が、複雑性トラウマに陥りやすくさせているのではないかと書いています。

「日本人の場合、基本的に『怒りを表明することは控えるべきこと』という文化のもとで生きているので、つらい経験はたやすく封印され、一次解離(正常な防衛としての解離)のレベルであっても、自我状態がその不快な感情を抱え込んでしまうのではないか」(146頁)

複雑性PTSDとは

ここで、複雑性PTSDについても簡単に記しておきましょう。複雑性PTSDは、 2018年に世界保健機関(WHO) の改訂版国際疾病基準 (ICD-11) で採用されたばかりの比較的新しい概念です。

PTSD同様、衝撃的な経験・体験により発症し、フラッシュバックや悪夢などの従来の特徴に加え、①感情制御の困難、 ② 自分への無価値観、 ③ 人間関係構築の困難などがあります。

PTSD が事故や自然災害のような単回性の外的要因によって起こるのに対し、 複雑性PTSDは長期間にわたり、 繰り返し衝撃的な経験・体験にさらされることによって引き起こされます。
たとえば、 本来、最も愛してくれるはずの親による虐待や、いちばん安心できる場所であるまずの家庭で体験する ACE(逆境的小児期体験) などが関連するでしょう。