番組を見て驚いたのは、そんな大変な生活の中でも、多くの人が「未来」や「希望」を語っていたことです。

緑内障の治療のため、バスで22時間かけて病院へ行くという30歳の青年は
「少しでも良くなったら飲食店を立ち上げたい。人間は希望を持っているから生きて行ける。僕は希望を持って前へ進む」
と話していました。

中学3年生で逃げてきたというあるレストランスタッフは、
「希望は捨てていない。いつか学校へ戻れる日が来ると信じている」
と言います。

露店で、義兄とともに揚げパンを売っていた13歳少年は、今は学校に行けていなくても「夢は英語教師」と、覚えたての英語を披露してくれました。

「先の見えない生活」の中にいても、当然のように前に進もうとする人々の瞳は輝いていました。

一か所にカメラを据え、そこにやってくる人々の人生や生活などの人間模様を72時間にわたって定点観測する NHKの『ドキュメント72時間』というドキュメンタリー番組を見ました。

その日の舞台は、パキスタンの首都イスラマバード。アフガニスタン料理のレストランから始まりました。わざわざ「始まった」と書いたのは、なんと撮影開始早々にレストランから撮影を拒否されてしまったから。

その後の撮影は、レストラン近くのストリートで行われ、そこで出会った人の自宅を訪れるなど、異例の展開になっていきました。

身の危険を感じる人がいたため撮影拒否

番組の後半、その理由が明らかになりました。レストランのオーナーが「ドキュメンタリーは価値のあることだからOKしたけれど、お客の中にはタリバンを恐れ、カメラに映ることさえも嫌がる人がいた」と、突然の取材拒否を謝罪したのです。

NHKの同番組(『異国の地 アフガニスタンの食堂で』)の紹介ページには、「40万人以上が隣国パキスタンに逃げてきた」とあります。身の危険を感じる人も多くいたのでしょう。

先の見えない生活

このレストランのスタッフ25人も、全員アフガニスタンから逃げてきた人たちです。彼らは夜になると店内のいたるところで雑魚寝し、朝になると仕込みを始めるそうです。

3人の子どもと妻と一緒に、18時間かけて逃げてきたというコピー店で働く男性は、「日々の食事はタマネギとジャガイモを炒めたものだけ」と話していました。

ストリートで物乞いする女性と小さな子どもたちもいました。ひとりやふたりではありません。何十人という女性や子どもが、みな夫や父親などの大黒柱を失い、買い物客がナンを恵んでくれるのをひたすら待っていました。

アフガニスタンから避難してきた人が夜になると集まるサッカーグラウンドでは「難民として生きるのは大変だし、みんな経済的問題も抱えている」と語られていました。

どの人も、命からがら逃げ延び、異国の地で、先の見えない生活を送っているように見えました。

問題行動、反社会的行動のバリエーションはさまざまです。

刃物を持って人を切りつける“事件”のようなかたちもあり得るし、自殺という方法もあり得ます。そこまで行かなくとも、いじめや過度のゲーム依存などによって顕在化することもあります。

こうした行動を止めるためには、表面的に見えるその言動に注目するのではなく、その子どもの心の中に深く醸成された自己破壊衝動をどうにかするしかありません。

3月1日の事件後、防犯ジャーナリストなる人が、事件を防ぐ方法として、容易に外部の人間が入れないようセキュリティを強化するとか、監視カメラを駆使するなどの話をしていましたが、まったくの筋違いです。

壁を高く、鍵を頑丈にしても、またそれを破って事件を起こす人間が増えるだけでしょう。ただのいたちごっこにすぎません。

2023年3月1日の昼間、埼玉県戸田市の中学校にナイフを持った17歳の少年が侵入し、男性教員を傷つける事件が起こりました。

殺人未遂容疑で現行犯逮捕された少年は、「だれでもいいから人を殺したいと思った」と話しているそうです。
また、戸田市の隣にあるさいたま市では猫の死骸が校庭や公園に放置される事件が2月に5件起きていて、少年は「自分が殺した」とも供述しているとか。

話は少しそれますが、先進38カ国の子どもの幸福度を調査したユニセフ報告書「レポートカード16」(2020年9月発表)によると、日本の子どもの身体的幸福度は1位、精神的幸福度は37位でした。

つまり、「物質的には恵まれいても、心は満たされていない」ということです。
物に溢れ、飢えが無く、衛生的で、あらゆるものがそろった環境にいても、それだけでは人は幸せを感じないということです。

ヘンリー王子の生き様は、その事実を改めて、私たちに突きつけています。

イギリスのチャールズ国王の次男ヘンリー王子の自叙伝『Spare(原題)』が話題になっています。

『東京新聞』(23年1月7日)によると、ヘンリー王子は著書の中で、①結婚した翌年に自宅を訪問した兄が、王子の妻・メーガン妃を「不愉快だ」と言い、口論の末、自分を床にたたきつけたこと、②エリザベス女王死去の際には、父からメーガン妃を連れて来ないように言われたこと、など「家族の不和」を物語るエピソードを明かしています。

また、17歳でコカインを吸引したことや、陸軍時代にアフガニスタン戦争で敵の戦闘員25人を殺害したことなども告白しているそうです。

コロナ禍もあり、とんと明るいニュースが少なくなった昨今。なかでも今年ほど暗いニュースが多かった年はなかったような気がします。

ロシアによるウクライナ侵攻、知床観光船の沈没事故、オミクロン株の大流行、安倍晋三元首相襲撃事件、ボロボロ出てくる旧統一教会絡みの政治問題、相次ぐ北朝鮮のミサイル発射・・・。

最も弱い存在への暴力も

最も弱い存在である子どもへの暴力もたくさん話題になりました。

たとえば園児が車やバスに置き去りにされた事件が何件も報道されました。
12月には静岡県裾野市の保育士3人が園児虐待で逮捕されました。この裾野市の一件以後、仙台市の保育所で園児に下着姿のまま食事をさせる、富山市の認定こども園では園児を狭い倉庫に閉じ込める、などのいわゆる「不適切保育」のニュースが後を絶ちません。

虐待相談対応件数は、相変わらず右肩上がり。10代の自殺も増えています。

虐待とは、殴ったり、蹴ったり、罵詈雑言を浴びせることだけではありません。

親に頼り、愛されなければ生きられない子どもに、親の都合や考えを押しつけ、子どもの人生を支配することです。

昨今、話題の塾や習い事に連れ回し、受験を強いて「優秀な子」に仕立て上げようとする、教育虐待はその典型例です。

今年7月、2008年に秋葉原(東京)で17人を殺傷した罪で刑が執行された加藤智大死刑囚も母親から激しい教育虐待を受けていたと報道されています。

そんな彼は獄中で、自身の親について、子ども時代について、「親は力で支配しがち/屈辱に耐える毎日」とラップで表現しています(『週刊文春オンライン』22年8月11日)。

「子どものため」と支配する親

「子どものため」にと、破綻した夫婦生活にしがみつく親もまた、同様です。

子どもはそんなふうに「自分のため」に頑張る親に「申し訳ない」と思い、ときに「感謝」し、かわいそうな親の人生を変えたり、幸せにしたりする役割を背負わされます。

親を愛するがゆえに、せめて「不幸で、かわいそうな親」の期待に応えて、親を喜ばせたいと思ってしまうのです。

こうして、子どもの生きる目的は「親の期待に応えること」であったり、「親を幸せにすること」になってしまい、自分らしい人生を生きることができなくなってしまいます。

こんなふうに子どもの人生を支配すること。子どもから、その人生を奪うこと。それは紛れも無く虐待と呼ばれる行為です。

虐待を無くす唯一の方法

宗教虐待、教育虐待、スポーツ虐待・・・そんなネーミングは、本来どうでもいいのです。そんなことをしても、虐待は絶対に無くなりません。

「子どもが自分の思いや願いを安心して出し、持ってうまれた力を伸ばし、幸せだと感じながら他者と一緒になって自分らしい人生を生きられなくすること」

「それはすべて虐待なのだ」という認識を子どもと関わるおとなが持つこと。それが、虐待を減らす唯一の方法なのです。

大切なことは、こんな中途半端な、「とりあえず、何かやりましたよ」というアリバイづくりのための通達を出すことではありません。

明らかな虐待行為であるのに、子どもの心や体が傷ついているのに、「宗教」や「家庭内問題」という理由で、もっと言えば保身に走って、おとなたちが看過してきたことを猛省すること。
「○○虐待」とネーミングが付き、世間が騒ぎ、お上が「認定」しないと動かない、そんな行政の姿勢を変えること。

その二点が、重要なのではないでしょうか。

私のクライアントさんの中にも

私のクライアントさんの中にも、宗教二世の人が何人もいました。旧統一教会の方ばかりではありませんが、その過酷さは同じでした。

「深刻な“宗教虐待” ガスホースで親からムチ打ち 宗教2世が苦しみ語る」(『AERA dot.』22年11月1日)という記事を目にしたとき、「もしかしてあのクライアントさんでは?!」と、顔や名前が思い浮かんだほどです。

「だれも救ってくれない」という信念

私が出会ったときには、すでに成人されていました。しかし、子どもの頃に負った傷は、そのときも生々しく血を流し続けていました

多くの場合、「だれも救ってくれなかった」という子ども時代によって、「人は信用できない」「分かってくれる人などこの世にいない」という信念を持っていました。

子どもの頃は、うかつにだれかを信じて、それ以上傷ついたりしないために役立ったその信念。それが、他者と親しくなることを邪魔し、孤独にさいなまれていました。

過酷な子ども時代の影響

一方で、「支配される」ことに慣れているためか、自分を食い物にするような他者を拒絶できず、いいように利用されたりしていました。

過酷な子ども時代の経験が、パートナーをつくったり、だれかとほどよい距離で付き合う、ということを困難にしていたのです。

安倍晋三元首相の襲撃事件以降、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)をめぐる問題が次々と明るみに出てきました。

そのひとつが信者である親からの特定の“教え”に基づく子どもへのしつけ・教育方針等に関する問題などです。

信者を親に持つ、いわゆる宗教二世の人たちが「児童相談所や警察に訴えても、宗教を理由に対応してもらえなかった」などと発言し、その苦しかった子ども時代が世に知られることとなりました。