話は少しそれますが、先進38カ国の子どもの幸福度を調査したユニセフ報告書「レポートカード16」(2020年9月発表)によると、日本の子どもの身体的幸福度は1位、精神的幸福度は37位でした。

つまり、「物質的には恵まれいても、心は満たされていない」ということです。
物に溢れ、飢えが無く、衛生的で、あらゆるものがそろった環境にいても、それだけでは人は幸せを感じないということです。

ヘンリー王子の生き様は、その事実を改めて、私たちに突きつけています。

イギリスのチャールズ国王の次男ヘンリー王子の自叙伝『Spare(原題)』が話題になっています。

『東京新聞』(23年1月7日)によると、ヘンリー王子は著書の中で、①結婚した翌年に自宅を訪問した兄が、王子の妻・メーガン妃を「不愉快だ」と言い、口論の末、自分を床にたたきつけたこと、②エリザベス女王死去の際には、父からメーガン妃を連れて来ないように言われたこと、など「家族の不和」を物語るエピソードを明かしています。

また、17歳でコカインを吸引したことや、陸軍時代にアフガニスタン戦争で敵の戦闘員25人を殺害したことなども告白しているそうです。

コロナ禍もあり、とんと明るいニュースが少なくなった昨今。なかでも今年ほど暗いニュースが多かった年はなかったような気がします。

ロシアによるウクライナ侵攻、知床観光船の沈没事故、オミクロン株の大流行、安倍晋三元首相襲撃事件、ボロボロ出てくる旧統一教会絡みの政治問題、相次ぐ北朝鮮のミサイル発射・・・。

最も弱い存在への暴力も

最も弱い存在である子どもへの暴力もたくさん話題になりました。

たとえば園児が車やバスに置き去りにされた事件が何件も報道されました。
12月には静岡県裾野市の保育士3人が園児虐待で逮捕されました。この裾野市の一件以後、仙台市の保育所で園児に下着姿のまま食事をさせる、富山市の認定こども園では園児を狭い倉庫に閉じ込める、などのいわゆる「不適切保育」のニュースが後を絶ちません。

虐待相談対応件数は、相変わらず右肩上がり。10代の自殺も増えています。

虐待とは、殴ったり、蹴ったり、罵詈雑言を浴びせることだけではありません。

親に頼り、愛されなければ生きられない子どもに、親の都合や考えを押しつけ、子どもの人生を支配することです。

昨今、話題の塾や習い事に連れ回し、受験を強いて「優秀な子」に仕立て上げようとする、教育虐待はその典型例です。

今年7月、2008年に秋葉原(東京)で17人を殺傷した罪で刑が執行された加藤智大死刑囚も母親から激しい教育虐待を受けていたと報道されています。

そんな彼は獄中で、自身の親について、子ども時代について、「親は力で支配しがち/屈辱に耐える毎日」とラップで表現しています(『週刊文春オンライン』22年8月11日)。

「子どものため」と支配する親

「子どものため」にと、破綻した夫婦生活にしがみつく親もまた、同様です。

子どもはそんなふうに「自分のため」に頑張る親に「申し訳ない」と思い、ときに「感謝」し、かわいそうな親の人生を変えたり、幸せにしたりする役割を背負わされます。

親を愛するがゆえに、せめて「不幸で、かわいそうな親」の期待に応えて、親を喜ばせたいと思ってしまうのです。

こうして、子どもの生きる目的は「親の期待に応えること」であったり、「親を幸せにすること」になってしまい、自分らしい人生を生きることができなくなってしまいます。

こんなふうに子どもの人生を支配すること。子どもから、その人生を奪うこと。それは紛れも無く虐待と呼ばれる行為です。

虐待を無くす唯一の方法

宗教虐待、教育虐待、スポーツ虐待・・・そんなネーミングは、本来どうでもいいのです。そんなことをしても、虐待は絶対に無くなりません。

「子どもが自分の思いや願いを安心して出し、持ってうまれた力を伸ばし、幸せだと感じながら他者と一緒になって自分らしい人生を生きられなくすること」

「それはすべて虐待なのだ」という認識を子どもと関わるおとなが持つこと。それが、虐待を減らす唯一の方法なのです。

大切なことは、こんな中途半端な、「とりあえず、何かやりましたよ」というアリバイづくりのための通達を出すことではありません。

明らかな虐待行為であるのに、子どもの心や体が傷ついているのに、「宗教」や「家庭内問題」という理由で、もっと言えば保身に走って、おとなたちが看過してきたことを猛省すること。
「○○虐待」とネーミングが付き、世間が騒ぎ、お上が「認定」しないと動かない、そんな行政の姿勢を変えること。

その二点が、重要なのではないでしょうか。

私のクライアントさんの中にも

私のクライアントさんの中にも、宗教二世の人が何人もいました。旧統一教会の方ばかりではありませんが、その過酷さは同じでした。

「深刻な“宗教虐待” ガスホースで親からムチ打ち 宗教2世が苦しみ語る」(『AERA dot.』22年11月1日)という記事を目にしたとき、「もしかしてあのクライアントさんでは?!」と、顔や名前が思い浮かんだほどです。

「だれも救ってくれない」という信念

私が出会ったときには、すでに成人されていました。しかし、子どもの頃に負った傷は、そのときも生々しく血を流し続けていました

多くの場合、「だれも救ってくれなかった」という子ども時代によって、「人は信用できない」「分かってくれる人などこの世にいない」という信念を持っていました。

子どもの頃は、うかつにだれかを信じて、それ以上傷ついたりしないために役立ったその信念。それが、他者と親しくなることを邪魔し、孤独にさいなまれていました。

過酷な子ども時代の影響

一方で、「支配される」ことに慣れているためか、自分を食い物にするような他者を拒絶できず、いいように利用されたりしていました。

過酷な子ども時代の経験が、パートナーをつくったり、だれかとほどよい距離で付き合う、ということを困難にしていたのです。

安倍晋三元首相の襲撃事件以降、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)をめぐる問題が次々と明るみに出てきました。

そのひとつが信者である親からの特定の“教え”に基づく子どもへのしつけ・教育方針等に関する問題などです。

信者を親に持つ、いわゆる宗教二世の人たちが「児童相談所や警察に訴えても、宗教を理由に対応してもらえなかった」などと発言し、その苦しかった子ども時代が世に知られることとなりました。

「物を無駄にしない、循環させる」と言えば、宿のご主人宅の愛犬に「お土産」とおやつを何種類か渡したときも、こんなことがありました。

「ありがとう。だけど最近、このコ、アレルギーになっちゃって、食べられる物が限られているの。試してみて、かゆがるようだったら、それは返すね」(ご主人)

そう、あっからかんと言われたのです。

好きでも無いお土産を「いらない」とは言えず、処理に困ることがたまにあります。そうやって無駄にするより、「返すね」と言われたほうがずっと経済的だし、とってもエコです。うちの犬も喜びます。

最近、やたらと耳にすることが多くなった「SDGs」という言葉。Sustainable Development Goals・・・つまり、持続可能な開発目標のこと(外務省)。

政府や自治体、大企業も、こぞってこの言葉を発し、「環境に優しい」とか「だれひとり取りこぼさない」などと言っては、目標などを掲げています。

親殺し、とくに母親殺しの大事さを説いたのは分析心理学を創設したユングでした。

ユングが言う「母なる存在」とは、二つの面を持っています。ひとつは、「産み・育て・抱擁し慈しむ母」。もうひとつは、「子を呑み込み、抱きしめて殺す(圧死させる)母」です。

母親は、子どもを愛し、自らを捧げて、その成長を助けます。その一方で、子どもを自分の所有物のように感じ、「子にとって良かれ」との思いで、自らの思い通りに育てようとし、過度に干渉・保護し、子どもの力を削いでしまうこともあります。

母親側が、こうした子どものためにならない関わりに気付き、子離れしたり、父親が子どもと母親の関係性を断ち切る役割を果たせればよいですが、うまくいかないこともあります。

そうしたときには、子どもの側がちゃんと「母親を殺せるか」がとくに重要になります。

「母親殺し」とは母親からの自立

ここでいう「母親殺し」とは、もちろん、実際に母親を殺すということではありません。

精神的な意味での母親からの脱却、母親からの自立。つまり、子どもの心理的な成長(母親離れ)です。

抱きしめよう(支配しよう)とする母親の手を振り払い、「こうあって欲しい」という母親幻想から抜け出すこと、と言ってもいいでしょう。

違う生き方も出来たはず

あんなに偉大に見え、愛されたいと願った母親は、「結局のところ、神でも聖母マリアでも無い、つまらない人間に過ぎない」と、諦めることができたなら。親からの無償の愛や、親の期待に添えない罪悪感から抜け出すことができたなら。

彼らは、もっと違う生き方が出来たのでは無いでしょうか。そうすれば、彼らによって命を絶たれる人たちもいませんでした。

本当の償いとは

残念なことに、加藤死刑囚は、多くを語れないままこの世を去りました。

安倍元首相襲撃事件の容疑者には、ぜひ、彼の思いや人生について、話して欲しいと思います。そして、二度とこんな事件が起きないよう、その引き金や抑止力となるのは何かを私たちに教えて欲しいと思います。

それこそが、本当の意味での償いなのではないでしょうか。

前回、ブログで書いた安倍晋三元首相の襲撃事件の容疑者にしても、秋葉原殺傷事件の死刑囚にしても、その生い立ちが人生に与える影響の大きさです。

もっと端的に言えば、親の影響、というのでしょうか。

教育虐待の犠牲者

加藤死刑囚は、いわゆる教育虐待の犠牲者でもありました。死刑執行後、SNS上で同情の声も広がっています。

同死刑囚は逮捕後、次のように語っていました(『デイリー新潮』22年7月29日)。

「(詩や作文は)私が書いたものではなく、母親が手を入れたり、母親がほとんどやったりして、私の名前で出した」

「小学校に来ていく服はすべて母親に決められていた」

「高校は自分の希望を変更し、母親の母校に進学」「あの子と付き合うのは止めなさいと、交際を禁止された」

祖母が語った子ども時代

同死刑囚の祖母は、その子ども時代について「幼い頃のあの子は率直ないい子だったんです。でも、両親がスパルタでね。トモがニコニコしていると父親が『締まりのない顔をするな!』と怒鳴る」(『FRIDAY DIGITAL』22年7月26日)とも話しています。

記事の中には、見ることが許されたテレビ番組は『ドラえもん』と『日本昔ばなし』だけであったり勉強ができないと風呂に沈められたこともあったなどのエピソードも載っていました。

彼もまた、結局は親への恨みや親への期待から逃れることができず、人生を破綻させた、「親に人生を支配された人たち」だったのではないでしょうか。