新宿歌舞伎町にあるTOHOシネマズ横の通路、そこに集まる若者たちのコミュニティというかエリアである、あのトー横です。
ここのところ一斉摘発やら、ホストクラブの取り締まり強化があり、通常よりかなり閑散としていると聞きましたが、私が行った日もちょっとしたバザー並みには人が集まっていました。
ぱっと見は高校生くらいな男女が数人ずつのかたまりで、あちこちに座り込んでは、飲んだり、食べたり、しゃべったり。そして、すぐ側にある都立大久保病院周辺にはいわゆる「たちんぼ」と思われる女子の姿も・・・。
ここのところ一斉摘発やら、ホストクラブの取り締まり強化があり、通常よりかなり閑散としていると聞きましたが、私が行った日もちょっとしたバザー並みには人が集まっていました。
ぱっと見は高校生くらいな男女が数人ずつのかたまりで、あちこちに座り込んでは、飲んだり、食べたり、しゃべったり。そして、すぐ側にある都立大久保病院周辺にはいわゆる「たちんぼ」と思われる女子の姿も・・・。
しかし、「いじめそのものが不登校の原因」かと問われると、少し疑問もあります。
確かにいじめは、不登校のきっかけとなる原因のひとつです。でも、周囲のおとなが、その子どもの辛さをきちんと受け止め、共に悩み・考え、真摯に向き合いながら助けようと努力したなら・・・。子どもの気持ちはだいぶ変わってくる可能性があるのではないでしょうか。
旭川女子中学生いじめ凍死事件
女子中学生は、上級生の男子生徒から裸の画像を送るよう強制され、それを拡散されたりしていました。いじめはエスカレートし、深夜に呼び出されたり、目の前での自慰行為を強要されるなどしていたと言います。
女子中学生は、いじめを受けていた2019年6月学校に電話して「死にたい」と訴えて、自ら川に入ったりもしていました。学校は上級生らから聞き取りをする一方、女子生徒本人には事情を聞かないまま、「いじめではない」と判断しました。女子生徒の母親は、学校にたびたび相談したのに、じめを否定され続けたそうです(『読売新聞オンライン』22年4月16日)。
いじめの認定は訴えから3年後
その後、転校するも女子中学生は不登校となり、SNSで「いじめを受けてから1年たちそうなのに私は何もできません。何もかもが恐くてたまらない」などと発信していました。
警察が動く事態にもなっていましたが、学校や教育委員会の動きは鈍く、いじめが認定されたのは訴えから3年たってからでした。
何が不登校、自殺へと追い込んだか
はたして、彼女を不登校、そして自殺へと追い込んだのはいじめっこたちだったのか。私にはそうは思えません。そうではなく「こんな地獄に自分を置き去りにしたまま平然としているおとなたち」だったのではないでしょうか。
「自分がこんなに辛いのに、その状況を放置しておく世界」ーーそれが「怖くてたまらなかった」のではないか? と思ってしまうのです。
本当の責任はおとなと社会にある
なぜこんなことまでされながらも、自分を責め、おとなたちへの怒りさえも出そうとしなかったのか。彼女のそれまでの人生も気になりました。
もちろん、いじめはあってはならないことです。不登校のきっかけになることも十分に考えられます。しかし、子どもを本当に追い込んでいるのは、「事なかれ主義」で保身に走る、私たちおとなと社会そのものなのではないでしょうか。
全国の国公私立小中学校で30日以上欠席した不登校の数は10年連続の増加となり、29万9048人と過去最多を更新しています。『共同通信』(23年10月4日配信)によると、この2年間は前年度からの増加幅が2割を超え、計約10万人の大幅な増加となっているとか。
また、いじめ認知件数は10.8%(6万6597件)増の68万1948件で、身体的被害や長期欠席などが生じた「重大事態」は217件増の923件に上り、いずれも最多でした。
「いじめが理由」は0.3%
不登校といじめの関連性については、常々言われています。が、同調査では、学校が不登校の理由(3つまで選択可)と判断した「いじめ」はなんと954人(0.3%)という少なさでした。
文部科学省は、「必ずしも学校に行く必要はないとの認識が広まったことなどが不登校増加の要因」という認識で(同上)、専門家らから疑問の声が上がっています。
いじめへの認識が違う?
『東京新聞』(23年10月19日)は、他の文科省の各種調査と比較分析した東京電機大の鈴木翔准教授の下記のようなコメントを載せています。鈴木准教授によると、不登校を経験した児童生徒や保護者が直接回答した20年度「不登校児童生徒の実態調査」(20年度)から、不登校のきっかけが「友達のこと(いやがらせや、いじめがあった)」と回答したのは小学生25.2%、中学生25.5%だったそうです。
「(両調査はサンプル数が異なり『単純比較できない』とした上で)「いじめに対する子どもと学校の認識に大きな隔たりがあるのでは」
学校は子どもの世界のほぼすべて
子どもからすれば、学校から逃れることなど到底考えれません。
そんな「人生そのもの」の場所が、針のむしろになってしまったとしたら・・・。どれほどの苦痛を味わうことか。その絶望感たるや、想像を絶するほどではないでしょうか。
さらに言うと、乳幼児は、自分の泣き叫びを受け止め、応えてもらうことによって、「自分は大切なのだ」という自己肯定感や、 「助けを求めれば周囲は手を差し伸べてくれる」という基本的信頼感を育てて行きます。
コロナ禍で増える「~べき」
こうした感覚は、辛く困難が多い人生を生き延びていくために、不可欠なものです。
「怒り」を安心して表出し、受け止められる経験がなければ、自己否定感のほうが強くなり、他者を頼れない孤独で寂しい人間にならざるを得ません。
泣き叫びから、他者に伝わりやすい態度や言葉、やがては意見表明へと洗練されていくはずの「怒り」の表出方法も拙いままになります。それでは、タガが外れれば、制御不能のマグマとして噴出してしまって当然でしょう。
恐ろしいことに、適応的な 「良い子モード」の強要は、コロナ禍を経て、近年ますます加速しているように見えます。あらゆる場所で許容範囲が狭まり、「~べき」が増えているように感じます。
「良い子モード」のトレーニング
そうして知らず知らずのうちに、空気を呼んで、 同調し、その場に適応するよう、子どもに要求していくのです。それは「良い子モード」でいるよう、子どもをトレーニングしているようなものです。
そのなれの果ては、低い自己肯定感、強い孤独感、低い精神的幸福度を持ったおとなです。そんな不幸な人生を子どもに歩ませるかどうか。それは私たちおとなにかかっています。
しかし、
「ネガティブな感情表出をよしとしない文化のなかで生きる日本人の場合は、小さな危機だけでも十分に複雑性トラウマの様相を呈する」
という大河原氏の指摘通りだとしたら、通常、虐待とは思わないような行為――たとえば親の別居・離婚、それに伴う片方の親との別離、幼い頃からの受験勉強、親の期待に向けての叱咤激励などーーも、十分に複雑性PTSD の発症リスクとなりえるということです。
日本社会の「べき信仰」
ここからは私見ですが、親との関係を超えて、ネガティブな感情を表出しにくい、 日本社会の特徴があるような気がしています。いわゆる 「べき信仰」 です。
「子どもは無邪気で素直であるべき」
「親は子どもを愛して何よりも優先すべき」
「家族は両親がそろっていて子どもを持つべき」・・・。
そんなたくさんの「べき」 が暗黙の了解として、日本社会には存在します。
そんな「べき」からはみ出したり、違う形をしていると、「それは他言するのがはばかられる、隠すべきこと」ととらえられがちです。
たとえば離婚をめぐって
たとえば、昨今の日本では、三分の一は離婚するという現実があるのに、未だに離婚は「極力避けるべきこと」と考えられ、シングルマザーは「気の毒」で、離婚家庭の子どもは「かわいそう」と思われがちです。
そうした空気を敏感に感じる子どもたちから、こんなセリフを聞いたことがあります。
「友達から 『お父さん (お母さん)はいないの?』 と言われた」
「うちは(離婚しているから) 普通の家ではない」
「お母さんと苗字が違うのは変だと指摘された」
「怒る」ことも許されない
「友達にそんなことを言われれる筋合いは無い」
「親のせいでこんな思いをしている」
「どうして自分の悔しさ・悲しさをおとなは分かってくれないのか」
と、怒ってしかるべきなのに、そうした感情・思いは封じられていきます。
もうひとつは『子育てに苦しむ母との心理臨床 EMDR療法による複雑性トラウマからの解放』(日本評論社)です。とくに、第2章「子育て困難と複雑性トラウマの理解」と第3章「EMDR療法による支援」を興味深く読みました。
「よい子モード」だけで生きてきたがゆえに
そして、その理由を「親に愛されるために必要な自我状態だけが『よい子モード』となり、親に愛されるという目的のために邪魔な自我状態は遠ざけられる」(101頁)とし、「出産したあと子育て困難に陥る方たちのほとんどが、この状態にあります。出産前は、『よい子モード』だけで安定して生きることが出来ていたのに、出産したら、これまで封印していたモードが無意識のうちに登場して、混乱が生じてしまう状態です」(103頁)。
日本特有の文化が関係
第3章では、その要因として、日本特有の次のような文化が、複雑性トラウマに陥りやすくさせているのではないかと書いています。
「日本人の場合、基本的に『怒りを表明することは控えるべきこと』という文化のもとで生きているので、つらい経験はたやすく封印され、一次解離(正常な防衛としての解離)のレベルであっても、自我状態がその不快な感情を抱え込んでしまうのではないか」(146頁)
複雑性PTSDとは
ここで、複雑性PTSDについても簡単に記しておきましょう。複雑性PTSDは、 2018年に世界保健機関(WHO) の改訂版国際疾病基準 (ICD-11) で採用されたばかりの比較的新しい概念です。
PTSD同様、衝撃的な経験・体験により発症し、フラッシュバックや悪夢などの従来の特徴に加え、①感情制御の困難、 ② 自分への無価値観、 ③ 人間関係構築の困難などがあります。
PTSD が事故や自然災害のような単回性の外的要因によって起こるのに対し、 複雑性PTSDは長期間にわたり、 繰り返し衝撃的な経験・体験にさらされることによって引き起こされます。
たとえば、 本来、最も愛してくれるはずの親による虐待や、いちばん安心できる場所であるまずの家庭で体験する ACE(逆境的小児期体験) などが関連するでしょう。
ひとつは、逆境的小児期体験(Adverse Childhood Experience : ACE)についての『逆境的小児期体験が子どものこころの健康に及ぼす影響に関する研究』 という論文です。
ACE とは、子ども時代の虐待だけを指すのではありません。「家族に大事にされていない」 「家族の仲が悪い」「だれも守ってくれないと感じた経験」などのストレス要因と、家族内に依存症や精神疾患あった、別居や離婚などによる親との別離、母親への暴力・暴言の目撃など、機能不全家族による逆境的境遇のことです。
ACE が成人期以降の心身の健康に影響を及ぼし、その体験は時の流れによってに癒されるものではないということが明らかになっています。
肥満治療がスタート
フェリッティらは、 小児期に逆境体験が多いほど、社会的、情動的、認知的な問題を可能性が高まり、その結果、暴飲暴食など生活習慣の乱れや、薬物依存や疾病などの危険が高まること。また、犯罪など社会不適応になることも増え、結果として早世の可能性が高まるとし、ACE が寿命に及ぼすメカニズムとして提唱しました。
ACE研究が、「トラウマ体験を持つ子ども」の調査や研究から始まったのではなく、「おとなになってからの健康状態や社会適応の状況」からスタートしたというのは、大変、興味深いことです。
その後のさまざまなACEに関する研究が、ほぼぶれることなく、一様な結果に結びついているのも、そのためでしょう。
日本におけるACE研究では
そうした中で、見つけたのが冒頭に紹介した論文でした。論文執筆者である医師らは、自身が関わる「ひとり親家庭」と「乳児院入所児 の保護者と子どもを対象に調査を行い、たとえば「ひとり親家庭」では、反抗挑戦性障害の発症リスクが2倍、反応性愛着障害3.87倍、PTSD3倍、解離性障害7.8倍となるとしました。
同じ日の新聞の表と裏に、「希望と絶望」「理想と現実」「共生社会と競争社会」の縮図が載っているようで、なんとも言えない悲しい気持ちになりました。
皮肉と言えばいいのか、 シュールと言えばいいのか・・・。いまだにうまくこのときの気持ちを表現する言葉が見つかりません。
私も今の社会の一翼を担っている
その取り組みには、 100%共感するし、心から応援します。「そんな世界ができたら、なんて素晴らしいのか!」と、その実現を願わずにいられません。
しかし、記事にあった非正規地方公務員の雇止めだけでなく、目先の利益にとらわれて人や動物や自然を破壊し、限られた者だけで利益を貪ろうとする大企業や日本政府。そんな社会の在り方を結果的に支えている、 国民がいるのも事実です。
私もその一翼を担っているのだと思うと、苦いものしかこみ上げてきません。
311後も何一つ変わらなかった
あの東日本大震災(311)を経験し、 あれだけの命と自然が犠牲になったのに。命ほど尊いものは無いと骨身に染みて実感したはずなのに。この国の政策も、選択も、ほとんど何一つ変わっていません。
それどころか、311以後の復興予算の使い方、コロナ対策の在り方、きな臭い世界情勢とこれらにともなう経済逼迫への対応を見ていると、いっそう「目先の利益優先」という風潮が強まっているように見えます。
エネルギー政策が典型例
ところが昨年末、岸田文雄首相は、(1)次世代原発を開発・建設、(2)既存原発の60年超の運転を認める、という「GX(グリーントランスフォーメーション)」基本方針を決定し、原発回帰の姿勢を鮮明にしたのです。
「ロシアのウクライナ侵略で世界的なエネルギー危機が生じているから」と岸田政権は言います。
理念も信念も無い国の一条の光
一見、正論のように聞こえますが、つまりは「事情が変われば前提を覆すこともある」「窮すれば約束も保護にする」ということです。煎じ詰めれば、「政権運営者としての理念も信念もなく、行き当たりばったりに過ぎない」ということではないでしょうか。
そんな理念も信念も無い国に暮らしているからこそ、過酷な状況の中でもぶれない理想に向かって進もうとする「もーもーガーデン」に一条の光を感じるのかもしれません。
そのため、立入ることができるのは日中のみ。しかも役所の許可が必要で、インフラ整備もされていません。
そんな大変な土地で、飢えに苦しみ、さまよっていた牛を柵内に囲み、牛の「食べて、出す」 力を借りて、①農地を再生し、②山林を保全し、③動物 (野生動物も)と人間と自然の共生を目指す事業を展開しているそうです。
たどり着いたのは、「周囲のおとなの違い」ではないかという結論でした。
たとえば、『希望と絶望の分岐点(1)』で書いた「英語教師になりたい」という少年の義兄は次のように話していました。
「(少年はアフガニスタンから逃げてきて)友達と離れて、ひとりで寂しそうだった。本人も手伝いたいと言うし、本人のためになると思ってここ(揚げパン屋)に連れて来た。本当は勉強させてあげて、大学へ行かせてやりたい。自分がやりたいことを選べる人生を送って欲しいから」
これを聞いて、「私だって、自分の子どもに対して同じように考えている」という日本人も多いのではないでしょうか。
日本人のおとなの多くは
対して、日本のおとなの多くは、まず、おとなの側が選択肢を示します。
必ずしも言葉ではなくても、態度や自分の生き様、ちょっとしたため息などで「これか、あれか、それを選ぶべき」と、子どもに伝えています。
子どもが「学びたいことがあり、大学に行きたいから」ではなく、「大学を出ないと世の中で通用しない(と思い込んで)」子どもにお金や時間を注ぎ込み、それを愛情だと信じて、子どもに期待をかけます。
私は自分らしい人生を選択できているか
そして何より、日本のおとな自身が「こうでなければ」に囚われて生きています。自分の道を切り開いて行こうとするのではなく、日本社会が是とする道からはみ出さないよう、周囲を見て、自分が浮かないように生きています。
「自分が潰されてしまうくらいなら」と故郷を後にし、「自分の人生は自分で切り開いていける」と信じ、進んで行くアフガニスタンのおとなとはまるで違います。
希望と絶望の分岐点。それは自分を偽らず、自らの意思で、自分らしい人生を選択できているかどうかなのではないでしょうか。
はたして私はどうなのか。改めて考えさせられた番組でした。