ひとり黙々と課題をこなす毎日では、学べることは限られます。
“真の学び”とは、自らの力を伸ばし、その力を他者のために喜んで使えるよう、共感能力や好奇心を育てながら人格形成まで行うことです。

人格形成まで行う教育には、信頼関係や安心感が持てる他者との親密な関係が欠かせません。自分の成長を喜んでくれる仲間や、伸びた力を仲間のために使う経験、同じ場で、同じ空気を感じながら共に喜びを分かち合う一体感などが必要です。

どれもこれも画面越しのやりとり、オンラインでは得られないものです。

だから私たちの社会は、学校という教育機関をつくり、そこに信頼を置いてきました。学校が学習塾とは違う、ゆえんです。

とくにかわいそうな新入生

ところが、昨今は、「密を避ける」のがいいことと、対面授業もサークルもゼミもほぼ中止。新入生歓迎会や合宿などの行事も無くなり、せっかく大学に行っても「黙食の勧め」が各所に貼ってあり、「他者と接触するのは悪」というような空気感です。

なかには事務手続きや健康診断などで1~2回大学に足を運んだだけという学生もいます。

とくにかわいそうなのが去年の新入生でした。入学以来、一度も大学で授業を受けられていないという学生もいて、退学や休学に追い込まれるケースも見聞きしました。

自宅でたったひとり、ひたすら課題をこなすオンデマンド授業やライブ配信授業では、行き詰まりも感じます。地方出身者の中には、「オンライン授業なら実家に戻ろうと思ったが、親に周囲の目があるから帰ってくるなと言われた」という学生もいました。そんな状態で頑張って学べというのは酷というものです。

教育の原点の死滅

ワクチン接種が進み、コロナが収束した後はどうなるのでしょうか。「コロナ対策」として、各大学は遠隔授業のインフラ整備に多大なエネルギーと資金を投じました。
経済発展を望み、デジタルが大好きな政府も、そうした大学にたくさんの助成金をばらまきました。

いったん仕組みがつくられるとそれを止めることが難しいのは、コロナ禍で授業も満足に行えなかったのに実施された全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を見ても分かります。

2007年、43年ぶりに全国学力テストが復活するとなった頃は、競争をあおり、教育格差を広げて、点数稼ぎのためだけの教育や不正行為が横行することなると警鐘を鳴らす声も多かったのに、最近ではもうほとんどそんな声は聞こえません。

いつの間にか「やるのが当たり前」になり、その問題点すら指摘されなくなってしまったのです。

“真の学び”に必要なもの

真に学び成長発達するためには、師として、友として安心し合える人間関係が不可欠です。一方的で無機質なオンデマンド授業を常態化させ、どんな教育で、どんな人間を育てようとしているのか。

コロナを口実に、教育の原点が死滅させられようとしています。

去年くらいから、オフィシャルサイトの更新がほとんどできずにいます。

「おうち時間」だの「おこもりで時間が増えた」という人も多いのに、「いったい私は、何にこんなに時間を取られているのか?」と考えると、大きな要因は大学の授業のほとんどがオンラインになったことだと思います。

もちろん、新しい相談室(CAFIC 池袋カウンセリングルーム)を立ち上げたことなどもありますが、ダントツで時間を割いているのは、オンライン授業の準備です。

対面授業であれば、その場で資料を示したり、説明したり、ホワイトボードに書いたりすればいいことを、あらかじめコンテンツをつくりこまなければならなくなりました。

しかも私の場合、ほとんどがオンデマンド授業となったため、パワーポイントをつくってから、そこに音声を乗せていく必要があり、吹き込み作業というのも必要になります。

これが思いのほか、時間がかかります。去年などは、1コマ分の授業のコンテンツをつくるのに丸々1日はかかるという状況でした。

オンライン授業の評価

オンライン授業については、「好きなときに学習できる」「繰り返し学習できる」など、学生からの肯定的な意見も聞きます。

文部科学省が2020年12月に発表した学生調査でも、過半数の学生がオンライン授業の継続を望むという結果になっています。

しかし、私が学生から聞く生の声では、否定的な意見が大多数です。

「対面授業を増やして欲しい」「対面授業のほうが、圧倒的に頭に入ってくる」などという意見をよく聞きます。

“授業時間そのもの”だけでなく、休み時間や行き帰りに交わす友達との何気ない会話が「課題のヒントになる」とか、「勉強の仕方を知る機会になる」という意見もありました。

オンライン授業は、どうしても“ひとりで課題をこなす”作業になりがちです。
しかし、人間は感情の動物であり、関係性のなかで生きる生き物です。無機質で変化の無い空間で、ひとりで学ぶよりも、だれかと一緒に五感を使って、感情を動かしながら学ぶ方が記憶に残るし、深い洞察や思考に結びつくというのは当然のことです。

 子どもの人格形成にも有害です。
 アイデンティティをつくっていく時期に、こんなダブルスタンダードを突きつけられたら、子どもたちは混乱します。そして、「本音と建て前を使い分けることが大事」と学習し、「面従腹背で世の中を渡る」ことを覚えていきます。

突飛な頭髪も意見表明

金髪

 そもそも髪を染めたり、パーマをかけたり、目立つヘアスタイルにするのも、子どもの意見表明です。そうやって子どもは、「ねぇ、ねぇ、こっちに顔を向けてよ」と呼びかけています。

 子どもが気づいて欲しい思いつつ、心の中にしまっている思いは、「学校や先生への不満」かもしれません。「将来への不安」かもしれないですし、「両親が喧嘩ばかりで耐えられない」ということかもしれません。

いずれにせよ子どもたちは、自らは語れない、だけど聴いてほしい思いを「髪を染める」というたちで表現し、助けてくれる人間関係を求めているのです。地毛証明書は、そんな子どもたちの声を封じ、SOSを見えにくくし、周囲のおとなとの間につくろうとしている関係性を奪ってしまいます。

「愛する」とは「自由にする」こと

留守番

支配や管理によって子どもに言うことを聞かせようという風潮は、どんどん強まっているように思います。

 たとえば昨今、「子どもの安全」を理由に登下校にはおとなが付き添い、親が不在の放課後には送迎付きの習い事。「ひとりで留守番などとんでもない」と考える親が増えています。

 確かにそうやって子どもを監視し続ければ、「身の安全」は確保できるかもしれません。しかし、そうやって、ずーっとおとなの視線を浴び、道草をくうことも、ひとり自由に過ごす時間も、秘密をもつこともできないまま成長していくことが、「心の健康」を損ないはしないでしょうか。
 自分で自分の身を守る経験や、自分らしさを育てること、自ら何かをやってみようという意欲をそいでしまったりはしないでしょうか。
 支配し、管理することと、愛することは違います。「愛する」とは安心と自信を与え、子どもを自由にすること。そんなことを強く感じる、今日、この頃です。

また、2020年に施行された体罰禁止規定の後から、体罰容認から否定に転じた人たちに、その理由を尋ねたところ、「法律で体罰が禁止されたから」との回答者が2割弱いたというのも、驚きでした(体罰を容認する大人が約6割から約4割に減少――セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの調査結果)。

「法律で禁止されたから体罰は良くない」ということは、逆に言えば、法律で体罰を容認すれば「やってもいい」ということです。それは体罰や虐待が子どもにどんな影響を与えるのかとか、子どもを力で支配することのダメージなどについは、関心が無いということにはならないでしょうか。

体罰

約4割のおとなが「しつけのため」として子どもに体罰を行うことを容認していることが、公益社団法人のセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの調査(全国の20歳以上、2万人が回答)でわかりました。
 
その内訳は、「積極的にすべきだ」が0.9%、「必要に応じて」が7.8%、「他に手段がないと思った時」が32.6%で、合計41.3%になります。

前回調査(2017年)から2割減ったものの、けして少ない数字ではありません。

ダイバーシティ

 今も日本にはだれもが「その人らしいオリジナルの人生」を生きることを阻む仕組みや考え方がはびこっています。差別されているのは、決して女性だけではありません。

「年を取っているから」
「障害を持っているから」
「子どもだから」

 そんな理由で、私たちの社会は相変わらず差別を繰り返しています。「力が無いのなら文句を言うな」「自分で稼げないやつは黙って従え」という、強者の論理を振りかざしています。

「森発言」は、こうした日本社会が隠そうとする差別思想の、氷山の一角に過ぎません。

 ところで、女性と男性はまったく同じ生き物なのでしょうか? 女性らしさや男性らしさというのは幻想で、いっさい否定されるべきなのでしょうか。

「森発言」を批判する方々の中には、「男性と女性の能力に差は無い」とか、「女性と男性を区別するのはおかしい」といった意見も多く聞かれましたが、やはり私は違和感を覚えました。

男女の違いはある

“産む性”と“産まない性”は明らかに違います。男性でも子育てはできるかもしれませんが、子産みは女性にしかできません。
「新しい生命を宿し、この世に送り出す」という性を持つ女性は、多くの場合、子どもを産み育てることに必要な能力に長けています。

 もちろん個人差はありますが、たとえば危機的状況や他者の感情に敏感であったり、世話を焼くのが上手であったりします。

 一方、男性には男性の特性があります。こちらも同じくまた個人差はありますが、一般に、女性より体が大きく、体力や筋力があります。感情より論理で動こうとします。

 こうした男女の違い、「区別」というものは、それぞれの特性であって否定されるべきものではないはずです。

「森発言」は個人のジェンダー差別問題なのか(1)

 東京五輪・パラリンピック組織委員会の新会長に前の五輪担当相だった橋本聖子氏が就任しました。
 橋本氏自身がオリンピックでも活躍したアスリートであること、そして、女性であることなどから、就任を歓迎する声も高く、いわゆる「森発言」問題も、これで幕引きという雰囲気になっています。

森氏辞任で一件落着?

 ことの発端は、2月3日の日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会で当時会長だった森善朗氏が、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」とか「組織委にも女性はいるが、わきまえている」などと発言したことでした。

 森氏は、「不適切な表現だった」と謝罪し、発言を撤回したが国内外からの批判は収まらず。女性の人権擁護団体を筆頭に、「オリンピックの男女平等の精神から大きく外れる」と、スポンサーやアスリートらも怒りのコメントを発表。聖火ランナーやボランティアが辞退するという事態にもなりました。

 こうした批判の声は、最もだし、私もまったく同感です。しかし、一方で、「森氏だけが批判され、辞任すれば一件落着なのか?」という疑問もあります。

新型コロナウイルス不安

 国は、あくまでも「要請や自粛」を求めているだけですから、もし感染したら「ちゃんと自粛しないからですよ」と感染した人や店に責任を押しつけられます。逆に休業して経済困窮すれば、「あなたの意思で休んだんでしょう」と言い逃れればすむのです。
 
 こうして考えると、一見、緩やかに感じる二度目の緊急事態宣言は、国民にとって極めて厳しい内容です。

「自助、共助、公助」を理念に掲げ、「まずは自分でできることは自分でやってみる。そして、地域や家族で助け合う。その上で、政府がセーフティーネットで守る」と総裁として決意表明した菅義偉首相らしい、と言わざるを得ません。

「経済再生担当大臣がコロナ対策」の謎

GOTOトラベル

 個人の痛みは「自助」に任せ、コロナ対策の責任を放棄した政府(菅首相)。そんな政府が関心を寄せるのは、経済利益だけのように感じます。

 オリンピック開催に固執し、「GO TO トラベル(やEAT)」の再開にも未練を残す菅政権。「給付金を出しても貯金が増えるだけ」と再給付を拒む麻生太郎財務相(『東京新聞』21年1月26日)を政権の懐に抱え、「コロナ対策」を錦の御旗に急ピッチでIT関連事業を進めています。

 2021年度予算の概算要求では、デジタル関連が約1兆円に迫る勢いです。そこには、菅首相肝いりのデジタル庁創設の布石となる「IT調達の一元化」や、マイナンバーカードの普及に関連した政策も目立つと言います(『日経XTECH』2020年12月7日https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/cpbook/18/00064/00003/ )。

 そもそも新型コロナ対策担当大臣を経済再生担当大臣が兼ねていること自体が、実にへんてこな話と感じるのは私だけなのでしょうか。

国民が望むコロナ対策は?

 この国のコロナ対策は、私たち国民が望んでいるものと合致しているでしょうか。

 少なくとも、多くの国民が望んでいるのは、安く外食ができること、安く旅行に行けることなどではないはずです。家にこもり、ひたすらパソコンとにらめっこする働き方や、課題におわれるだけの勉強などでもないはずです。

“見せしめ”が同調圧力を生む

自粛

 改正新型コロナ対策特措法が施行されれば、ますます政府の力は強まっていきます。「コロナ対策の一環」だと言われれば反論しがたい空気がつくられていきます。

 1月17日に行われた大学入学共通テストで受験生が、監督者からマスクで鼻まで覆うように6回にわたり注意を受けても、指示に従わなかったとして不正行為と見なされた事件がありました。

 こうしたニュースが“見せしめ”のように使われ、「コロナだから仕方が無い」という諦めのなかで、さらなる同調圧力を生まないことを心から望みます。

時短営業中

 感染したら、だれだって休みたいと思います。休んでも生活が回り、経済的に保障されるなら、ほとんどの人が入院や休業を選ぶはずです。 よほどのことがなければ、入院拒否などしたくはないでしょう

 しかし、経済的な理由や子育てや介護など生活上の理由から、休業や入院が難しい人は少なくないはずです。

 それを法を改正して「罰する」というのですから、驚きです。