そして何より、不満を持ちつつもオリンピックムードに酔う多くの国民の感覚も、私には理解できませんでした。

国民に行き渡るだけのワクチン供給さえできず、「オリンピック最優先」で日常生活の制限までされているのに、オリンピックが始まるやいなや、街頭インタビューでは「家に帰ってテレビを見るのが楽しみ」だの「日本選手の活躍にワクワクする」といったコメントをする人たちがいました。

関連グッズも飛ぶように売れたそうです。開会前の8倍にも上る勢いだったとか(『Yahoo!ニュース』21年7月28日

英雄や権力者、理想とする人物を真似たり、そういった人々と一体感を味わうことで、劣等感などの満たされない欲求を満たそうとする無意識の働きを精神分析では「同一化」と呼びます。

もしかしたら、多くの日本人が“満たされなさ”を抱えているという証拠かもしれません。

子どもたちは何を受け取る?

今回のオリンピックから、子どもたちはいったい何を学んだしょうか。少なくとも「多様性」も「調和」も「つながり」も学ばなかったことだけは確かでしょう。

「この時期の日本は温暖で晴天が多い」と嘘をついて大会を招致し、森善朗・前組織委員会会長の女性蔑視発言に代表されるパワハラやセクハラ、障害者や容姿への差別などが続出しました。

大会ボランティアの弁当を大量廃棄するなどの食品ロス、大学生をはじめとする子どもたちの動員問題もありました。

大会期間中にコロナ感染者が爆発的に増え、国民の生活と命を危険にさらしても、だれも責任も取ろうとしません。

「力がある者は何をしてもいい」

子どもたちはそんなメッセージを受け取ってはないでしょうか。

パラリンピックに子どもを動員?

こんな状況で、今度はパラリンピックを有観客にするかどうかの議論が行われています。

「小中高校生らが学校単位で参加する『学校連携観戦プログラム』の活用を求める動きがある」というニュース(『毎日新聞』21年8月8日)を見て、腰を抜かしそうになりました。

日本代表選手団の河合純一団長は8月5日に、千葉県庁を訪れ、パラリンピックの有観客へ積極的な姿勢を示していた熊谷俊人知事に子どもたちが観戦できるよう協力を求める要望書を提出したというのです。

思わず小説家で劇作家、俳優でもある筒井康隆氏のエッセイ『狂気の沙汰も金次第』(新潮文庫)というタイトルが頭に浮かびました。

オリンピックは中止にすべき

商業主義オリンピックとなってからどうにも受け入れがたかったオリンピック。しかし、今回ほどで強い嫌悪感を感じたことはありません。
本来の目的を失い、金と利権にまみれた祭典、そして不信と分断、差別と格差を募らせるオリンピックなど、金輪際、行うべきではありません。

おとなはテレワーク、大学生はオンライン授業。子どもたちの楽しい行事は「密になるから」「人の移動は減らさないといけないから」と、潰されているのに、どうして海外から大勢を呼んでのオリンピック開催は大丈夫だと言えるのでしょうか。

逆に、一般には「熱中症になるから激しい運動は避けよ」と言いながら、猛暑の炎天下でのオリンピック開催も解せません。
今回は、一部選手らの申し出で開始時間が変更になった種目もありますが、そもそも近年の東京の暑さを考えれば、この時期にオリンピックを開催すること自体が常識外れです。

二枚舌使いもここまで来るといちいち指摘するのもバカバカしくなります。

五輪関係者を外部と遮断するはずのバブル方式も穴だらけです。来日した五輪関係者らが、コンビニに出かけたり、宿泊ホテルの近くで「路上飲み」したりする姿が報道されています。

国民には、「不要不急の外出自粛や飲食店の時短営業、テレワークをしながら自宅でオリンピック観戦を」と言いつつ、オリンピック関係者らをはとバスツアーで“おもてなし”しようとしたり、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長は広島訪問。さらには迎賓館で歓迎のセレモニーを開くなど、もうあきれるばかりです。

まるで明治初期

国民を犠牲にして迎賓館でバッハ会長をもてなす報道を見て、鹿鳴館で白人をもてなしていた明治初期を連想しました。

西洋の文物を取り入れ、西洋人におもねって西洋文化を文明国だと認めてもらおうと必死に猿真似していた明治初期。あの頃と、日本という国はなにひとつ変わっていなかったのだと心からがっかりしました。

これでは一部の上流階級の権益とプライドを守るため、国民を犠牲にして戦争へと突き進んで行った時代と何ら変わりありません。

「オリンピックはスポーツの祭典でも、平和に寄与する祭典でもない」

今年の東京オリンピックほど、その事実を白日の下にさらしたオリンピックはかつてなかったのではないでしょうか。

世論調査によるばらつきはありますが、少なくとも6割強から多いものでは8割もの国民が反対し、東京では毎日1000人を超えるコロナの感染者数が確認されるなかでの開幕です。

7月30日には、3日連続で都内の感染者が3000人を超えました。医療体制も逼迫状態で、通常の医療への影響が心配されています。
同日、菅義偉首相は東京都と沖縄県の緊急事態宣言を8月31日まで延長すること、埼玉県、千葉県、神奈川県、大阪府に緊急事態宣言を出すこと、北海道、石川県、京都府、兵庫県、福岡県で、まん延防止等重点措置を実施しすることを発表しました。

ひとり黙々と課題をこなす毎日では、学べることは限られます。
“真の学び”とは、自らの力を伸ばし、その力を他者のために喜んで使えるよう、共感能力や好奇心を育てながら人格形成まで行うことです。

人格形成まで行う教育には、信頼関係や安心感が持てる他者との親密な関係が欠かせません。自分の成長を喜んでくれる仲間や、伸びた力を仲間のために使う経験、同じ場で、同じ空気を感じながら共に喜びを分かち合う一体感などが必要です。

どれもこれも画面越しのやりとり、オンラインでは得られないものです。

だから私たちの社会は、学校という教育機関をつくり、そこに信頼を置いてきました。学校が学習塾とは違う、ゆえんです。

とくにかわいそうな新入生

ところが、昨今は、「密を避ける」のがいいことと、対面授業もサークルもゼミもほぼ中止。新入生歓迎会や合宿などの行事も無くなり、せっかく大学に行っても「黙食の勧め」が各所に貼ってあり、「他者と接触するのは悪」というような空気感です。

なかには事務手続きや健康診断などで1~2回大学に足を運んだだけという学生もいます。

とくにかわいそうなのが去年の新入生でした。入学以来、一度も大学で授業を受けられていないという学生もいて、退学や休学に追い込まれるケースも見聞きしました。

自宅でたったひとり、ひたすら課題をこなすオンデマンド授業やライブ配信授業では、行き詰まりも感じます。地方出身者の中には、「オンライン授業なら実家に戻ろうと思ったが、親に周囲の目があるから帰ってくるなと言われた」という学生もいました。そんな状態で頑張って学べというのは酷というものです。

教育の原点の死滅

ワクチン接種が進み、コロナが収束した後はどうなるのでしょうか。「コロナ対策」として、各大学は遠隔授業のインフラ整備に多大なエネルギーと資金を投じました。
経済発展を望み、デジタルが大好きな政府も、そうした大学にたくさんの助成金をばらまきました。

いったん仕組みがつくられるとそれを止めることが難しいのは、コロナ禍で授業も満足に行えなかったのに実施された全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を見ても分かります。

2007年、43年ぶりに全国学力テストが復活するとなった頃は、競争をあおり、教育格差を広げて、点数稼ぎのためだけの教育や不正行為が横行することなると警鐘を鳴らす声も多かったのに、最近ではもうほとんどそんな声は聞こえません。

いつの間にか「やるのが当たり前」になり、その問題点すら指摘されなくなってしまったのです。

“真の学び”に必要なもの

真に学び成長発達するためには、師として、友として安心し合える人間関係が不可欠です。一方的で無機質なオンデマンド授業を常態化させ、どんな教育で、どんな人間を育てようとしているのか。

コロナを口実に、教育の原点が死滅させられようとしています。

去年くらいから、オフィシャルサイトの更新がほとんどできずにいます。

「おうち時間」だの「おこもりで時間が増えた」という人も多いのに、「いったい私は、何にこんなに時間を取られているのか?」と考えると、大きな要因は大学の授業のほとんどがオンラインになったことだと思います。

もちろん、新しい相談室(CAFIC 池袋カウンセリングルーム)を立ち上げたことなどもありますが、ダントツで時間を割いているのは、オンライン授業の準備です。

対面授業であれば、その場で資料を示したり、説明したり、ホワイトボードに書いたりすればいいことを、あらかじめコンテンツをつくりこまなければならなくなりました。

しかも私の場合、ほとんどがオンデマンド授業となったため、パワーポイントをつくってから、そこに音声を乗せていく必要があり、吹き込み作業というのも必要になります。

これが思いのほか、時間がかかります。去年などは、1コマ分の授業のコンテンツをつくるのに丸々1日はかかるという状況でした。

オンライン授業の評価

オンライン授業については、「好きなときに学習できる」「繰り返し学習できる」など、学生からの肯定的な意見も聞きます。

文部科学省が2020年12月に発表した学生調査でも、過半数の学生がオンライン授業の継続を望むという結果になっています。

しかし、私が学生から聞く生の声では、否定的な意見が大多数です。

「対面授業を増やして欲しい」「対面授業のほうが、圧倒的に頭に入ってくる」などという意見をよく聞きます。

“授業時間そのもの”だけでなく、休み時間や行き帰りに交わす友達との何気ない会話が「課題のヒントになる」とか、「勉強の仕方を知る機会になる」という意見もありました。

オンライン授業は、どうしても“ひとりで課題をこなす”作業になりがちです。
しかし、人間は感情の動物であり、関係性のなかで生きる生き物です。無機質で変化の無い空間で、ひとりで学ぶよりも、だれかと一緒に五感を使って、感情を動かしながら学ぶ方が記憶に残るし、深い洞察や思考に結びつくというのは当然のことです。

 子どもの人格形成にも有害です。
 アイデンティティをつくっていく時期に、こんなダブルスタンダードを突きつけられたら、子どもたちは混乱します。そして、「本音と建て前を使い分けることが大事」と学習し、「面従腹背で世の中を渡る」ことを覚えていきます。

突飛な頭髪も意見表明

金髪

 そもそも髪を染めたり、パーマをかけたり、目立つヘアスタイルにするのも、子どもの意見表明です。そうやって子どもは、「ねぇ、ねぇ、こっちに顔を向けてよ」と呼びかけています。

 子どもが気づいて欲しい思いつつ、心の中にしまっている思いは、「学校や先生への不満」かもしれません。「将来への不安」かもしれないですし、「両親が喧嘩ばかりで耐えられない」ということかもしれません。

いずれにせよ子どもたちは、自らは語れない、だけど聴いてほしい思いを「髪を染める」というたちで表現し、助けてくれる人間関係を求めているのです。地毛証明書は、そんな子どもたちの声を封じ、SOSを見えにくくし、周囲のおとなとの間につくろうとしている関係性を奪ってしまいます。

「愛する」とは「自由にする」こと

留守番

支配や管理によって子どもに言うことを聞かせようという風潮は、どんどん強まっているように思います。

 たとえば昨今、「子どもの安全」を理由に登下校にはおとなが付き添い、親が不在の放課後には送迎付きの習い事。「ひとりで留守番などとんでもない」と考える親が増えています。

 確かにそうやって子どもを監視し続ければ、「身の安全」は確保できるかもしれません。しかし、そうやって、ずーっとおとなの視線を浴び、道草をくうことも、ひとり自由に過ごす時間も、秘密をもつこともできないまま成長していくことが、「心の健康」を損ないはしないでしょうか。
 自分で自分の身を守る経験や、自分らしさを育てること、自ら何かをやってみようという意欲をそいでしまったりはしないでしょうか。
 支配し、管理することと、愛することは違います。「愛する」とは安心と自信を与え、子どもを自由にすること。そんなことを強く感じる、今日、この頃です。

また、2020年に施行された体罰禁止規定の後から、体罰容認から否定に転じた人たちに、その理由を尋ねたところ、「法律で体罰が禁止されたから」との回答者が2割弱いたというのも、驚きでした(体罰を容認する大人が約6割から約4割に減少――セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの調査結果)。

「法律で禁止されたから体罰は良くない」ということは、逆に言えば、法律で体罰を容認すれば「やってもいい」ということです。それは体罰や虐待が子どもにどんな影響を与えるのかとか、子どもを力で支配することのダメージなどについは、関心が無いということにはならないでしょうか。

体罰

約4割のおとなが「しつけのため」として子どもに体罰を行うことを容認していることが、公益社団法人のセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの調査(全国の20歳以上、2万人が回答)でわかりました。
 
その内訳は、「積極的にすべきだ」が0.9%、「必要に応じて」が7.8%、「他に手段がないと思った時」が32.6%で、合計41.3%になります。

前回調査(2017年)から2割減ったものの、けして少ない数字ではありません。

ダイバーシティ

 今も日本にはだれもが「その人らしいオリジナルの人生」を生きることを阻む仕組みや考え方がはびこっています。差別されているのは、決して女性だけではありません。

「年を取っているから」
「障害を持っているから」
「子どもだから」

 そんな理由で、私たちの社会は相変わらず差別を繰り返しています。「力が無いのなら文句を言うな」「自分で稼げないやつは黙って従え」という、強者の論理を振りかざしています。

「森発言」は、こうした日本社会が隠そうとする差別思想の、氷山の一角に過ぎません。