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本来、政治家の仕事は、“人の傷み”をくみ取り、それを政治の中に生かすことであるはずです。

それにもかかわらず、働けない人、健康でない人、「たらたら飲んで、食べて、何もしない」(麻生首相)でしか生きられない人の苦しみを理解しようとせず、なぜ彼らがそうした中で暮らしているのかを検証しようともしないまま、「健康維持も個人の努力」とばかりに「自分は努力をし、たくさん税金も払っている。それを努力しない人間のために使いたくない」などと言うなんて、政治家としての資質を問われるべき発言です。

戦前に大量の朝鮮人労働者を強制連行し、ただ同然で働かせて利益を上げた麻生炭鉱を土台に発展し、九州屈指の企業グループの御曹司として生まれ育った首相(マスコミが書かない麻生財閥の深い闇)。その「特殊な生い立ちが成せる技なのか」などと、うがった見方もしたくなってしまいます。

暴力の連鎖が止まりません。
9月には、秋葉原事件(「絶望と自殺」参照)の話を書きましたが、それからごくわずかな期間に、大阪市の個室ビデオ店放火事件、元厚生事務次官家族の殺害事件など、直接的には関わりのない他者を破壊しようとする事件が相次いでいます。

子どもの暴力も増加

子どもたちの暴力も増加傾向です。
今月20日に文部科学省が発表した問題行動調査によると、小学校から高校までのすべてで暴力行為が過去最多となり、5万件を超えました。

調査対象を国立・私立まで広げたことや、報告すべき暴力の定義を広げたことも増加の
一因とされていますが、前年に比べて18%も増えています。
中でも小学校での増加が著しく、なんと37%の増加です。

なぜ、こんな暴力社会になってしまったのでしょうか。

その意味を考える前に、「どういう社会をつくっていくのか」に対して、大きな責任を持つはずの政治家の話から始めたいと思います。

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閑話休題。
もう一度、ミーちゃんという“世話される弱い存在”に目を向けてみましょう。

ミーちゃんが地域にもたらしたもの。・・・それは「人間らしさの回復」です。ミーちゃんという小さき者が、私たちの感情を揺さぶり、共感能力を引き出し、結果的に、地域に人と人とのつながりをもたらしました。

「世話をしたい」と思わせる弱い存在。その存在こそが、私たちが見失いがちなものを教え、関係性をもたらし、孤独から解放してくれることを証明したのです。

世知辛いこの世の中。ともすれば「だれかと支え合って生きる」という人間らしさが忘れられてしまいがちです。
そうした今の社会においては、ミーちゃんのような存在。それはまさに地域になくてはならないものなのです。

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image_081111.jpg 今、私たちの社会は「何でも自分で出来る人間」=「自立的な存在」をもてはやします。

だれかに食べさせてもらったり、甘えたり、頼ったりすることは「子どもっぽいこと」とされ、たったひとりで生きられる人間になることが「いいこと」とされます。

自分でお金を稼ぐことが出来ず、身の回りのことができず、人の手を借りなければやっていけない人間を「ダメな(甘えた)人間」と呼びます。子どもに対しては指導、しつけ、教育をして、一刻も早く「おとなにしてあげる」ことが愛情だと考えられています。

とくに新自由主義と呼ばれる、自己決定と自己責任を個人に押しつける考えが席巻する今日において、この考え方は顕著です。

そこでは“世話される弱い存在”は、あってはならないもの。もしくは価値のないものであって、ただのお邪魔虫(やっかい者)に過ぎません。

こうした社会の考えを内面化し、相談に来られるクライアントさんの中にも「自分は自立できていないダメな人間だ」という罪悪感でいっぱいの方も多くおられます。

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image_081105.jpg 商店街の店同士のご近所づきあいも盛んになりました。
「ミーちゃん見た?」を合い言葉に、ミーちゃんの話題を通して、さまざまな会話が繰り広げられるようになったのです。

通行人の方々を始め、あちこちからキャットフードが美容院に届くようになったことも、ご近所づきあいを促しました。
あまりにも大量のキャットフードが届くので、美容院の人はミーちゃんにご飯をあげている他の店にも配りました。

すると、今度は配ったお店の人が「ミーちゃんファンのお客さんが置いて行ったから」と果物を届けてくれたり、「市場で安売りしてたから」と、いろいろな物を分けてくれたりするようになりました。
また、ミーちゃんの避妊手術をした金物屋さんは、旅行のお土産やケーキを持って美容院に遊びに来るようになり、ミーちゃんを発見した女性は時間があると美容院に立ち寄るようになりました。

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地域総動員でミーちゃんの捜索を開始してから約一月半がたった頃です。あるひとりの女性が美容院を訪れました。
近所の猫好きの方から
「最近、お宅にご飯をもらいに来る猫のポスターを駅前あたりで見た気がする」
と聞き、気にしながら習い事に向かう途中、ポスターが目に留まったとか。

「ここ1〜2ヶ月くらい家にご飯を食べに来ている猫だと思います。人なつっこい猫だし、首輪もしていたので気になっていました」

そう話す女性に
「今度、ご飯を食べに来たら、ミーちゃんを捕まえておいてください」
とお願いし、その夜、数人で引き取りに行きました。

しばらくぶりに会ったミーちゃんは、少し痩せたようでした。一回り小さくなって、体も汚れ、怖い目に遭ったのかちょっとオドオドしていました。連れて帰る途中の車の中で、何度も不安げに「ナ〜」と、かぼそい声で鳴きながら、窓の外を見ていました。

心配していた商店街の人たちのお店にミーちゃんを連れて報告に行くと、みんな商売そっちのけで外に出てきました。涙を浮かべながら、「どこにいたの?」「よく戻って来たね」と、代わる代わる声をかけます。まだよく事情が飲み込めないらしいミーちゃんはキョトンとしたまま、みんなの腕に抱かれていました。

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毎日、出勤前と帰宅時にご飯をあげていたOLさん姉妹は、土日になると自転車を飛ばして近所を探して歩きました。日々の寝床を提供していた美容院の人たちは空き家やビルの隙間を捜索。
いつも美容院に来ていたあるお客さんは、「遠くで見かけたこともあるから」と、半径1キロ以内を探して歩きました。
美容院の経営者は、「遠くに連れて行かれたかもしれないから・・・」と、休みの日に車で、野良猫が多いと評判の公園や河川敷なども見に行きました。

割烹屋さんの板前さんが「隣駅のスーパーの駐車場で似た猫を見た」との情報が入り、一縷の望みをかけて私も探しに行きました。

それ以外にも相変わらず大勢の人が、美容院のドアを開けては「ミーちゃん、見つかった?」と声をかけて行きました。

いつもミーちゃんと会うことが楽しみで母親と一緒に美容院に来ていたという幼稚園の子は、

「だれかに連れて行かれちゃったのかな? 猫は意地悪すると化けて出るっていうから、そういうことした人は怖い目に遭うよ」

と泣いていたとか。

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捜索開始

隣の飲み屋さんや、道を挟んだ隣の八百屋さん、向かいの割烹料理屋さんや数件先の居酒屋さんなどと声をかけあい、それぞれの店に来るお客さんにも聞いてみたりしながら、ミーちゃん探しが始まりました。

まずは自治体の動物保護しているセンター(昔でいう保健所)や、警察などに連絡。ミーちゃんらしき猫が保護されていないか確認しました。次に迷子のポスターをつくることにしました。実は私も、このポスターづくりを手伝いました。

ところが、困ったことに肝心のミーちゃんの写真がありません。みんな「前の携帯電話に保存していた」とか「昔のパソコンに取り込んでいた」などと言い、今は持っていないというのです。

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image_080926.jpg その猫は、駅前の商店街で暮らしている三毛猫(女の子)。
商店街の人々や通行人がご飯をあげ、雨宿りの場所を提供し、避妊をし、かれこれ10数年、そこで暮らしています。いわゆる「地域猫」です。

駅前開発や店主の引退などでかわいがってくれていた人が去っても、また別にかわいがってくれる人を見つけては、地域猫としてたくましく生きてきました。
だれが付けた名前か分かりませんが、みんな「ミーちゃん」と呼んでいます。

人間で言えば、おそらくもう70歳くらい。かつて交通事故に遭ったため、左前足が内側に曲がっています。
でも、まだまだ元気。ものすごい早さで駐車場を走ったり、フェンス越えもなんのそので自由に動き回っています。食欲も旺盛で、いつも通る人に向かって「ごは〜ん、ごは〜ん」と鳴いています。

最近、「地域が崩壊した」と言われることが多くなりました。
ただ、個人的には「崩壊させられた」という感が強くあります。

たとえば、学校を中心とした地域社会の崩壊について考えてみましょう。

その原因のひとつには、学校選択制や学校統廃合などが進んだことがあります。住んでいる場所から遠いところに通う子どもが増えれば、当然、保護者同士のつながりが薄れます。教師には家庭訪問しにくくなり、通学中の子どもが地域の人から声をかけられることも減ります。教師は、校外で子どもたちが何をしているのか分からなくなります。