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「人の顔色を見て、人に合わせて、嫌われないように生きていくのに疲れ、耐えられなかった。すべてを終わりにしたかった」

『東京新聞』(8月8日付け:埼玉版)に載っていた先月19日に父親を殺害した埼玉県川口市の中学生の供述です。

新聞には「『人からどう見られるかが、とても気になる』と自己分析する性格で、『勉強は好きでなかったが、両親によく思われたかった』と小学校時代から塾に通い、中学受験してさいたま市の中高一貫校に進んだ。入学後も友人や両親の目が気になった」とも書かれていました。

自殺も考えたそうですが「家族が周りから自殺した子の親や弟と言われる」と、人の目を気にして思いとどまり、家族全員を殺害することにしたそうです。

そのように結論を出しても何度も決行を思いとどまった中学生が犯行に及んだ理由は、事件当日に保護者会が予定されていたためでした。新聞には「期末試験の成績が分かり、怒られると、自分も両親も嫌な気持ちを持って死ぬことになる」と書かれています。

家族については「今でも『家族のことは好き』と話している」とのことです。

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image_080812.jpg 私がよく知っている大学生にこんな女の子(A子さん)がいます。

A子さんは、大企業に勤める父と教師の母、妹の四人で暮らしていました。母は教育熱心、ボランティア活動などにも精を出す人で、親戚には大学教授など社会的に高い地位にいる人物も多い家系。端から見ると理想の家族で、おそらくA子さんの両親もそう思っていたことでしょう。

ところが15歳のとき、A子さんは「ここにいたら死んでしまう」と、家を出て知人宅へ転がり込みました。
そのときの心境を次のように語っています。

「暴力を振るわれたり、ご飯をもらえないなんてことはなかったけど、ずっと『自分は受け入れられていない』と感じながら生きてきていました。親から温もりとか安心感を受け取ったことがないんです。家にいてもいつも自分をつくって、親に気に入られるよう振る舞っていました。話をするときも親が一方的に、自分の言いたいことを話すだけ。私の言い分を聞こうともしませんでした」

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万が一、少年事件の容疑者が自分と同じ側にいる“普通の人”なんていうことになったら一大事です。

特殊な病気や障害のせいにできないのですから、理にかなった原因があると考えなければいけなくなります。「問題行動」という言語化できなかった子どものメッセージをきちんとくみ取る必要に迫られます。

これは思いの外、大変です。
当の子ども自身、自分の行動の裏にある真意に気づいていないことが多々あります。

前回の「絶望と自殺」では、「孤独と絶望の中で生きている子どもたちの痛みに向き合える社会に変わっていかない限り、第二、第三の秋葉原事件が起こる」と記しました。

まるでそれを裏付けるように、ここのところ10代半ばの子どもたちによる事件が相次いでいます。

7月16日には山口県の中学二年生が「親に恥をかかせたい」との理由で起こしたバスジャック事件があり、19日には埼玉県に住む中学三年生が父親を刺して死亡させる事件がありました。また29日には、中学校教師が卒業生に刺されて重傷を負うという事件も起きました。

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秋葉原事件の容疑者の養育環境はどうだったでしょう。
報道から推測する限り、彼の家庭は今の社会に適応し、そこで成功できるような「良い子」を求めるものだったように見えます。

おそらく、彼は小さな頃から自らの欲求(「他者との関係を求める叫び」)を無視されたまま、社会の価値観を体現した親の要求に応じるようしつけられ、その期待に応えるべく努力してきた人間だったのでしょう。

傷ついたときにほっとできたり、つらい目にあったときに逃げ込んだりできるような安全な居場所。「自分は自分のままで価値がある」と思え、助けを求めることができるような他者との関係を彼は持っていたのでしょうか。

たぶん彼にとって他者とは、絶えず要求を突きつけてくるもの。その要求に応えられなくなれば簡単に切りすてるもの。自らを搾取し、孤独へと追い込むもの・・・そんな対象でしかなかったのではないでしょうか。

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ところで、ここのところ「死刑になりたい」ーーそんな動機で、見知らぬ他人を殺める事件が相次いでいます。いわば「他者の力を借りた自殺」です。

自殺願望を持つ人の増加は統計からも明らかに読み取れます。
内閣府が5月に発表した「自殺対策に関する意識調査」では、20歳以上の男女の約20%が「本気で自殺を考えたことがある」と答えています。最も多かったのは30代(27.8%)と20代(24.6%)でした。
また、警察庁の統計(06年)では自殺者は3万2155人。9年連続で3万人を超えています。

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「自分に価値がある」と思うことができなかった宅間死刑囚の子ども時代は、かなり過酷なものだったようです。

宅間死刑囚とその兄は、父親から棒でたたきのめされる毎日の中で育ちました。母親には父親の暴力を止める力はなく、血まみれの母親の姿を見ながら大きくなったようです(「加害者に潜む家族内部の暴力」 『世界』2003年3月号)。

兄は、事件の2年前に自殺しています。宅間死刑囚も、犯行の直前にネクタイで首をつったそうです。父親に「しんどい、メシが食えない」と言ったら「首でもくくれ」と言われたためでした。
しかし、結局、宅間死刑囚は自らネクタイをほどき、自殺を断念します。

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080618.jpg 秋葉原の事件が起きた6月8日は、7年前に大阪教育大学附属池田小事件に乱入した男に、小学生8人が無差別に殺されるという事件が起きた日でした。
それが単なる偶然だったのかどうか。今の時点では分かりませんが、秋葉原事件の容疑者の書き込みには、

「犯罪者予備軍って、日本にはたくさん居る気がする」(06/05 11:51)
「ちょっとしたきっかけで犯罪者になったり、犯罪を思いとどまったりやっぱり人って大事だと思う」(06/05 12:02)
「人と関わりすぎると怨恨で殺すし、孤独だと無差別に殺すし難しいね」 (06/05 12:04)
「誰でもよかった」 なんかわかる気がする (06/05 12:05 )

などと書かれています。
少なくとも容疑者が、無差別殺人を行う人間に共感を寄せていたことは事実でしょう。自分が殺人者になってしまうのではないかという恐れを抱きながら、ぎりぎりのところで踏みとどまっていたことも分かります。

気になるのは「やっぱり人って大事だと思う」という一文です。
言葉が足りないので、真意のほどが定かではありませんが、自分が殺人者になってしまうことを止めてくれるような人、自分のことを「特別」だと思い、気にかけてくれるような人を求めていたように思います。

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    • 表面だけの薄っぺらなつきあい (06/03 10:45)

 

    • いつまでたっても一人 (06/03 13:29)

 

    • ただいま、と、誰もいない部屋に向かって言ってみる (06/03 17:53)

 

    • 待ってる人なんか居ない 俺が死ぬのを待ってる人はたくさんいるけど (06/04 08:34)

 

    • 俺にとってたった一人の大事な友達でも、相手なとっては100番目のどうでもいい友達なんだろうね その意識のズレは不幸な結末になるだけ (06/04 10:46)

 

    • 味方は一人もいない (06/04 15:52)

 

    • どうせ何をしても「努力不足」って言われる (6/05 04:37)

 

    • 別に俺が必要なんじゃなくて、新しい人がいないからとりあえず(クビは)延期なんだって (06/05 04:53) ※( )内は筆者が加筆

 

    • 結果がでないのに続ける奴はバカ (06/05 05:38)

 

    • どうせすぐに裏切られる 嫌われるよりなら他人のままがいい (06/05 18:57)

 

    • 俺には支えてくれる人なんか居ないんだから (06/05 18:57)

 

    • 「死ぬ気になればなんでもできるだろ」
      死ぬ気にならなくてもなんでもできちゃう人のセリフですね (06/07 19:36)

 

ギリシャ神話に登場する人物にシーシュポスという人がいます。
彼は、その犯した罪により神々から、「巨大な岩を山のふもとから頂上まで転がして運ぶ」という罰を与えられます。
彼が苦労して運び上げた巨石は、あと少しで山頂に届くというところで底まで転がり落ちてしまいます。そのため、彼は再びこの巨石を一から運び上げる作業をしなければなりません。

永遠に繰り返される作業。先の見えない、終わりのない孤独な労働。・・・それが、シーシュポスに与えられた罰でした。
このことから「シシュポスの岩」は「(果てしない)徒労」を意味します。