今回は、子どもの権利条約から見た家族の問題を書きたいと思います。

1994年に日本が批准した子どもの権利条約は、虐待や親の病気など、特別な事情があって親が面倒を見られないということがない限り、子どもと親の分離を禁じています(第9条)。

たとえ両親のどちらかが日本人でなかいとしてもまったく変わりません。どんな子どもも、すくすくと成長できるように、身の回りを整えてもらったり、愛情を注いでもらったりする権利を持っています。

もし、経済的な理由や国籍などの問題で、親がこうした愛情を注ぐことが難しい場合には、国が親を援助する義務もあります。

家族というハコモノよりも、そこに暮らす子ども一人ひとりの思いや願いを大切にする子どもの権利条約らしい条文です。

ところが、日本はこの9条を認めることを留保しています。
これもまた、子どもよりも家族を重んじ、前回のブログで書いたような“偽りの家族”が増殖する土壌を築いてきた日本らしい話です。

国連「子どもの権利委員会」は、2度に渡る子どもの権利条約に基づく政府審査で、こうした日本政府の態度に懸念を表明しています。

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でも、残念ながら「家族になるためには努力が必要」と思っている人は、日本ではそう多くはありません。

大多数は「夫婦・親子を中心とする近親者によって構成された家族は情緒的なつながりを持っているはず」と思い込み、下手をすると「血が繋がっているのだから何でも分かかり合えるはずだ」とまで思っていたりします。
戸籍を同じくする家族でさえあれば、思いを口になどしなくても、日々の暮らしという積み重ねなどなくても、すべて通じ合うと、本当に信じていたりします。

養子縁組ではない養育家庭里親が増えない理由も、そんな幻想を抱く人が多いことに由来しているように思えます。
「家族になろう」と、端から見て頭が下がるほど頑張っている養育家庭の里親さんの中にも、「実の親ではない」ことに引け目を感じているように見える人もいらっしゃいました。

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人はだれの助けも借りず、支えもないままに、たった一人で生きていけるほど強い生き物ではありません。

確かに今の日本において、過酷な競争や生き残りレースにさらされずに生きることは困難です。でも、だからこそよけいに、だれもがホッと出来る場所、弱さを見せても安全な相手、自分をきちんと抱えてくれるだれかを必要としているのではないでしょうか。

エネルギーの“もと”を生み出すのが“家族”

「ネットから卒業すれば幸せになれるという人が居ます
私の唯一の居場所を捨てれば幸せになれるのでしょうか
すなわち、死ね、ということなのでしょう」

そう記したのは、昨年6月に起きた秋葉原事件(7人が死亡、10人が重軽傷)の容疑者でした。
彼もまた、安全な場所を手に入れることなくおとなになった孤独な人間でした。

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ホームレスとして生きざるを得ない寂しさ。そして孤独・・・。
その現実を痛感したこんなエピソードもあります。

ホームレスや日雇い労働者、路上生活者と呼ばれる方々が多く暮らすある町の繁華街。そこを夜の8時過ぎくらいに、もうかなり長くホームレス支援活動をしているボランティアさんと見回っていたときのことです。
季節は冬。行き倒れになっている方に声をかけたり、救援をするというお仕事でした。

飲み屋はまだ空いているのに、店の中には空席が目立ちました。道端に座り込んで飲んでいる人もほとんどいません。ときに泥酔した人が倒れていたり、かなりいい気分で歌ったり、だれにというわけでなく演説をぶったりしている人はいましたが、町全体としては「もう真夜中」という雰囲気でした。

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当時、私は月に数回ほど東京の北東部にあるキリスト教会が行っていたホームレス支援ボランティアのお手伝いをしていました。
週末には公園でおにぎりやお味噌汁を配り、ウィークデーの夜には川沿いのダンボールハウスやテントを回り、そこに暮らす方の体調確認などをしていたのです。

ホームレスの方々の中には、何度か顔をあわせるうちに自らの過去や思い出話をしてくれる方もいらっしゃいました。

もともとは冬の時期だけ出稼ぎに来ていた東北出身の人、「いなかでコツコツ働くよりも」と、日銭の稼げた時代に東京まで流れて来た人、50代を過ぎて日雇いの現場が無くなってしまった人、体調を壊して働けなくなった人・・・いろいろな境遇の人がいました。

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でも私には、そうした一般的な定義がどうもピンとこないのです。
たとえ夫婦や親子でなくても、いえ、夫婦や親子でないからこそ、「成員相互の感情的絆」に基づいて日常生活を共同に営むことができる小集団があります。

たとえば昨年12月末にNHKで放送された『特集 ドキュメントにっぽんの現場「平成長屋の住人たち」』。いわゆる赤の他人同士が暮らしているにもかかわらず、そこには私たちが「家族」に求めてきたような安らぎや思いやりがあります。

また、頼る人の無い方が自立した生活を始められるよう、孤立しないよう、アパート入居時の連帯保証人提供の相談から地域社会への復帰、友達づくりまでをサポートする「自立生活サポートセンター もやい」に集う人々を見ると、助け合う確かな絆が感じられます。

あけましておめでとうございます。
新年のごあいさつがすっかり遅くなりまして失礼致しました。いつの間にか鏡開きも過ぎてしまいましたね。

それにしても、新年のあいさつをさせていただくのはこれで三回目。・・・ということはこのブログも三年目に入ったというわけで、なんだか感慨無量です。

海の幸を堪能

image_090114.jpg このお正月を使って、私は宮城に住むいとこのところに愛犬(ゴールデン・レトリバー)を連れて遊びに行ってきました。

期待していた雪は思いの外、少なく、雪遊びはできませんでした。海と雪が大好きな愛犬はちょっとガッカリ顔。彼女は二年前、新潟に行ったときくらいの雪を期待していたようです(写真参照)。

でも、「その代わり」と言ってはなんですが、この時期にしかない海の幸を堪能。ホッキ飯や牡蠣せいろ、貝ずくしのお鮨などをいただき、人間の方はかなり満足の旅行でした。

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子どもの権利条約に基づく第一回目の日本政府報告審査(1998年)で、国連「子どもの権利委員会」が「成長発達のすべての場で、日本の子どもたちは競争(管理)と暴力、プライバシーの侵害にさらされ、意見表明を奪われ、その結果、発達が歪められている」と勧告してから10年。

当時、国連「子どもの権利委員会」が、子ども(若者)と呼んだ人々の中には、すでに30歳以上となった人もいます。
そうした世代の多くが、前回のブログで書いたように、透明人間のように扱われ、言葉を奪われ、自らを殺して生きざるを得なかったと考えるのは考えすぎでしょうか?

でも、私は確かに聞いたのです。多くの子どもたちの「酒鬼薔薇化(少年A)の気持ちが分かる」というセリフを。
たとえばその一人で、当時、少年Aと同じ年だった女子高校生は、こんなふうに言いました。

こうやってずーっと競争させられて、まわりを見ながら生きて、そうしたら「ほっとできるのなんて、定年退職してからじゃん」って思ったら、なんか嫌になっちゃったよ。社会が変わるっていうか、変えられることなんかあるのかな?

彼女の後ろには、おとな(社会)への期待を捨て、思いを飲み込み、自らの不遇を「自分の努力が足りないせい」としてあきらめようとする無数の子どもたちの姿が見える気がしました。

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詳しくは前回ご紹介した本を読んでいただくとして、少しだけ説明させていただきます。

文字に出会うまでの高野さんの半生は、「壮絶」のひと言につきます。

高野さんは、満州で父と死に別れ、引き上げの途中で母とはぐれ、泣き叫ぶ赤ん坊を自ら殺す母親の姿を見ながら日本に戻りました。

日本に着いてからは、元将校を名乗る男に物乞いの道具として利用され、文句を言ったところ殴られて捨てられ、次に拾われた農家ではほとんど飲まず食わずでこき使われ、嫌になって飛び出しました。わずか10歳の頃です。

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この橋下知事。自らが大幅にカットした私学助成金や、進む高校統廃合を見直して欲しいという高校生たち(「大阪の高校生に笑顔をくださいの会」)との意見交換会(10月23日)では、こんな発言もしています。

高校生:いじめを受け不登校になり、公立を諦めた。私学助成を削らないで欲しい。
知事:(私立は)あなたが選んだのではないか。いいものを選べば値段がかかる。
高校生:非常勤補助員の先生の職を奪わないで。
知事:世の中でどれだけ会社がつぶれて失業者が出ているか分かっているか?
高校生:税金は教育や医療、福祉に使って。
知事:あなたが政治家になってやればいい。
高校生:学費がなくて夢をあきらめる子もいる。
知事:夢と希望を持って、努力すれば今からでもできる。
高校生:倒れた子はどうなるのか?
知事:最後には生活保護がある。受けられないのは申請の仕方が悪い。(自己責任が嫌なら)国を変えるか、日本から出るしかない。