人は、ひとりぼっちでは生きていけない(3/5)
幼い子どもでさえ「子どもらしく」振る舞うことが否定されるのですから、大のおとなが甘えることを許されないのはまったくもって当然のことです。
今まで以上に、誰かに頼ったり、弱みを見せたりすることは「いけないこと」とされ、何でも自分ひとりでできるようになること、そのために努力することが「いいこと」と考えられるようになりました。
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弱さを見せることは負け
そうした社会・・・競争によって利益を奪い合う社会、弱さを否定してひたすら前身すすることを求められる社会では、弱さを見せることは負けを意味します。
だから、だれもが「たったひとりでも生きられる完璧な自分であろう」として汲々としています。
「完璧であろう」とするから、困ったことがあっても助けを求められない。
自分ひとりではどうにもならないときに、他の人の力をきちんと利用できない。
とにかく“自立”した人間であろうと頑張るから、人に頼ることは「依存」だと考える。
弱みを隠して仮面をかぶり、何でもひとりでやろうとするからだれともつながれない。
「だれかに頼りたい」と思う自分を「情けない」と責める。
そんなふうに考えて頑張り続け、苦しんでいるクライアントさんはとても多いように思います。
でも、自分を叱咤激励しながら「完璧を目指そう」としても、無理は続きません。
よしんば無理に頑張り続けることが出来たとしても、その“ゆがみ”は、心や体、人間関係など、さまざまなところに現れます。
おとなにも安全基地が必要
私たちは、自分をそのままで受け入れてくれる他者ーー金持ちだとか、能力があるとか、容姿が美しいとかなどのいっさいの条件無しに、自らを認めてくれる他者ーーとの安心できるつながりがあって始めて、「自分はかけがえのない存在だ」という確信を手に入れることができ、けして楽なことばかりではない人生を生き抜いていくことができます。
子どもであれば、たとえ何もできない存在であっても「あなたが世界一愛おしい」と言ってくれ、安心して身を委ねることができるおとな(安全基地)が必要です。
子どもは安全基地となるおとなとの関係性を通して、その対象と同一化し、たとえそのおとなと離れていても、いつでも一緒にいて「守ってもらえている」という感覚を育てることができます。
おとなになれば、子どものように一方的にだれか頼るということは難しくなりますが、一切の条件無しに、お互いに頼り合い、支え合い、甘え合うことができる他者ーーお互いに安全基地となれる他者ーーとの関係性を通して、安全感や安心感を持って生きて行くことができます。(続く…)