暴力的な社会(2/7)

2019年5月29日

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かつて「生育歴が無視される裁判員制度(5)」というブログを書いたときには、「裁判員制度が導入されれば少年法が骨抜きになる」と書きました。

しかし、今回の光市事件の元少年への死刑判決は、私に「少年法は死んだ」という現実を突きつけました。しかも「死亡被害者がふたりで死刑」という、成人同様の厳しい判決です。

最高裁判所という、国の最も権威有る、国の基準をはかる機関による少年への死刑判決は、とうとう日本という国が“おとな”とは違う“子ども”という存在を公然と否定してはばからなくなってしまったことを思い知らされました。

少年法とは

もともと少年法は、うまく成長発達することができなかった未成年者のやり直しを目的とした法律です。
だからこそ、刑罰よりも教育・保護・更生(要保護性)に力点を置き、生育歴や資質などをていねいに検討したうえで、少年の成長発達をうながす処遇を導くように定められています。少年の「立ち直りの可能性」が焦点にされてきたのもそのためです。

ところが今回の判決は、「重視されるべきは結果」であって、「少年の成長発達の度合いや立ち直りの可能性ではない」という判断をくだしました。

“子ども”と“おとな”は違う

子どもはおとなに比べ、あらゆる能力が未熟です。もちろん、年齢や成熟度に応じて異なりはしますが、おとなと同じ尺度で、子どもの決定能力や責任能力を測ることはできません。

子どもは、おとなのように合理的にものごとを判断し、それにもとづいて自分の意志で何かを選択し、その結果責任を引き受ける能力がないからこそ“子ども”なのです。

だから、国際社会は「子ども特有の権利が必要である」と考えました。おとなと比べてあらゆる意味で自分を守ることができず、能力的にも未熟である子どもが、おとなからの搾取や支配などの暴力にさらされないよう、子ども自身が自らの力で自分らしく人生を豊かに、幸せに生きていくための力になるよう、子どもの権利条約という国際的なルールを定めたのです。

子どもの権利条約の理念も否定

ところが今回の最高裁判決は、こうした子どもという特殊性、子どもの権利条約の理念をきっぱりと否定しました。平たく言えば「成熟していない、責任能力のない者であっても、おとなと同じ責任を負わせろ!」と迫ったのです。

それはたとえば、片足の無い人と両足共に健康な人を同じ条件で競わせたり、重い荷物を持った人と身軽な人を競争させたりしておきながら、「その結果生じた不都合や不利益は本人の責任である」と言うのと同じことです。

こんなことが平気でできる社会を「暴力的」と言わずして、なんと表現すればいいのでしょうか!(続く…

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Posted by 木附千晶