暴力的な社会(3/7)

2019年5月29日

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もちろん、犯した罪の責任は負わねばなりません。
「子どもだから」と、人を傷つけ、殺めることが許されないのは当然です。

しかし、前回述べたように「責任を取ることができるおとなへの発達途上にある子ども」に対して、おとなと同等の責任を負わせること。うまく成長発達することができなかった未成年者から「生き直す機会」を奪うことが、「正義」と呼べるのでしょうか。

もっと言えば、たとえおとなの場合であっても「命をもって償わせる」ことは果たして「正義」なのでしょうか。
「犯した罪の責任」と「そのような人格にしか成長発達できなかった責任」は分けて論じられるべきではないでしょうか。


どの子も「愛され、愛したい」

生まれながらに、「自分は将来、殺人者になろう」とか「いつかは人を殺そう」と心に誓う人間はいません。愛されることだけを望み、関係性を求めて泣き叫ぶ幼い子どもの中に、そんな未来の姿はまったく見えません。

確かに、かの有名な精神科医・フロイトは人間の生命や文明文化などを破壊して「無」に帰そうとする、殺人や戦争をもたらす「死の本能(タナトス)」の存在を説きました。しかし、彼に続く多くの研究者はこの考えに否定的です。

そんな心理学の理論や論争などを用いなくても、ほんの少しでも子どもと親身になって関わった経験があれば、「どの子も愛され、愛し、だれかとつながりながら自分も他人も幸せにできるような人生を歩みたい」と思い、それに向けた可能性を秘めていることは手に取るように分かります。

「死の本能」ではない

虐待されたり、裏切られ続けたりして来た子の多くは、憎まれ口をきいたり、暴言を吐いたり、暴れるなどしておとなの神経を逆なでします。
愛された実感のない子の中には、火遊びや自転車での疾走などをして我が身を危険にさらし、すべてを破壊しようとするかのような行為をやってのける子がいます。

そうやっておとなを怒らせ、失望させ、無力感を味合わせるようなことを繰り返すのは、「このおとなは壊れないか(自分を見捨てないか)」を試さずにはいられないからです。

傷つけられ、裏切られてきた子どもであればあるほど、再び傷つくことに敏感です。うっかり信じて、もっともっと深く傷つくことが恐いから、「そう簡単に心を許さないぞ!」と防衛線を張り、いまにも砕け散りそうな心を必死に守っているのです。

「死の本能」によるものではありません。(続く…

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Posted by 木附千晶