「絆」って何?(2/7)
一方で、「家政婦のミタ」(日本テレビ)という、ほのぼのとした家族や従来からイメージされている絆の概念とは真逆をいくようなテレビドラマが高視聴率を得ました。
そのヒットの裏には、「かねてからある『絆』というものへのうさんくささを感じている層に訴えたのではないか?」との意見もあります。
たとえば、2011年12月23日付けの『東京新聞』では、同番組が描いたものを「家族崩壊後の現代的絆」と紹介し、「(略)ほのぼのとしたドラマだとうそっぽい。簡単には解決しない状況の中で、それでも希望を見いだしたいという視聴者の気持ちに沿う筋立てだったのでは」と、藤川大祐・千葉大教授のコメントを紹介しています。
また、稲増龍夫・法政大教授は同記事で「震災後、ある意味『絆』が求められたが、それは昔に戻ることなのか、と疑問に思う人もいる。昔の親子関係や絆が崩壊したといわれる今、心の中に染みこんでくる昭和のコミュニケーションとは違う、優しくないミタのオウム返しは極めて現代的」と語っています。
昭和のコミュミケーションは心に染みこむ?
コメントを読んでいて、ふと疑問が浮かびました。
「『ミタ』で表現されたものが現代的絆だと仮定して、昭和のコミュニケーションは心の中に染みこんでくるようなものだったのか?」ということです。
「絆」や「家族」が叫ばれる昨今、一部では「かつての家族の在り方」をもてはやし、そうした家族に戻ることに抵抗感を感じているとの声も聞こえてきます。
そうした人々の多くは、今までの日本の家族が、けして「心の中に染みこむようなコミュニケーションがある」「ほのぼのとした」家族ではなかったと感じています。
おそらく、そんなふうに感じる人にとっての家族は、「窮屈な入れ物」であり、そこで交わされるコミュニケーションは「絆」と呼ぶよりも、「支配」と呼んだ方がふさわしい関係だっのではないでしょうか。
私も同感です。臨床の場でお会いする「生きづらさ」を抱えた方々の様子から察するに、昭和の家族の多くが、安心や自由を保障してくれる「絆」のある家族ではなく、「窮屈な入れ物」に過ぎない家族だったのではないかと思えるのです。(続く…)