歴史は心的外傷を繰り返し忘れてきた(8/8)
橋下流の強力なマネジメントなど導入しなくても、すでに教育現場には管理・統制が行き届いています。
管理・統制が、教師を追い込み、人と人との関係を分断し、人間らしい情緒的な営みを破壊し、子どもの成長・発達となる教師との関係を奪っています。その結果、子どもが人の痛みに共感したり、生命を尊重したりすることができるような人格に向け、成長・発達できる機会が奪われてしまったのです。
いじめは、このような非人間的な学校教育にむりやり適応を迫られたストレスや苦しさを訴える子どものメッセージです。
そこに産業界の望む人材育成しか頭にない橋下流教育マネジメントが持ち込まれれば、教員も子どもも、今よりもさらに追い詰められます。
直面化するのは辛いことだけど
私たちおとなが「よかれ」と思ってつくりあげた社会の中で、こんなにも子どもたちが苦しんでいると認めることはとても辛いことです。
私たちおとなが標榜する経済発展や社会の価値観が、いじめっ子を生みだし、いじめを助長していると認めるよりも、「いじめる子ども自身に問題があるのだ」と考え、いじめっ子を厳罰に処する方がはるかに楽でしょう。
いじめっ子と教育委員会、学校や教員をつるし上げ、警察の力を借りて取り締まりを強化すればよいのだとの主張に乗っかっていれば、社会全体が抱える問題、ひいては私たちひとりひとりの問題とも直面化せずにいられます。
ハーマンの言うとおり、「人は辛くなってしまう出来事をできるだけ見ないようとし、なるべく早く忘れようとする習性を持っており、加害者は強く狡猾なため、よほどしっかりと目を見開いていない限り、人は被害者よりも加害者側の味方になるもの」なのです。
命を賭けたメッセージに応えるために
しかし、そうやって真実から目を背け続けている限り、子どものいじめも、いじめ自殺もけっしてなくなりません。
それどころか、人々をだまし、己の利益追求にやっきになっている輩に、私たちの盲目ぶりが利用されてしまうことにもなります。
今こそ私たちおとは、しっかりと目を見開いて狡猾な加害者の嘘を見破り、「何が起きているのか」を見極めなければなりません。いじめの根本原因を絶つため、人と人との関係性が生きた人間的な教育へと立ち返らなければなりません。
それができてはじめて、いじめによって死を選ばざるを得なかった子どもたちが、命を賭けて発したメッセージに応えることになるのですから。